また津留晃一(つる・こういち)さんの本です。すでに「多くの人が、この本で変わった。」と「津留さんが、心から伝えたかったこと。」を紹介していますが、これで3冊目になります。
この本も前回と同様、個人セッションの内容がメインになっています。なので、自分の悩みと重ね合わせて、津留さんの話を聞くような感じで読めると思います。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「子供にどう言おうかなどは問題ではありません。あなたが自己浄化できていれば、子供がおばあちゃんからその話を聞かされても、困っているようには感じないでしょう。
子供が困っているように見えるのは、「そんなことを子供の前で言わなくてもいいのに」と、あなたが困っているからです。だから、そう感じてしまうのです。」(p.10 - 11)
「大切なことは、自己浄化することです。あなたが「食事をつくらなければ」という想いを手放すことができるかどうかです。」(p.11)
残業が多く、義母が「早く帰って子どもに夕食を作ってやればいいのに」などと親戚の人に話していることを伝え聞き、ストレスが溜まるという女性の悩みです。それに対して津留さんは、自分の中にある「かくあるべし」という想いが原因で、自分を追い詰めているのだと言います。
「現実に起こっている体調不良も、すべては想いのほうが先なのです。あなたが良いことだと思ったら、何でもいい方向に働くものです。
自分が「いいな」と思っているものがやってきたら、それは喜びになり、「良くない」と思っているものがやってきたときは、悩みや苦しみになります。
想いが現象を変えていくのです。」(p.14)
便秘に悩む女性に対して津留さんは、便秘が悪いことだと考えているから苦しむのだと言います。
「つまり、「便秘をすごくイヤがっている自分がいる」という事実を見つめる−自分はそう思っているんだなぁと感じてやることが、『光を与える』ことになります。
光を与えると、物理法則に従い、自分の心の中で強く感じているその想いは、必ず解放される(溶ける)のです。」(p.16)
「便秘が悪い」と思っている自分を責めるのではなく、ただその事実を見つめれば想いが解放されるのですね。それが浄化するということです。ホ・オポノポノのクリーニングも、まさにそういうことでしょう。
「私がお薦めするのは、「社員の意識なんか変えなくても、うまくいく」という考え方です。そのほうが、あなたも気が楽になりますよ。」(p.19)
不況の中で会社をなんとかしなければと焦るものの、だんだんと意欲がなくなってきたという会社経営者の悩みです。私も経営者だったので、この津留さんのアドバイスは身に沁みます。
「「指針や方向性を変えないと、会社がダメになる」なんていう考え方は、自分の会社を困らせようとしているのと同じです。
それは無茶苦茶恐ろしい想念を持っているということです。従業員の意識を変える、つまり絶対に不可能なことが起きないかぎり、あなたの会社は行き詰ってしまうということです。
「今のままで大丈夫なんだ」とあなたが思うことが大事なのです。そして、先ほどのような考えを捨てれば、もっと良くなります。」(p.20)
「何とかしよう」という思いは、「何とかしなければ会社がダメになる」という恐れからくるもの。だから、その恐れが現実になります。津留さんは、「今のままで大丈夫なんだ」という考えを持つように勧めます。
「神さまっていうのは、進化しなくていいと思っている人のことです。それで、したいことをしている人です。だから一度、神さまのように、「このままでいいんだと思える自分を創ってみるのです。」(p.23)
「覚醒というのは、神に帰っていくことです。
「このままでいい」と思っているのが、神さまです。
覚醒したいなら、「このままでいい」という想いを内側につくることです。
いつも内側からそう感じられれば、その人は、もう神さまです。
実に簡単なことなのです。」(p.24)
何が起こっても大丈夫だと安心していること。それが覚醒した人の態度なのです。
「皆さんの中で、自分の使命がわからないという人が多いと思いますが、それは、今わからないほうがいいから答えがきていないのです。わからないことがベストなのです。
今、目の前にあなたがするべきことがあるのですから、それを意識的にやってください。」(p.27)
使命探しなどするのは、使命がわからないと困ると思っているからですね。でも、神である私たちは、ありのままでOKなのです。だから、わからないものは「わからに」状態でOKなのです。
「意識を向けるから、顕在化するのです。対処しようとすることが不幸せな状態にエネルギーを注ぐことになり、ちっとも減退していかない−これが、苦しみが続く理由です。どちらかと言うと、対処すればするほど、苦しみは大きくなります。」(p.31)
恵まれているはずなのに幸せを感じないという人の悩みです。「つらい」という思いにただ浸っていればいいのに、何とかしなければと考えることが、逆にその「つらい」状態を長引かせてしまうのだと津留さんは言います。
「あなたが求めるものは、幸せになろうとすることではなく、自分自身を発見していくことです。『思い込み』という想念を発見し、それを手放しさえすれば、あなたは自由になります。
自分自身の想念の縛りから自由になることだけが重要なのです。あなたを不幸せと感じさせているものが、『思い込み』という想念だからです。」(p.33)
幸せを追うと、その対極の世界も広がっていくと津留さんは指摘します。コインの裏表ですからね。幸せになろうとするのは、今が幸せではないと考えているからです。なので、その思い込みを手放すことが重要だと言うのです。
「どうしてもどうしても幸せになりたい人は、幸せをあきらめることです。」(p.35)
私がいつも言うように、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということですね。
「どんなものからでも、このエネルギーを取り戻すことができます。すべての力を取り戻してしまえば、大好きなボールペンも大事な子供も素敵な彼も、同じレベル、すなわち、『単なる情報』に変わっていきます。
「それじゃ、つまらない」と感じる人も、たくさんいるかと思います。
実は、私たちが『ここ』にいるのは、そうなるとつまらないから、なのです。大切なのは、「自分に必要のないものにまで、力を与えない」ということです。
子供がいてうれしかったら、それはそれでいいのです。
ただ、子供の言動に振り回され初めたら、子供から力を取り戻すときが来ていると思ってください。」(p.79)
子どもを大事に思っているが、振り回されて疲れてしまうことがあるという女性の悩みです。津留さんは、「子供の死」という言葉にビクッとなるとしたら、力を与えているからだと説明します。ただの「ボールペン」なら心が動かないのに、「大好きなボールペン」だと心が動くのと同じだと。
「力を与えているのは自分なのだから、ただ取り戻せばいいのです。取り戻せば、自分中心でいられます。」(p.80)
振り回されるのは、自分が力を与えているから。だから、その力を取り戻せばいいだけだと津留さんは言います。
「対立した意見と、無理に折り合おうとする必要はありません。たいがいの場合、折り合おうとしたり、どちらかの意見に統一しようとしたりして苦しみます。
調和させようとか、調和が崩れるかも…というのは妄想です。調和することが必ずしも良いことであるとも言えないし、調和が崩れたら悪いともかぎらないのですから、それを恐れないことです。
どちらの意見も正しくて、どちらも正しくないのです。お互いに私見を述べ合ったその後のことは、自然に秩序に任せればいいのです。」(p.83)
いじめ問題など、教師同士で話し合っても意見が分かれるので、自分の方から折れた方がいいのだろうかという悩みを持つ方に、津留さんはこのように言っています。つまり、無理をして意見をまとめる必要はないってことですね。
「自我には、何が正しいかは、絶対にわかりません。
あなたが正しいと思ったものが正しく、間違いだと思ったものが間違いなのですから、「何を信じるか」だけです。「どちらを信じたら心地いいか」−これが、判断基準です。
あなたが、良いと思って信じていることを続けてください。逆らう必要はありません。そのままでもいい、多少のアレンジをしてもいい、したいようにしてもいい。」(p.84)
「正しさ」は人それぞれですから、何を選択しようと大した問題ではないのです。自分は自分の正しさに従えばいいのです。ただ、相手には相手の「正しさ」があるのですから、相手を無理やり従わせようとはしないこと。それで、放っておけば上手くいくのです。
「戦争で感じることは、「自分たちの正義が強ければ強いほど、人なんて簡単に殺せるまでになる」ということです。自分たちの意見(正義感)がどれほど危険かを、人は簡単に忘れてしまうのです。」(p.87)
まさに、こういうことですね。「正義」が絶対だと思うから相手を責めたくなります。そしてその行き着くところは、殺してもかまわないと思うほどになるってことです。
「泣くというのは、自己表現です。泣きたいから、泣いているだけ。だから、思いっきり泣かしてあげるのです。これも『与えるもの』です。
泣いていることを「聞き分けがない」と言って、咎めないことです。
子供を咎めて、「聞き分けのない子」をつくってはいけません。愛する子供を「私の邪魔をする悪い子」に変えてしまってはいけません。」(p.89 - 90)
子どもが泣くのは自己表現だから、それを妨げるなと津留さんは言います。あるがままを受け入れるということです。
「「時間が足りなくなったら困る」という恐れから、あなたは今、与えることを差し控えているのです。本当は、抱っこできる能力があるのに、「与えたら困ることが起きる」と思って、自分で制限しています。」(p.91)
甘やかすと甘えぐせがつくという恐れですね。その恐れのために、愛する機会を失うのです。
「愛に基づいて行動していいのです。時間を気にして、愛を犠牲にすることはないのです。
そして、あなたが本当に疲れていて体がだるいときは、子供が泣き叫んでいても、ハッキリと「NO」と言えばいいのです。」(p.92)
断ることに罪悪感は不要です。相手を責めず、出し惜しみをせず、罪悪感も抱かない。こういう感覚が身につくと、容易に愛せるようになるのではないかと思います。
「無条件に無制限に、相手に自由と愛を与えたときに、初めて「我、神なり」という実感を持つことができ、本当の自分が実現します。私たちは、そこへ到達するためのゲームをしています。
相手に対して、無条件に無制限に、自由と愛を与えるために結婚するのです。それ以外の目的だと、うまくいきません。」(p.101 - 102)
「神との対話」でも、結婚の目的は本来、自分を体験する機会であり、相手から何かを得ることではないと言っています。その目的を間違えるから、上手くいかないのだと。津留さんも同じことを言われていますね。
「だから、大事なことは、無条件に無制限に、自由と愛を相手に与えることができて、なおかつ、自分がその人と一緒に居たときに心地いいかどうかなのです。」(p.103)
「ところが、多くの人がその違いを克服し、埋め合わせようと頑張っています。それは決して報われない不毛の努力です。相違点をなくせば一致するというのは、誤解です。
私たちは、一つです。すでに初めから一致しています。わざわざつくった、個々の小さな違いに、意識をフォーカスするのはもうやめましょう。」(p.106)
パートナーになるのに、性格が一致すること、笑いのツボが同じであること、同じ趣味を持っていることなど、何かと一致点を探そうとしてしまいます。しかし津留さんは、それは無駄な努力だと言います。違いは違いのまま、無条件に無制限に、相手に自由と愛を与える。それだけでいいのです。
私がいつも言うことですが、パートナーが浮気したってかまわないのです。それはパートナーの自由ですから、無条件に無制限に自由にさせることです。そして、それを喜んでいればいいだけです。それができないなら、自分が自由になることです。相手のせいにする必要もなく、自分がその環境にいたくないからという理由で、別れたらいいのです。
「その子は、あなたを傷つけるために現れたのではなく、本当は、その言葉に傷つくあなたを癒してあげるために登場してきたのです。あなたに、気づかせるために…。
自分の周りから、キライな言葉や出来事がなくなると、そこは天国です。だから、ここを天国にするために、キライな言葉やイヤな出来事をなくしていくのです。」(p.115)
荒れたクラスの教師の悩みです。暴言を吐いてくる子どもに困っているとか。津留さんはまず、その子を敵だと思わないようにと言います。むしろ、重要なことを気づかせてくれるために現れた天使なのだと。
自分の中の観念によって、その子から受ける言葉に傷つきます。もしその観念がなければ、言われても傷つきません。そこに気づいて、浄化することが重要なのですね。
「「自己浄化したら、どうなるか?」、「もしやれば、そうなりますか?」と質問しないでください。それは、やってみないとわかりません。私が「新しい世界がそこにはあります」と、今のあなたに言っても想像できないでしょう。
とりあえずやってみれば、体験が起きてきます。体験してみて、そのほうがよかったら続ける。気に入らなければ、やめればいい。」(p.117)
私たちは体験するためにこの世に来たのですから、他人の言葉で体験したつもりになるのではなく、自分で体験することが重要なのです。
「もし、生まれてきた子が神だとしたら、教育は要らないはずですよね。「教育しないと大変なことになる」というのを信じるか、「神ならば、放っておいても神のままだ、大丈夫!」を採用するか?
今までの教師体験からは、「放っておいたら大変なことになる」と思っても当然です。でもそれは、今までの体験です。あなたはどちらを選択しますか?」(p.118)
「このままではダメだ」という信念に基づいて行動するのか、それとも「このままで大丈夫だ」という信念を選ぶのか。まさにそれが問われているのです。
「私がこうお話するのは、私自身がスムーズに自分を改造できるようになったのは、『自分を否定しなくなった』のが、きっかけだったからです。
「自分を変えなきゃいけない」と思っているときは、自分を否定していますから、その否定が必ず自分に返ってきて、うまくいかないことが起こってくるのです。」(p.128)
自分に対しても同様と言うか、自分のことをどう思っているか、その信念が重要なのですね。
「人というのは、『呪縛』から、なかなか逃げられないものです。私たちは、心象世界に住んでいます。心を縛れるのは、言葉だけなのです。」(p.135)
「苦しみは、すべて呪縛からきています。「ああしてはいけません」、「こうしてはいけません」と子供を怒ったとき、「何で悪いの?」と言い返されて、初めてあなたの中の「こうであらねばならない」という過去の教えが見えてきます。」(p.135)
自分が自分を縛ってきた信念を、私たちは外部世界にも適用しようとします。他の人がそれを守ってくれないとイライラします。自分も本当は自由でありたいのに、縛られていて自由になれないと思っているからです。だから自由な他人を怨むのです。
「きちんと気持ちを伝えたあとは、放っておけば必ず何とかなります。正しいか間違いかなんていうことも、決める必要はないのです。
苦しみというのは、それを決めようとするところに生まれてきます。決めなくていいんだ、とわかるだけで、すごく楽になります。
『あと解釈』するよりも、ただそのときの自分を感じるだけで充分なのです。」(p.156)
自分を受け入れてもらえないとつらいと感じる方の悩みです。受け入れてもらうことに依存して、相手の反応をコントロールしたくなるのですね。
「怒りを出し尽くし、その想念を自分で受け入れ、自分の出したカルマを自分自身で刈り取れば、カルマの連鎖に終止符が打たれます。
あなたは、体験の階段を一歩登り、『真実の私』の目的を一つ遂げるのです。怒りという種子を、体験という果実として結実させ、叡智へと昇華していくのです。
こうやって、あなたは怒りの感情に振り回されている体験途中の人たちへ、温かいまなざしを向けることができ、同情できる人へと進化していくのです。」(p.157)
他人が憎い時は憎んでいいと津留さんは言います。なぜなら、体験することが重要であり、その先には必ず辿り着ける「幸せのゴール」があるのだからと。湧いてくる感情を否定せず、味わっていけばいい。もうこんなのは嫌だと感じたら、それを吐き出し、自分を丸ごと抱きしめること。そうやって体験し尽くして行くのです。
「私たちは、現実世界に住んでいると思い込んでいます。
でも、皆さんが生きている空間は、現実世界ではなく、観念で創り上げた世界です。だから、あるものをあるがままに見ていく訓練が必要になってきます。
あなたの観念で創りあげた世界から、真実の世界を紡(つむ)ぎ出す。『今この瞬間』という宇宙から、真の自分の姿を探すこと。それが、自分を幸せにしていく秘訣です。
まず、観念的世界と、あるがままの世界の、どちらに自分がいるかを知ることです。そして、その切り分けができるようにならなければいけません。」(p.180)
現実と感じているものはすべて幻想だと、「神との対話」では言っています。津留さんは観念的世界と呼んでいますが、その中にどっぷりと浸かっていると、真実の世界が見えてこないのですね。
「しかし、自我に思考をとめろといっても、とまりませんから、思考の外に飛び出すには、「思考の外に出よう」という想いに、一点集中すること以外にありません。
この想いを胸に抱き、想いと一緒にいることです。雑念も浮かんでくるでしょうが、じっと我慢して、根気よく続けていく。そう、瞑想と同じですね。」(p.181)
「神との対話」でも瞑想を勧めています。静かにして自分とともにあること。それが観念的世界から抜け出すコツなのです。
「「お金が欲しい」ということですが、本当は、ただ「欲しい」と想っていれば、入ってくるものなのです。
しかし、皆さんは「欲しい」と想ったあと、「どうすれば入ってくる?」と考えるから、入ってこない。お金を得る『手段』に走って、「こうやれば、お金が入ってくるかもしれない」というのばかり頭に浮かべますよね。
これはもう『恐れ』です。お金を手に入れることしか考えていないわけです。お金が手に入ったときのことを、考えてないんですね。」(p.186 - 187)
方法を考えるのは自我(理性)の仕事ではありません。自我は体験したい方向性を示すだけ。方法は与えられるのです。
「お金は、私たちの『自由性』です。皆さんは、「お金があれば、自由になる」と思っているから、お金を欲しがります。でも、心が不自由な人に、どうしてお金という『自由の象徴』が入ってきますか?」(p.187)
私たちがお金を欲しがるのは、自由になりたいからなのですね。でも、その手段を考えている限り、恐れ(不安)に支配されてしまいます。まず最初に自由になればいいのです。
「家庭の数だけ、親の数だけ価値観があって、それを子供に押しつけたくなる…それが教育、しつけなのです。すべてのしつけは、親が正しいと思っている価値観を子供に押しつけようとしているにすぎないのです。
だから、あなたが「優しくしなさい」、「順番を守るのよ」という価値観を、子供に押しつけても、それはそれでいいのです。
ただ、「優しくしなさい」と教えてあげて、子供がそれを受け取るかどうかは、子供の選択の問題なんですね。いつでも、選択があるだけなのです。
私たち一人ひとりが神さまで、あなたも神さまであれば、その子供もまったく同じ力を持った神さまなのです。」(p.192)
自分の価値観を持つことはかまいませんが、それを他人に押し付けることは不毛です。受け入れるかどうかは相手次第。そこに気づけば、心が自由になります。
「それは、『良い・悪い』ですよね。私は、「良いと悪いはない」といつも言っています。だから、「否定的なことばかり言ってもかまわない」ということです。
なぜならば、すべてのものは必ず何かの役に立つからです。怒りまくっている人がいても、その人が怒りまくることによって、だれかの何らかの役に立っているのですから。」(p.202 - 203)
親から否定的なことばかり言われて嫌だという人の悩みです。津留さんは、ものごとはニュートラル(中立)であって、そこに「良い」も「悪い」もないのだと言います。
「否定的なことばかり言って、否定的な現象を引き起こしてこなければ、わからないこともあるでしょう。その体験をまだしていなかったから、やり遂げようとしているのかもしれません。是非、やらせてあげてください。」(p.204)
「実は、「片方が、もう片方より良い」なんてことは、あり得ないのです。どんな事象も、陰と陽がバランスを取っているだけです。あなたが、その「陰陽のどちらを見るか」という選択があるだけです。」(p.205)
相手には相手の課題がありますから、それを妨げる必要はないのですね。重要なのは、その相手の言動に対して自分がどう感じるかということです。そこには自分の課題があります。ひかかるようなら、浄化されていない観念があるということなのです。
津留さんが言われていることは、まさに「神との対話」で語られていることです。それを、津留さんの表現でわかりやすく説明してくれています。
究極的には、私たちは神だという立場に立つことが、あらゆる問題を解決してくれるように思います。神であれば、変えようとさえしないでしょう。何からも傷つけられないとわかっているから。ただ見て、それを楽しんでいればいいのです。
ある意味で、こんな非現実的な考え方はないとも言えます。しかし最近は、ホ・オポノポノや心屋仁之助さんなど、不思議なことが普通に語られるようになってきました。これも、アセンションの結果なのかもしれません。
