2019年09月16日

がんばらない



鎌田實(かまた・みのる)さんの本を読みました。Amazonを見ていて、タイトルが面白そうだと感じて買ったのです。どんな方だか知らなかったのですが、あとで調べてみると、テレビでよくお見かけしたお医者様だったのですね。

内容もよくわからなかったのですが、エッセイ集のようなものでした。学生運動に身を投じていた鎌田さんは、人々に優しい医者になるという信念のもと、損得を度外視して医師不足の信州へ行かれた。そこで、住民から喜ばれる医療というものを考え、実践してこられたのです。

2003年に発行された文庫本ですが、私が買ったのは2017年の第30版です。長い間、一定の支持がある本のようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

ぼくの大学時代の同級生に長谷川幹という、おもしろいリハビリ医がいる。彼が障害の受容についてこんなことをいっていた。
「障害の受容という言葉を医療人はよく口にするが、そんなに簡単なことではない。障害を受け入れてはいないが、日常的に、麻痺や障害などの回復する話が、あまり出なくなる状態と考えたほうがわかりやすい。そして、そのような状態になるのに、数年かかるのが普通だ」
 同感である。障害や死の受容はそんなに簡単ではない。研治くんも悪性リンパ腫であることを家族から話してもらったが、ひと晩だれとも口をきかなかった。ひと晩で受容したように見えたが、受容に軸足を置きながらも、「否認」や「怒り」や「取り引き」に、行ったり来たりしていたのだ。このジグザクがなんとも人間的で、いとおしい。
」(p.34)

スケート部で活躍してた研治くんは、親や家族を心配させたくない思い、なんで自分がこんな病気にという恨み言など、様々な思いが押し寄せたのだろうと思います。そういう思いを鎌田さんも理解して、見守っておられたのでしょうね。


たいした用はなかった。外出の日ぐらいどうにでもなったのさ。治らない病気だと知っていたら、じいちゃん一人にしないで、じいちゃんの布団のなかに入って、いっしょにいろんな話をしてあげたかったのに」と、たぬきのおばあちゃんは笑いながら話してくれた。
「いっしょの布団に入りたかった」か。いい話だなあ。ぼくは二人にそうしてもらいたいと思って外出をさせた。だけど「貧血」というぼくの嘘がそうさせなかった。ぼくが勇気を出して、白血病であること、命に限りのある病気であることを、たぬきのおばあちゃんに伝えていたなら、おじいちゃんは自分の家の、自分の部屋の布団のなかでひとりポツンとしていなくてすんだのだ。
 日本流のやさしさがつらい話は聞かせないという習慣をつくってきたが、告知をしないことは本当のやさしさだろうかと思った。
」(p.41)

おばあちゃんに白血病と知らせなかったのは、おばあちゃんが動揺しておじいちゃんに伝わってしまうから。それぞれの立場で、それぞれの考え方で、それぞれの判断があったのです。

しかし鎌田さんは、こういうことから、真実を知らせることが何よりも大切だ、という考え方に至ったのでしょう。真実を知らせることほど優しいことはない。私も、そう思います。


奥さんのお父さんが亡くなられた事例をあげて、鎌田さんは次のように語っています。

ぼくは自分の命のあり方を自分で決めていくことが、大切なことだと常々思っている。自分で決めるためには、本当のことを知ることが大切だ。本当のことをお互いが隠さずいい合えること、真実を語り合えることが、生き方を選択するためにも、決定するためにもどうしても大切だと思っている。」(p.43)

おじいちゃんの三年半の闘病で隠し事はひとつもない。おじいちゃんがうちに着て、ご飯を食べていても病気であることをみんなが知っている。みんなが大事にする。おじいちゃんもいよいよであることを知っているから、孫たちを大事にする。隠し事がないということがとても大事なことだった。」(p.53 - 54)

医療は今まで医師が絶大な権限をもって、患者さんそれぞれの生き方まで決めることがあった。しかし、そういうお任せ医療はもう時代おくれだ。自分の体に起きたことをよく知りながら、自分で自分のことを決めていく、自分の人生を自分色に染めて、デザインしていくということが大事だと思う。」(p.55)

人の尊厳は、自分の自由に決められることにある。そのためには、できるだけ真実を知る必要がある。まして、真実を知っていながら、それを隠すようなことはしてはならない。それが鎌田さんの信念になっていったようですね。


ぼくたちの始めた市民中心のデイケアは厚生省の目にとまり、厚生省で、ボランティアが撮ってくれた八ミリ映画の活動記録の上映会がおこなわれた。これがきっかけになったのだろう、それからしばらくして、デイケアやデイサービスの制度がつくられ、日本じゅうにデイサービスセンターができるようになった。
 命を支えるのに、こんなものがあったらいいなあという市民の単純な思いが、国の新しい制度をつくったように思う。
」(p.95)

自宅で介護するのが当たり前とされた時代、お嫁さんは休むことさえ許されませんでした。病院で預かるというデイケアなどは、鎌田さんたちのアイデアで始まったのですね。


「ぼくはこの地獄の板挟みのなかで、よしさんから大切なことを学んだ。七十になっても、人は人に触れていたい、触れられていたい。そんな思いだったのだろう。
「治療する」ことを「手当て」と呼ぶ。治療の原点はまさに手を当てて触れることなのだろう。よしさんのことはぼくたちに、その大切さを忘れるなよ、と語っていたような気がする。
」(p.99)

よしばあさんは、どうやら故意に鎌田さんの股間を触っていたようです。触られまいとする鎌田さん、何とか触ろうとするよしばあさん、2人の攻防は看護婦さんたちの間でも注目されていたとか。

しかし、そういうやり取りをしている間、よしばあさんは狭心症の発作が起きなかったようです。それが、鎌田さんが東京へ出張したところ、久しぶりに発作が起きた。鎌田さんは、ニトログリセリンよりも人との触れ合いの方が、体調を維持するのに役立ったのではないかと思われたようです。

私もレイキを母にしてあげた経験から、同じようなことを感じています。「手当て」とは、愛情表現なのです。


この本を読み始めたころ、購読している「みやざき中央新聞」に、鎌田さんの記事が載りました。何という奇遇でしょう。

その中で鎌田さんは、昭和23年に生まれ、親から捨てられたという話をされています。養父の岩次郎さんは、奥さんが心臓の病気で入院していることもあり、1日15時間働いて生活を支えていたにもかかわらず、鎌田さんを拾って育てたのです。

鎌田さんは、人間はこの「にもかかわらず」が大事だと言います。

そして、高校を卒業するころ、大学に進学したいと養父に伝えると、3度話して3度とも否定されたとか。大暴れした後、養父はやっと、自由にやっていいが、費用は自分で工面しろと言って、許してくれたそうです。

鎌田さんは、人間にはこの「自由」が大事だと言います。

テレビで拝見しただけの鎌田さんですが、温かくて優しい印象があります。鎌田さんが、様々な苦難を乗り越えてこられた結果、そういう人格が形成されたのでしょうね。そんなことを感じさせてくれる本でした。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:59 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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