2019年07月14日

比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか



これもかなり前に買った本ですが、ずっと積読してました。おそらく親鸞について興味を持っていたころに買った本だと思います。著者は宗教学者で作家の島田裕巳(しまだ・ひろみ)氏です。

本のタイトルにもあるように、この時代は次々と新興宗教が起こりました。そしてそのほとんどが、最澄が作った天台宗の比叡山から生まれたことになります。同時期に空海が作った真言宗もあったのに、そちらからは1つも新宗派が起こっていない。それも不思議な事だなぁと思って、興味を持ったのでした。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

こうした点からすると、空海はまさに当時の超エリートであったことになる。その証拠に、唐から帰国した空海は、嵯峨天皇と親交を結んでいる。それは、嵯峨天皇が空海の書を高く評価したからではあるが、空海がエリートでなければ、天皇と親しく交わるなどとでも不可能だろう。」(p.35)

空海は最澄とよく比較されますが、最澄がエリートなのに対し、空海は一般人だとされるのが定説です。しかし島田氏は、唐へ私費留学できるだけの資金を集められたことや、空海の書のお手本が高貴な人しか所有していなかったことなどをあげて、空海の方が最澄よりもエリートではなかったかと言うのです。


天台宗の立場は、徹底した平等主義であり、その点は高く評価することができるが、そうなると、一切の修行は必要ないということになる。さらに、誰もが究極的に悟りに達することができるのであれば、悪をなそうと、善をなそうと、どちらでも構わないということになってしまう。」(p.49)

天台宗は大乗仏教として、出家も在家も関係なく誰もが悟りを得られるという立場です。一方、法相宗というのは部派仏教(上座部仏教)の考え方が強く、人には能力の違いがあり、誰もが悟りに達するわけではないという考え方です。最澄は、法相宗の徳一と、激しく論争したそうです。

しかしその一方で最澄は、比叡山を修行の山として、厳しい修行を課しました。一方で出家も在家も同じだと言いながら、なぜ出家に厳しい修行が必要なのか? その疑問に最澄は答えていないようです。


源信が、地獄を凄惨なものとして描いたのは、それを読む者に地獄の恐ろしさを強く印象づけ、そこから逃れるため、極楽往生への信仰を実践するよう促すためだった。これは、他の宗教における天国についても言えることだが、理想の世界として極楽を描き出すことはかえって難しい。それに比較すれば、地獄の描写はたやすい。源信は、それを徹底したのである。」(p.86)

天台宗の高僧の源信は、極楽往生を果たすためのマニュアルという位置づけの「往生要集」を書き、そこに極楽や地獄の様子を詳細に記しているそうです。特に地獄の描写がより詳細になっており、これが後の地獄絵となっていくのです。

ここにも書かれているように、それは信仰を促すための方便と言えるでしょう。しかし、脅すことで自分が正しいと思う考え方(信仰)を選ばせるというやり方は、感心できませんけどね。


親鸞の実像というものを追っていくと、なかなか真実にたどりつくことができない。そこにもどかしさを感じる。一般には真実と見なされていることでも、根拠のあやふやなものが少なくないのだ。」(p.139)

浄土宗の法然の高弟と思われている親鸞ですが、どうもそうではないらしいと島田氏は言います。親鸞が残した著書には、法然の高弟にしか許されなかった「専択本願念仏集」の書写を許されたと述べたり、法然の真影(肖像)を写すことも許されたとしているのに、法然側の資料にはそのことが書かれていないそうです。


そこから、道元は日本の曹洞宗の宗祖となっていくのだが、本人には、曹洞宗を開くという意思もなければ、その自覚もなかった。
(中略)
 これは、他の鎌倉新仏教の宗祖全般に共通することである。法然には浄土宗という新たな宗派を開く意図はなかった。南都北嶺の側から、それを意図しているという批判を受けたときには、まっこうから否定している。法然を信奉した親鸞の場合にも、浄土真宗を開こうという意図はなかった。彼は「浄土真宗」という言い方をしているものの、それは師である法然の教えを受け継ぐ流れのことをさしていた。
 日蓮も、天台智(てんだいちぎ)や最澄に忠実であろうとした。後世に自分の名を冠した日蓮宗が生まれるとは、生前想像もしなかったに違いない。生涯を旅に費やした一遍ともなれば、宗派の創立など思いもよらないことである。
」(p.153 - 154)

誰もが宗祖を目指したわけではない、という指摘は驚きです。最澄や空海とは、まったく違うのですね。
これもあらゆる教義を学ぶことを重視した天台宗が元にあるからと言えます。その中で、自分がこれだと思う道に専念するようになると、それが1つの宗派となったのかもしれません。

旧仏教のなかには、南都六宗や天台宗、そして真言宗が含まれる。そこでは、それぞれの宗派の教えをもっぱら学ぶのではなく、「兼修」ということが一般的だった。天台宗と真言宗が誕生するまでは、六宗兼学が基本で、この二つの宗派が生まれてからは、八宗兼学が基本的なあり方になった。
 これに対して、鎌倉新仏教では、兼修、兼学ということを否定し、宗祖が開いた一つの道をもっぱら追い求めていくように変化したとされている。
」(p.155)

道元は純粋禅、法然は専修念仏、親鸞はその教えをさらに深化させ、一遍は踊り念仏を広めた。日蓮は、天台宗で最高の経典とされた法華経に特化し、念仏を否定した。このように、新しい宗派は、そもそもそれまでの宗派にあった教えの一部に特化しているのです。


書状のなかには、息子を失った母親の悲嘆を慰める、こころのこもったものもあり、そこにあらわれた日蓮の姿は、戦闘的な宗教家という一般的なイメージとはかけ離れている。また、見延期に書かれた激烈な他宗教批判の文章とも違う。日蓮はかなり多面的な人物であったと考えられるのである。」(p.188)

こういうことを知らされると、今まで思い込みで「この人はこういう人だ」と決めつけていたことが、実はそうではなかったかもしれないと思います。
親鸞もそうでしたが、昔のことになると知られていないことが多々あります。現在の人であっても、報道によって部分的に切り取られた面だけを知るだけで、全面的ではないのです。


『一遍聖絵』では、踊り念仏は、平安時代に京の巷で念仏信仰を広めた空也に遡るとされているが、空也が踊り念仏の興行を行った記録はない。あるいは、空也以外にそうした実践を行った人物がいて、一遍はそれにならったのかもしれない。
 『一遍聖絵』では、踊り念仏の意義は、『無量寿経』に、釈迦に出会った者が、「踊躍して大いに歓喜す」と記されていることに求めている。
」(p.199)

一遍は比叡山で修行していないそうですが、法然の専修念仏の教えを広めようとして、踊り念仏というスタイルを広めていったようです。


だが、最澄は、あらゆる衆生が救われる、仏性を備えていると主張しながら、比叡山の僧侶に対しては、厳しい修行の実践を求めた。それは、全体として考えれば、極めて矛盾した試みでもあった。後に道元は、その問題にぶちあたり、それが比叡山を降りることに結びついた。道元以外の宗祖たちも、やはり同じ問題に直面したはずであり、それぞれが独自な道を確立することで、間接的な形でその問いに答えようとしたと言える。そこに、最澄が決して夢見てはいなかった、各宗派の独立という事態が起ったのである。
 比叡山から、各宗派の宗祖が生まれたのは、たんにそこが仏法の総合大学だったからではない。最澄の思想と実践に根本的な矛盾があり、その矛盾が新たな試みを求めることで、新宗派が生まれていったのである。
」(p.215)

すでに上で引用したように、最澄が持ち込んだ天台宗の矛盾から、後の宗祖たちがそれぞれに考えた結果、新しい宗派になったということですね。


鎌倉新仏教が、どうして天台宗から生まれたのかという考察は、なかなか興味深いものでした。
ただ、宗祖が新宗派を作ろうとしたわけではないのに、後にそれが新宗派になった理由については、ほとんど考察されていないのが残念ですね。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:46 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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