前回紹介した「多くの人が、この本で変わった。」に続いて、津留晃一(つる・こういち)さんの本を読みました。津留さんの言われていることは、まさに「神との対話」で語られていることそのものです。それをまた、別の言い回しでわかりやすく説明してくれます。
この本では、個人セッションでのやり取りが取り上げられており、津留さんに質問して、その答えをもらっているかのような気分になれますね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「それが多くの問題をつくり出しているようです。不真面目に、いい加減に生きている人というのは、私のもとに相談には来ないですね。その人たちには、問題がないからです。」(p.6)
冒頭で津留さんは、「悩みや苦しみの原因が、「きちんとしたい欲求」からきている」と分析しています。同じ現象でも、それを問題に感じる人もいれば、感じない人もいます。ですから問題は、「きちんとしなければ」「正しくあらねば」という思いが強い人が創り出して、自ら苦しんでいると言えるのです。
「問題が生じると、それをどう解決しようかと、皆さん解決方法を考えるわけですが、まず申し上げたいのは、問題は解決しようとしないことです。
もちろん「するな」とは言いませんが、解決しようとするよりも、自分がその問題を問題だと感じなくなりさえすれば、もう悩まなくてよくなります。」(p.10)
問題に対するアプローチを変えることを、津留さんは提案します。重要なのは問題そのものではなく、その問題を問題視している自分の考え方にある、と考えるからです。
「原因は、自分の中にあるマイナスのエネルギーですから、それを取ってしまえばいいのです。
取り方は簡単です。見たくない現象が起きたら、それをただジーっと見て、その中でいてください。
もし、イヤな気持ちが出てきたら、それを止めようとしないで、イヤな気持ちとともにいてください。その想いをしばらく味わっていると、自分の中に貯まっていたエネルギーは消えていきます。」(p.11)
「良い」「悪い」の価値判断をせずに、ただジーっと見つめること。嫌な感情は、そのままに感じ切ること。そうすれば、マイナスのエネルギーが消えていくと言います。これが、津留さんの問題に対する対処法なのです。
ただ、自分のことならそうもできますが、子どものことだと黙っていられない、と感じる人もいますよね。注意した方がいいのか、ただ黙って見守っている方がいいのかと、悩むこともあるでしょう。それについて津留さんはこう言います。
「子供に注意したほうがいいのか、しないほうがいいのか。それはどちらでもいいことなんです。どうしてかというと、そこで注意をしたら、注意した人の体験があり、注意された人の体験があるだけなのです。
その体験に「良い・悪い」はありません。ただその体験をしているだけです。」(p.15)
私たちが悩むのは、どっちが正しいかわからないから悩みます。でも、どっちが正しいということはない、というのが真実なのです。
「「悪い子になったら困る」という恐れから注意すると、それはうまくいきません。恐れの心から出た行動は、何にせようまくいかないのです。あなたの思いとは逆に、わがままな子になってしまいます。
でも、まったくとがめの思いがなく、「こうしなさい」って言えたのなら、子供はけっこう聞いてくれるものです。」(p.16)
高等テクニックとして、こういう方法があると津留さんは言います。つまり、動機が恐れ(不安)であれば、その恐れていることを引き寄せるからですね。しかし、このように子どもに伝えたからと言って、必ず子どもが言うことを聞くわけではありません。
「そのときに「それはそれでいい」って大人が受け取れるかどうかですね。言いたいことはどんどん言ってもいい。でも、結果を期待しないというのがポイントです。
言いたいことを言って、結果を期待しない気持ちになれるのは、「結果は、どちらでもいい」という場合だけなのです。」(p.17)
つまり、結果をコントロールしようとしている限り、特定の結果に執着している限り、不安からは逃れられないのです。津留さんは、そもそも自分には結果を生み出す力はなく、結果は神のみぞ知ると考えてみてはどうかと言います。そうすれば、結果を手放すことができるからです。
「この世界は、神が、「神ならざる者を体験する」ことを目的として創られています。
まず、神が神ならざる部分を体験し、より高き神へと帰っていく。そのプロセスが宇宙のしくみなのです。」(p.26 - 27)
まさに「神との対話」にある通りです。そして、体験にこそ意味があるのですから、その体験が「良い」か「悪い」かには、何の意味もないのです。すべてを体験したいのですから、どちらも体験したかった体験になりますからね。
「すべての人が、ブッダやマザー・テレサになって、「あがり」というわけではなくて、体験し残していることが、自殺だったら自殺を最後に還っていくし、教祖さまをやったことがない人は、やり残している教祖さまを体験してから還るのです。」(p.30)
神に還るのには1つの道ではなく、無数の道があります。そしてすべての道は神に通じているのですね。
「人は、「しなくてもいいこと」をするのだけが楽しいのです。
だから、「何をすればいいか」を発見するのではなく、「何をしなくてはいけないと思っているか」を見つけることが大切です。
そして、あなたが「仕事をしなくてもいい」と思えるかどうか、がポイントなのです。」(p.33)
「しなければならないこと」をやっても、そこにやりがいを感じないのですね。ですから、仕事にやりがいが感じられない人は、天職探しをするよりも、「仕事をしなくてもいい」のだと思えるかどうかが鍵になるのです。
現実的には、会社にボランティアで行っている、と考えてみてはどうかと津留さんは言います。働かされているのではなく、自分が好きで働きに行っているだけ。給料なんて、そもそももらう気もない、というつもりになってみることですね。
会社のマネジメントをしていると、思い通りにならなくて苦しむことがあります。まあ、私自身もそうでした。そんな人に、津留さんはこうアドバイスをします。
「今の彼に必要なことは、「無責任」になることです。ベストを尽くしてもできないものは、できなくてもいいのです。それなのに責任を取ろうとするところにストレスが生まれるのです。」(p.42)
たしかにそうなのでしょうが、現実的に何か対処しなければ大変なことになる、という状況で、それは難しいものがあるでしょうね。それに対して津留さんは、さらにこう言います。
「もし、信用を失ったとしたら、仕事が来なくなり、かえって楽になるのではないですか。」(p.42)
まあそういう見方もできますね。(笑)
津留さんは、力を抜くことで、かえって効率が上がって責任を果たせてしまうかもしれない、と言います。ただし、そういう効果を狙っていてはダメで、心から無責任でいいやと思えるかどうかが重要だと。これは私がいつも言うことですが、要は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということなのです。
「ありとあらゆる体験をするために私たちが、この世界に来ているとしたら、納期に間に合うか否かは、宇宙に委ねていればいいことです。
委ねるとは「あれこれ考えないで、安心している」ということです。
重要な仕事ほど、自分(自我)がやるよりも、内側(内なる神)にやってもらいましょう。」(p.43)
これがまさに、「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょう。自分の作業だけでなく、部下の作業についても、結果を心配してあれこれ口出しするのではなく、信頼して任せればいいのです。
「信用するとは、部下の仕事ぶりを信用するのではなく、宇宙を信用することなのです。部下が納期を遅らせたら、それが宇宙の望む姿であり、ベストのことなのだと、その結果を受け入れることが、部長さんの最大の仕事なのです。」(p.44)
結果を手放すとは、こういうことなのですね。宇宙への絶対的な信頼です。だって、目的は体験なのですから。宇宙が最適な体験を与えてくれるに決まっています。そう受け止めて、好き嫌いを言わないことが大切なのです。
「「私はこれまで何かを『成す』ことを目的としてきたが、これからは『体験』を目的としよう。起きてくることは、自分が体験したかったことなのだから」。
こう思えるようになって以来、私の世界から「思いどおりでないこと」が消えてしまいました。」(p.55)
結果を思い通りにするという目的ではなく、起こってくる結果を体験するだけでいいとなれば、そもそも思い通りにする必要がなくなるのです。
「宇宙が、陰と陽の二極で「完全」であるように、あなたも善と悪の二極を、同時に持っていて完全なのです。
そのことを認め、受け入れたとき、どんなに安らぐことでしょうか。」(p.60)
磁石のS極とN極のように、磁石はどう切っても必ず2極になります。それがこの相対的な世界なのです。その両極の体験をすることで、私たちは全体の立場、つまり無極の立場に戻っていけます。そうであれば、片方を体験することは「悪い」ことではありません。「殺す」ことも「殺される」ことも、両方体験してこそ無極ですから。
「もはや、環境を変えようとする欲求が顔を出さなくなります。自分を、人を変えようという気が起きなくなってきます。どんな人を見ても、あるがままでいさせてあげることができます。」(p.61)
すべてが神そのものなのですから、本質的に「良い」も「悪い」もありません。そのことがわかれば、そこが天国になるのです。
「五感を通して入ってくるいかなる情報に対しても、「このままで何も問題なし」と感じられたときがゲームの終了のときです。神にはどんな問題もないからです。
すなわち、どんな瞬間よりも、今この瞬間がベストだと実感しているときです。」(p.65)
悪い人を何とかしようとしなくていいのです。それは単に配役にすぎません。優劣というものもなければ、優れる必要もないのです。
「進化したいという願望のないのが、神だからです。」(p.66)
神は、神でないものになることはできませんし、そんなことは望みません。神は神であるだけです。当然、進化したいという欲求も、進化しなければという願望も、神にはないのです。
夫婦は、意見が食い違ったり、正確が正反対だったりすることがよくありますね。
「バランスをとるために単にそうなっているだけなのです。それ以上でも、それ以下でもありません。
こういう対立関係は、この宇宙が存続するかぎり終わることはないでしょう。ですから、二極の存在(意見の食い違い)を嘆くことは、まったく無意味です。」(p.67)
この世は相対的な世界ですから、二極がバランスを取り合っているのです。どちらか一方にだけすることは不可能なのです。
「あなたが、自分の正しさを主張しているときは、向こうは同じ力で、自分の正しさを主張してくるでしょう。この力は、まさに、作用・反作用の法則で、あなたが押す力と同じ力で相手も押し返してきます。
ですから、力や感情で相手を抑え込むことはできないのです。
しかし、あなたが相手を肯定し、波長を合わせてあげれば、瞬時に同じ宇宙空間に戻り、1つに溶け合います。」(p.69)
相手を責めて、変えさせようとしても無駄なのです。相手は相手のままでいいと肯定し、受け入れることが重要なのです。
「私たちは、「どれだけ目の前の現実を肯定できるか」という旅を続けているのです。」(p.69)
これが理解できたら、本当に何も心配はなくなりますね。
「あれこれと心配することがなくなり、安心できれば、人は自然にリラックスしてきます。そして、小さなことに喜びを感じるような体質になっていきます。
豊かな心になると、今までよりも笑顔が多くなっているはずです。常に喜んでいるあなたを見るのが、神さまは一番うれしいのです。」(p.70)
私たちは喜びそのものだと「神との対話」で言っています。何も心配せず、安心の中にいれば、朝の光にさえ喜びを感じるようになる。毎日が、毎瞬が喜びに包まれる。それが本当の私たちなのだと思います。
津留さんは、人を救うということさえ考える必要がないと言います。それでは救えないのだと。そうではなく、ただ遊んでいればいい、楽しんでいればいいとなって、やっと救えるようになるのだと。
「ほとんどの人は、苦しみを空想ででっち上げるのは得意ですが、喜びはなかなか空想しないようです。
幸せも不幸せも事実に基づいているわけではなくて、空想に基づいているんだ、ということを理解してください。」(p.116)
過去の後悔(記憶)、未来の不安(予想)が、私たちを苦しめるのです。どうせ空想を使うのであれば、自分が喜ぶことを空想すればいいのです。
「問題と思われることが起きたとき、人は事象にしか目を向けようとしません。
本当は、目の前で起きていることが問題なのではなくて、それまでのその人の人生、問題と思っている人の人生の見直しが、その問題が生じたことによってできるから、「大丈夫」と言っているのです。」(p.129)
これは、津留さんが日木流奈(ひき・るな)くんからもらってメッセージの一部です。津留さんは、流奈くんとも交流があったのですね。流奈くんの著書は、「月のメッセージ」などをこのブログでも紹介しています。
「もともと、神そのものであるあなたに、何かしなければならないことなど、あろうはずもありません。
神は、「したいからする」のであり、「しなければならないからする」のではないはずです。」(p.170)
指摘されてみればそうですよね。純粋にそれがしたいからする。それが本来の姿です。
「「どちらでもいい状態」。これは、ニュートラル(中立)ということです。
ニュートラルというのは、我々が目指しているゴールなんですね。すべての価値観が消えること、それがゴールなのです。
価値観の消滅というのは、何もなくなることではなくて、「プラス・マイナス」の価値が等しくなること、「良い・悪い」が等しくなることなのです。」(p.182)
「神との対話」では、必要性を好みに変えるようにと言っています。どちらかの価値観を握りしめている時、それは執着となり、必要性として現れます。それが好みであれば、どちらを選んでもかまわないという状態になるのです。
「あなたに価値観がなくなったとき、深いところの意識が表面に浮上してくるのです。それが、あなたを行動に駆り立てるようになってまいります。
これが「純粋動機」というものです。
純粋動機とは、「ただ、したいからそうする」といったものです。」(p.183)
こだわりがなくなった時、魂が計画していた思いが湧いてくるのですね。その時、魂と精神と身体はひとつになって、この世に生を表現するのです。
「その正義感を手放したところで、なくなるわけではなくて、正義感を持ったまま、「正義感のない人も許せるようになる」のです。「あなたはそのままでいいよ」と思えるのです。この部分が、とても大きいのです。」(p.189)
自分が何を選択するかは自分の自由です。それと同じように、相手には相手の自由があります。それを喜べるかどうかですね。
「あなたが、自分で書いたシナリオを生きたかったら、とにかく「じたばたしないこと」です。」(p.196)
「起こることに身をまかせ、安心して何も求めず、流れに乗りきったとき、「本来のシナリオ」が動き出すのです。」(p.197)
安心して委ねていれば、魂の想いのままに勝手に運んでくれるのですね。
「悟りの瞬間は、あなたが求めることを放棄したときにのみやってまいります。この喜びのときを迎えるには、あなたの自我がギブアップを宣言することがどうしても必要なのです。」(p.199)
雲谷斎さんと阿部敏郎さんが「降参のススメ」でそう言っていますね。
「この三次元世界は、パラドックス(逆説)の世界です。
変える必要などないのだ、とわかったときに人は変わりはじめ、このままで何も問題ない、成長する必要などないと感じたとき、自ずと成長し、しなければならないことなど何もないと知ったとき、最も行動的となります。」(p.201)
たしかに、そういうものかもしれません。だから何も心配せず、安心して、ありのままの自分を受け入れればいいのです。
「そのままの自分を無条件に、愛おしく抱きしめ愛してください。自分を愛するのにどんな条件も不要です。それがあなたの源の愛、無条件の愛です。
あなたが、今のまま、そのままの自分を認め、受け入れ、無条件に愛せたとき、そこが「悟り」なのです。」(p.204)
私たちは、神であることを思い出し、神に還る旅をしています。神とは愛。無条件の愛です。悟りとは、本当の自分である神を、少しずつ思い出すことなのです。
「しかし、私たちがこれから行くべきところは、人を傷つけない人間になる方向ではなく、他人の言動によって自分が傷つかなくなる方向です。
他人の言葉や環境、外にあるものから傷つかない人になるのです。」(p.208)
大学の時、先輩から言われた「傷つく方が悪い」という言葉は、ある意味で、私がスピリチュアルな世界に入るきっかけでした。他人を傷つけることなどできません。自分が傷つくことを選べるだけなのです。
「他人の行為から傷つかなくなると、どうなると思いますか?。人をあるがままでいさせてあげることができるのです。
では、どうすれば傷つかない人間になれるかというと「このままでいい」と思うことなんです。この考え方でいると、絶対に傷つかない。」(p.208)
結局、すべてつながってくるのです。このままでいい、変わらなくていいとなれば、傷つくことさえなくなるのです。
「わからないのですから、起きたことが全部いいことだって自分が決めたら、何が起きても「あー良かった」になるわけです。
私は今、体調が良くありませんが、病を体験するという道と体験しない道、どちらがいいかなんてわからないのです。
だったら、今、病になっているという事実を「あー良かった、貴重な体験ができるんだ」って思ったほうが気が楽です。」(p.211)
同じ人が分身の術を使って2つの別の体験を同時にすることはできません。したがって、あっちとこっちとどっちが良いかなど、比較することは不可能なのです。「良い」か「悪い」かなど、どうにでも考えられますから。
ですから、起こることはすべて完璧であり、良いことだと受け止めればよいのです。そう最初から決めてしまえば、何も悩むことはなくなります。
津留さんは、私より15歳年上の方ですが、同じSEの仕事をされていて、会社を経営されたということで、なんだかとても親近感があります。会社が倒産したことで、精神的な覚醒があったとのこと。私の方はまだ倒産はしていませんが、私自身がリストラされました。(笑)
でも、そういう経験が愛おしく感じるようになったのは、「神との対話」との出会いが大きいです。津留さんも、「神との対話」を読んで、とても感銘を受けられたそうです。なんだか、とても身近な存在として感じます。

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