2019年04月06日
いのちの讃歌
神渡良平(かみわたり・りょうへい)さんの新刊を読みました。副題に「自らの人生を切り拓いた8人の物語」とあります。人生の困難を乗り越えた方々の生き様が紹介されていました。
神渡さんの本は、小説というスタイルと、安岡正篤氏や中村天風氏などの思想を紹介するスタイル、そして今回のように、人の生き様を紹介するスタイルがあります。いずれも、人間としていかに生きるべきか、という問いに答えを出そうとするものです。神渡さんの他の本の紹介は、こちらからどうぞ。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「二十五歳で二歳年上の女性と結婚しました。しかし、奥さんは貴裕さんに頼りがいのある父親を求め、一方貴裕さんは、自分を捨てていった母親の傷を埋めてくれる愛を求めるので、次第にすれ違ってしまいました。夫婦それぞれが相手に依存し、相手から何かを得たいと思っているので、楽しいはずの新婚家庭がなかなかうまくいきません。」(p.19)
真永工業株式会社の久松貴裕社長の人生を紹介する部分です。温かい家庭を欲しながら、夫婦喧嘩をくり返して離婚してしまったそうです。
「神との対話」にも書かれていますが、間違った目的で関係を結ぶと、どうしてもこうなりがちですね。相手に何かを求めていると、だんだんと苦しくなってくるのです。
「五十二歳になっていた私は、母と小学生の自分が裁ち板に向って紙袋作りの手内職をしている情景を、あたかも色褪(あ)せた記録映画でも見るように天井から見つめている。母と自分を同じ距離感で見ている。すると、母の気持ちが透けて見えてくる。」(p.37)
内観を紹介する部分ですが、ノンフィクション作家の柳田邦男さんが「気づきの力」(新潮社)に書かれた部分の引用です。
これはまるで死後の体験みたいですね。「神との対話」では、死後に人生を振り返ることができて、その時、自分の感覚だけでなく関係者の感覚も感じるとありました。
こういう相手の感覚を知ることによって、自分の思い込みに気付かされるのです。柳田さんは、母を手伝ってあげたつもりでしたが、母の苦しみを理解しておらず、むしろ迷惑をかけたことだったと気づきます。その気付きによって、本心からの謝罪をします。そしてそれが感謝に変わります。
「内観が深くなっていくと、迷惑をかけた相手の心にまで思いが届くようになるから不思議です。相手の心がわかってくると、そこまで思いが至らなかったと、お詫びする気持ちになっていきます。すると、自己否定の中から、逆に感謝の気持ちが湧き起こってきます。一見矛盾しているようですが、これはもう体験の世界です。私たちは”謝意”を感じるから、無意識の内に”感謝”と書いているんですね。」(p.58 - 59)
内観研究所の清水所長の言葉です。神渡さんは内観をよく勧めておられます。1週間くらいの集中内観と、日々の内観(瞑想)を組み合わせるといいそうです。
「この誦句は、自分のいのちは大宇宙に直結し、さらにはその結晶であるから、私という魂は宇宙と同じように完全で無欠なのだと確信し、一見障害と見えるものに勇猛果敢に挑戦していこうという気迫に満ちています。事実この確信さえあれば、いかなる障害も乗り越えていけます。自分という存在に置く全幅の信頼こそは天風先生の覚醒の確信です。」(p.65)
中村天風氏の「大偈(だいげ)の辞」を引用し、このように言われています。天風氏の悟りは、まさに「神との対話」で示されているように宇宙(神)との一体感なのだと思います。
「高山さんは「人生のスイッチ」が入ったと強調します。地雷撤去活動に端を発し、村での日本語やパソコンの教育、井戸の設置、ゴミ減運動の指導、日本企業の誘致、日本留学の世話、地場産業の育成と、八面六臂の活躍です。」(p.122)
PKO活動でカンボジアの地雷撤去活動を行った高山良二さんは、自衛隊退職後に、まだやり残したことがあるとして、カンボジアに戻ってきたのです。高山さんの物語は、とても感動するとともに、頭が下がります。
「なぜ、他者の生き方がこれほどまで自己の人間形成に影響を与えるのだろう。
その理由のひとつは、人間がだれしも善さを求めて生きる存在であることによる。何が善いのか、どのように行動することが善い生き方なのかをつねに自分に問いかけ、同時に、夢や理想に向って生きようとしているのが人間である。」(p.145 - 146)
鳥取県の八頭町立船岡小学校の林敦司校長の言葉です。林校長は伝記による道徳教育を推進しておられます。この本でも、ヘレン・ケラーが励まされたという塙保己一の話、世界的な博物学者の南方熊楠の話が紹介されています。
ここで林校長が、誰もが「善さ」を求めていると言われていました。そして、他の人の生き様に感動することで、「自分もあのように生きよう」と思うのですね。つまり、道徳的価値観、倫理観を教え込ませるのではなく、自分が気づくことが大切なのです。
「神との対話」でも、同じようなことが書かれています。私たちは常に選択を迫られており、愛と不安のどちらを選ぶのかが重要です。なので、「愛ならどうする?」「それは自分らしいか?」と自問することだと言うのです。
「字がかけるようになったことは大きな自信につながりました。誠さんの目に力が入り、生き生きしてきました。そして毎月一回開かれる真民さんのファンの集い「朴(ほお)の会」で知りあった人々に、たった二本だけ動く指で積極的にハガキを書き始めました。
「指二本動いて、幸せのおすそ分け!」」(p.206)
パン屋の主人、次家誠さんは、頚椎損傷によって首から下がまったく動かなくなったそうです。自暴自棄になりそうになりながらも、リハビリを重ねてこられ、やっと指が少し動くようになったのです。
私たちは、歩いたり運動したりすることを「当たり前」だと思っているから、身体が正常に動くことに感謝しません。だから幸せになれないのですね。次家さんは、全身のマヒを体験することによって、それが「当たり前」ではないことを身にしみて知ったのです。
同じような体験をしたいとは思いませんが、こういう方がおられるのだなぁと想像してみると、自分の身体に対して「ありがたい」という気持ちが湧いてきますね。
この本には、多くの無名の人が登場します。無名であっても、その生き様はどれも素晴らしいと感じます。神渡さんがこうやって紹介してくださることで、私たちは居ながらにしてそういう素晴らしい生き様を知ることができます。
伝記で道徳教育の話がありましたが、人の生き様を知ることは、自分の生き様を考える上でとても役立つと思います。そして私たちも、自分の生き様によって、他の人に影響を与えるのでしょう。どう生きるのか? それを深く考えさせてくれる本でした。
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