2018年10月30日

光あるうちに



三浦綾子さんの自伝的小説の第三弾を読みました。前に紹介した「道ありき」「この土の器をも」に続くもので、サブタイトルが「道ありき 第三部 信仰入門編」となっています。

この小説は、三浦さんが結婚して「氷点」で朝日新聞に掲載されて作家になった後のことが書かれています。と言うより、作家三浦綾子としての原点である「信仰」を見つめ、それを紹介するものになっています。なので、サブタイトルにあるように、まだキリスト教の信仰を持たない人向けに、信仰を勧めるものなのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

これも、時折、わたしは講演で話すのだが、たとえば、
「泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか」
という問題がある。わたしの教会の牧師は、ある日説教の中で、
「悪口の方が罪深い」
とおっしゃった。
」(p.43)

さて、どっちが罪深いと思いますか?
たしかに泥棒は犯罪です。法律違反です。一方、悪口は法に反しているわけではありません。

しかし、この牧師さんはおっしゃったそうです。泥棒に何かを盗まれても、残念だと思うだけで、それで自殺することはまずない。けれど、悪口を言われたことで自殺する人は時折いるのだと。つまり、泥棒は人を殺さないが、悪口は殺すことがある。だから、悪口の方が罪深いということなのです。

まあどっちが正解ということはありませんが、これも1つの考え方ですね。聖書に、「口から出るものが罪を犯す」という言葉があります。まさにそういうことでしょう。


考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、正しく清い存在は誰か。それは神である。だから、自己中心であればあるほど、神を嫌う。神を見ようとはしない。神を無視してやまない。
「神のほうを見ない」
 これが原罪なのだ。神を見ない、神を見たくない生き方。この姿勢を持って以来、人類はあるべき所から外れてしまったというが、自己中心は人間にとって正に根本問題なのだ。
」(p.46 - 47)

三浦さんの原罪論です。自分の考えに同調してくれない人を憎むという自己中心が罪なのだと言います。怠ける人は、一緒に怠けない友をうとむなど、共犯者を求めるのだと。それに絶対に同調しないのが神だから、自己中心であれば神を嫌うと言います。

ちょっと思い込み過ぎではないか、という気がしなくもありません。同調を求めず、人からどう思われようとかまわない、という人もいますからね。そして、神を嫌うというより、どうでもいいし、ただ信じていないだけという人もいます。

私は神を信じていますが、こういう純粋なキリスト教的考え方は、イマイチ受け入れられません。それは、大学生の時に新興宗教に傾倒した影響です。そして今は、「神との対話」シリーズを読んだことで、一部はその通りなのだけど、ちょっと無理があるよなと思うようになりました。そのことは他で書いてますので、知りたい方は、「神との対話」シリーズを解説するメルマガ(過去ログ)などをご覧ください。


この人がむずかしい日本語を勉強したのはなぜか。住み馴れた故国を離れ、親きょうだいや友人たちと別れて、はるばる日本に来たのはなぜか。決して、金もうけのためでもなければ、出世のためでもないのだ。ただキリストの愛を、この日本の人たちに伝えたいためなのだ。日本人の魂を愛するが故に来たのだ。
 この時点において、既に彼らは多くのものを捧げている。
」(p.104)

これは、かつて起こった洞爺丸事件で、2人の外国人宣教師が、すでに身につけていたライフジャケットを、持っていなかった日本人の若者に譲って、溺れ死んだという事実を取り上げたものです。若い人たちは、これからまだ活躍の場があるのだからと言って、ライフジャケットを譲ったのだとか。

ふつうに想像してみても、すでに身につけているライフジャケットを、見ず知らずの外国人に譲るなんてことをするでしょうか? 三浦さんは、そこにキリスト者の愛を見るのです。そして、それができたのは、いざという状況が起こる前から、すでに自分のすべてを神に捧げていたからだと言います。

たしかにそうですね。普段からそういうことを考えていなかったら、なかなか未練を絶てないかもしれません。「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。」というような言葉が聖書にあります。三浦さんの小説「塩狩峠」でも、そういう愛を示した主人公が描かれていました。


パスカルは、「パンセ」の中で次のようなことを言っている。
<気晴らし。−−もし人間が幸福であったとしたら、聖者や神のように、気晴らしをすることが少なければ少ないほど、一層幸福であったろう。−−然(しか)り。だが、気晴らしによって愉快になり得るということは、幸福なことではないのか。−−いな。なぜなら、気晴らしは他所(よそ)から、外部から来る。そこで、それは依存的である。故(ゆえ)に、避け難い苦悩を惹(ひ)き起す無数の出来事によって乱され勝ちなのである>(由木康訳「パスカル瞑想録」より)
 またパスカルはこうも言う。気晴らしは確かに、わたしたちの惨めな状態を慰めてはくれる。しかし、それがまたわたしたちの惨めさを最大なものにする。それは、わたしたちの真実な反省を妨げ、わたしたちを知らず知らずのうちに滅亡させてしまうからである−−と。
」(p.108 - 109)

人生は虚無的であるということを三浦氏は言い、そこから抜け出すことが重要なのだと説きます。たしかに考えてみれば、人生は虚無的です。たとえば、オリンピックで優勝したとしても、だから何だと言うのでしょう? 100mの記録を0.01秒塗り替えたことが、いったいどれほどの意味があるのでしょう?

タイ語では、「ギン・キー・ピー・ノーン」という言葉があります。強いて訳すと、「食って、出して、やって、寝る」という意味です。これが人生だということですね。ある意味で達観です。人間がやっていることって、所詮はそれだけに過ぎない。そうも言えると思います。

そこで三浦さんはパスカルの言葉を引用しつつ、気晴らしを少なくして虚無と向き合うことが大切なのだと言います。そして、そうすることによって、神と出会うしかなくなるのです。


わたしには、療養中深く愛している恋人がいた。ある時、彼の友人の金田隆一氏がわたしを見舞ってこう言った。
「もし、どちらかが死んだら、あなたがたは一体生きてい行けるだろうか」
 この恋人は死んだ。一年後に三浦が現れ、五年後にわたしたちは結婚した。
 わたしたちは、必ずしもお互いにとって、かけがえのない存在ではないのだ。
」(p.115)

生涯愛しますと誓って、そのように思っていても、相手が先に死んでいなくなれば心変わりする。それが人間なのだと三浦さんは言います。だからこそ、人間はむなしい存在なのだと。

誰しもが、様々な苦しさ、むなしさに陥らざるを得ないのだ。そのことを、腹の底からよくみとめた時、わたしたちは、
「虚無の隣りに神がいる」
 ことを、知り得るのではないだろうか。
」(p.121)

先日、わたしはある六十を過ぎた癌患者が、日夜世界の平和を祈り、知る限りの人々のために祈りを捧げて、一日の時間が短くてならないという話を聞いた。
 なぜ彼らが虚しくならないのか。それは、誰も彼から奪うことのできない実存を知っているからだ。虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に実在する神である。この神を信ずる時、わたしたちは虚無を克服することができるのだ。
」(p.123)

人間が、ちっぽけで虚しい存在であることを、まずはしっかりと受けとめる。そうすることで、虚しくない存在である神に気づき、神にすがって喜びの中で生きられるようになる。そういうことを、三浦さんは言われています。


いかなる罪を犯しても、一旦悔い改めて神のもとに立ち返ろうとするならば、神は責めるどころか、大いに喜んで受け入れてくださるのだ。わたしたちが、泥棒をしても、姦淫を犯しても、人を傷つけても、殺人を犯しても、とにかく本気で悔い改めるならば、神は大手を広げて、その御手(みて)の中に迎え入れてくださるのだ。」(p.142)

聖書にある有名な「放蕩(ほうとう)息子の話」(ルカによる福音書第15章)をもとに、三浦さんはこう言います。それほど神の愛は大きいのだ、ということですね。

ただ、「神との対話」を知っている私は、なぜ「本気で悔い改めるならば」という条件をつけるのだろう、と不思議に思います。愛が無条件なら、そんな条件は不要です。そんな条件をつけるのは、本当の愛を知らない人間だからではないでしょうか。実際、この「放蕩息子の話」を読んでも、王は放蕩した息子を迎え入れるのに、何ら条件をつけていません。


子供が父親の大事な物をこわすとする。父が怒って、子供を殴ろうとした時、その間に入った母親がなぐられる。
「どうぞ、わたしに免じてこの子をおゆるしください」
 母親が平あやまりにあやまる。父は何の罪もない母親をなぐってしまった以上、ゆるすより仕方がない。これと全く同じではないが、似た形が、神とキリストと人間の関係なのである。
」(p.162)

なぜ無実のキリストが十字架に磔(はりつけ)にされる必要があったのか? それは、罪深い人間たちの罪をあがなうためだと、キリスト教では言います。そのことを三浦さんは、こんなたとえ話で説明されました。

しかし、これは申し訳ないが無理があると思われます。これでは神は、怒りに任せて子ども、つまり人間を殴ろうとしたことになります。愛の神なのに。いったいどこに愛があるのでしょう? どこに許しがあるのでしょう? それに、身代わりの母親、つまりキリストに罰を与えてしまったから、仕方なく人間の罪を許したのでしょうか? 本当にそう考えているとしたら、それはあまりに神を蔑んでいないでしょうかね。


誘った人が、すべてキリストを受け入れるとは限らない。態(てい)よく断わられ、あるいは軽蔑され、嫌われるかも知れない。が、わたしは、この章の最後に、敢(あ)えて今一度、読者の一人一人に向って呼びかけたい。
「かけがえのない、そして繰り返すことのできない一生を、キリストを信じてあなたも歩んでみませんか。

(中略)
 過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いにはなりませんか。そしてあなたの人生を喜びに溢(あふ)れた人生に変えたいとは、お思いになりませんか。
 そのことが、あなた自身にどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。
<人にはできないことも、神にはできる>
 と」
 光あるうちに光の中を歩もうではないか。
」(p.240 - 241)

三浦さんは、このようにキリスト教に誘います。自分自身がキリスト教によって変わった喜びがあるから、たとえ断られても誘わずにはいられないのです。

私もかつて、新興宗教に入信していて、その活動の一環として勧誘活動(伝道)を行いました。しかし、これが嫌で嫌でたまらなかったのです。相手から否定されることが、受け入れ難かったのですね。それは私自身にまだ、信仰を持った喜びがなかったからだろうと思います。

今、私は、「神との対話」シリーズを積極的に勧めています。これはある意味で伝道なのかもしれません。理解されなくても平気です。批判されても大丈夫です。なぜなら、私の中に喜びがあるからです。


三浦さんの自伝的小説を3冊読んで、三浦さんのことが少しわかったような気がしました。三浦さんは、自堕落な生活をしていたダメな自分から、神と出会うことで熱心な信者になったことを強調されています。しかし私は、元から三浦さんは、本質を求めておられた方だったのだと思っています。

亡くなられた恋人も、結婚されたご主人も、共に人間とは思えないほどの素晴らしい人格者であり、キリスト教信者です。その他にも、素晴らしい信仰者が、三浦さんの回りにはあふれています。それは、本質を求めるべく生まれてきた三浦さんが引き寄せたとも言えます。あるいは、そういう星の下に生まれて来られたのだとも。

ですから他の人が、三浦さんのような信仰を持てなくてもいいし、持たなくてもいいのだろうと思います。ただ、三浦さんの本を読むことで、こういう生き方があり、考え方があると知るだけで、充分なのだと。なぜなら、まずは知ることから人生は動いていくからです。

あることから三浦さんに興味を持ち、3冊を読んできました。三浦さんの人生の一端に触れることができて、私もとてもうれしく思います。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 04:19 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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