2018年09月20日
誰も知らない偉人伝
また白駒妃登美(しらこま・ひとみ)さんの本を読みました。この本は、前にも読んだ「こころに残る現代史」のリメイク版の文庫本になります。
今年、白駒さん主催のバリ島の兄貴を訪ねるツアーに参加した時、この文庫本ができることを聞きました。文庫化にあたって、かなりの加筆修正を行うとのことでしたので、期待して読みました。
実際読んでみて、登場するエピソードの中にはよく知っているものが多数ありましたが、まるで新しい本を読んでいるかのような感動がありました。読み始めたらグイグイ引き込まれ、あっという間に読み終えてしまいました。しかもその間、ボロボロ涙を流しながら。
かつて、こんな美しい日本人が大勢いたのですね。その美しさに感動します。そして、この「日本人」という伝統を、私も遺していかなければいけないなぁと、決意を新たにしました。ぜひ、多くの人に読んでいただきたい1冊です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「死刑執行官は、射撃手に「射撃用意」と告げた後、ひと言つけ加えました。
「愛をもって撃て……」」(p.27)
時代は日露戦争のころ。民間人でありながら「日本のために」とスパイ活動を行った横川省三のエピソードです。
省三は、任務を行う前にロシア兵に捕らえられます。そして軍法会議にかけられました。
しかし省三は、機密をバラすようなことはせず、スパイ活動をしている者は多数いると、堂々と供述しました。このことによりロシアは、シベリア鉄道を守るため、多数の監視要員を割かなければならなくなったのです。
民間人の死刑は絞首刑でしたが、省三は軍人に対する礼を求めました。その熱意に負け、裁判長は特例で銃殺刑を下します。しかし、省三の堂々たる態度に胸を打たれた裁判長は、自ら減刑嘆願をするのです。その嘆願は叶いませんでしたが、敵国人にそこまでさせるとは、いったいどれほど素晴らしい態度だったのでしょう。
省三は残された娘たちにあてて遺書をしたためます。国のために尽くせと。まさに省三の生き方そのものでした。さらに省三は、使いきれなかった所持金のすべてを、娘たちへではなく、ロシアの赤十字社に寄付します。
そして死刑執行の日を迎えたのです。死刑執行官は、省三を苦しませないように、心臓を狙って即死させよという願いを込めて、上記のように告げたのです。その堂々たる態度で敵国人さえ感動させる。そしてその感動が、愛の行動を起こさせたのですね。
「義和団の乱のときの柴五郎にはリーダーとしての矜持(きょうじ)があり、マクドナルド公使は、その五郎の姿に、上に立つ者のノブレス・オブリージュを見ました。
こうしたことが下敷きとなり、さらに両国の利害関係の一致があって、日英同盟締結という結果に結びついたのではないでしょうか。
そして、この同盟がなければ、日露戦争の勝利もまたなかったのです。」(p.46)
日本の近代化において、その最も特筆すべきエピソードとして日露戦争があります。弱小日本が大国ロシアと戦って勝ったのです。これがなければ、日本は植民地支配されていたかもしれません。そして、アジアやアフリカの独立は、さらに遅れたと思われます。白人支配の常識に風穴を空けた出来事だからです。
その日露戦争の勝利には、数々の要因がありました。その中の1つが日英同盟であることは、よく知られています。これまで一度も他国と同盟関係を結んだことのないイギリスが、こともあろうかアジアの弱小国、日本と同盟を結ぶ。こんな摩訶不思議なことが起こったのが、義和団の乱での日本人の活躍だったのです。
清朝は義和団と組んで、日本、ロシア、イギリスなど8ヶ国の人々が駐留していた居住地域を取り囲みました。925名の外国人居住区に、逃げてきた中国人クリスチャン約3000人。その地域を守る兵力は、わずか500人足らず。連合軍2万人が到着するまでの約2ヶ月間、その勢力で義和団の攻撃に耐えたのです。
その中心にいたのが、英語、フランス語、中国語などをたくみに使った柴五郎(しば・ごろう)。冷静沈着に指揮して、パニックが起こるのを防ぎました。イギリス公使のクロード・マクドナルドは、「彼のしもべになってもいい」と手記に記すほど、五郎に惚れ込んだのです。このことからマクドナルドは、本国に日本との同盟を進言します。ロシアの台頭を抑えたかったイギリスは、日本との同盟に踏み切ったのです。
「宮古島に戻った後も、「決して口外してはならない」という約束を守り、5人は自分たちのしたことを家族にも口にしなかったといいます。しかし、やがて彼らの努力は多くの人々が知ることとなり、このエピソードは全国の日本人の胸を打ちました。
彼ら5人は「久松五勇士」と呼ばれ、戦前の教科書に掲載されます。さらに、沖縄県知事からも表彰を受けることとなりました。」(p.54)
日露戦争では、バルチック艦隊がどこから現れるかが重要なポイントでした。それを真っ先に発見したのは、宮古島の漁師、奥浜牛(おくはまうし)という若者でした。しかし、そこからの連絡が難しかったのです。宮古島には通信施設がないため、石垣島へ行かなくてはならない。約170kmをサバニと呼ばれる手こぎボートで渡る。その任務に選抜されたのが、漁師の垣花善(かきはなよし)、垣花清(かきはなきよし)、与那覇松(よなはまつ)、与那覇蒲(よなはかま,松原村)、与那覇蒲(久貝原)の5人だったのです。
到着した石垣島も、通信施設があるのは30kmの山道を行った先。彼らは疲労した身体に鞭打ち、八重山郵便局に向かい、大本営へ向けて打電しました。
しかし、彼らの苦労は報われませんでした。それより先に、日本郵船の貨客船、信濃丸が「敵艦見ゆ」の打電をしていました。第一通報者にはなれなかったのです。
役には立たなかった。けれども、日本のために死力を尽くした名も知らない人々がいる。白駒さんは、そのことを掘り起こしたいのです。こういう点は、一隅を照らす生き方をした人にスポットライトを当てた神渡良平さんの姿勢と通じるものがあるように思います。
「日本が長年統治していたのは台湾と韓国です。では、その2ヶ国、今はどうなっていますか? ともに先進国じゃないですか。欧米が植民地支配をしていた国のどこに先進国があると言うのですか。日本が統治をしていた国や地域だけが、先進国になっているのですよ。」(p.68)
白駒さんの価値観をひっくり返したという、インドネシアの教授たちから白駒さんが聞いた話です。インドネシアの人たちはみな、日本に感謝していると言われたのです。
「歴史上の出来事のプラス面、マイナス面を両方知った上で、自分なりの歴史観を持つこと。それが本当の「歴史からの学び」だと思うのです。
そういう意味で、このインドネシア独立にまつわるエピソードは、現在の日本に生きる私たちが知っておくべき話だと思い、私はみなさんにお伝えし続けているのです。」(p.71)
先の大東亜戦争(太平洋戦争)には、いろいろな意味があります。日本が欧米列強と同じように植民地を欲した侵略戦争という一面もあれば、ABCD包囲網でジリ貧になる前に石油を確保したかった自衛戦争という一面もあると思います。そして、欧米の支配からアジアを解放する解放戦争という意味も。
一面的な見方に偏るのではなく、事実をもとに自分の歴史観を持つこと。それが重要だと白駒さんは言います。
「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そして、もし私たちよりさらに不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で私たちも臨むことでしょう。『四海の内みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すことでしょう」(p.92)
こう語ったのは、第一次世界大戦の時、青島(ちんたお)で日本に攻撃されて捕虜になったドイツ兵です。四国徳島の一番札所がある坂東に収容所を作り、1000人ものドイツ人捕虜を収容しました。地元の人々からは「ドイツさん」と親しまれ、手厚くもてなされた彼らは、音楽やスポーツの活動も活発に行いました。
その中で生まれたのが、1918年6月1日に行われた日本初の「第九の演奏会」だったのです。彼らを手厚くもてなしたのは、会津藩出身の松江豊寿(まつえ・とよひさ)所長。論語にある「四海の内みな兄弟なり」という精神で、捕虜に対しても真心と礼儀を尽くしたのです。
「ところで、沖縄戦といえば、「本土決戦までの時間稼ぎのために、多くの県民が捨て石にされた」というイメージが強いと思いますが、当初、日本軍は住民を戦いに巻き込む気はなく、県民の半分以上を九州や台湾に疎開させ、残り半分以下の県民を沖縄本島北部に移す予定でした。仮に沖縄が戦場になった場合、戦場に多くの住民がいれば被害が大きくなるばかりか、軍は住民を守るため、本来の戦闘力を大きく削がれてしまうからです。」(p.103)
これは知りませんでした。でも、考えてみればそうですね。後で出てくるパラオでの決戦のように、日本軍が民間人を盾に使うことは考えられませんから。
残念だったのは、疎開が遅れたこと。これは、多くの人が疎開に躊躇したことも原因であるようです。そして、アメリカ軍が沖縄本島中央部に上陸して南下したため、住民もろとも追いやられてしまったこと。ここには、官選知事の島田叡(しまだ・あきら)氏が任官を拒否しなかったエピソード、最後まで住民を守ろうとしたエピソードなどが書かれています。
「実は、沖縄戦における民間の犠牲者の多くは、首里城が陥落し、軍の南部撤退に伴って本島南部全域が戦場となってから、亡くなっています。まさに彼らは、本土決戦準備のために、捨て石にされたのです。」(p.110)
ここまできては、県庁職員には何もすることができません。島田知事は約100人の職員に解散を命じます。島田知事は、住民全員が逃げられない状況下で、自分が逃げるという道は選ばれなかったのです。
本土から派遣され、このような思いで沖縄の人々に尽くそうとした人がいた。それは、島田知事だけではなかったようです。次の大田実(おおた・みのる)中将が海軍次官へと言って打った最後の電文も心を打ちます。その最後を引用しましょう。
「これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民は、このように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。」(p.114)
この1週間後に、大田中将は自決したそうです。この大田中将の思いは、現代に伝わっているのでしょうか? まずは、知ることが重要だと思います。
「私たちは、過去に起こった出来事を、変えることはできません。でも、当時の人々の思いを知ることで、受け止め方を変えることはできます。
それによって、過去に生きた人々の命が輝き、同時に、いま生かされている私たちも少しだけ幸せな気持ちになれる……。そこに、歴史を学ぶことの大きな意味があるように思えるのです。」(p.126)
昭和天皇の行幸のエピソードの最後に書かれてある白駒さんの言葉です。事実は変えられませんし、それを捻じ曲げてはいけません。しかし、その見方を変えることはできます。
それぞれの人の懸命に生きた背景を知ったなら、同じ出来事も違って見えてきます。もし、自分がその立場なら、どんなことができただろうか? そんなことを考えてみるのも、良いことだと思います。
「ただし、ここで特筆すべきは、メキシコが日本にとって一番初めに平等条約を締結した国であり、オリンピックの東京開催を、世界で最初に支持してくれた国であるということです。これが、「2番目」だったら、両国の友情は存在していたかどうか……。」(p.137 - 138)
1874年の金星大接近の観測場所として日本が最適だとわかった時、不平等条約を振りかざして上から目線でものを言ってくる欧米諸国に比べ、メキシコは最初から対等に臨んできました。その真摯な態度に応え、日本は最高の観測場所をメキシコに提供しました。それに対してメキシコは、初めて平等条約を結んでくれたのです。
このことがきっかけで、欧米の不平等条約を改定して行くことができました。日本はそのメキシコの恩義に応えようと、都内の一等地を大使館用に無償で提供したのです。メキシコの勇気ある行動がなければ、欧米と肩を並べるまでに相当な時間を要したことでしょう。
「エルトゥールル号が遭難する4年前(1886年)に、やはり近海でイギリスの貨物船ノルマントン号が遭難したとき、乗り合わせていた二十数名の日本人乗客全員が水死するという、痛ましい事件が起こりました。このとき、イギリス人の船長、船員は、自分たちだけボートで脱出し、日本人乗客を見捨てたのです。
この悲劇を、当時の日本人なら誰もが知っていました。悲しくて悔しい出来事でしたが、当時は幕末に結んだ不平等条約が続いていて、日本は彼らを裁くことさえできなかったのです。」(p.154)
そんな状況下で起こったエルトゥールル号遭難事件です。どうせ外人なんだからと、放っておいても良かったはず。でもそれをしなかった。それを白駒さんは「惻隠の情」があるからだと言います。頭で考えた結果ではなく、直感的に助けずにはおれないと感じる心。そういう心を、日本人は強く持っているのかもしれませんね。
官軍と幕府軍が戦った時も、同じようなことがありました。清水の浜に打ち上げられた幕府軍の兵士を、多くの人が官軍を恐れて見て見ないふりをしていました。しかし、1人、そうしない男がいました。清水の次郎長です。死んだらみな同じ仏様だとして、手下に命じて懇ろに弔ったのです。
また、日露戦争の時もありました。日本海海戦では多くのロシア戦が日本海に沈みました。その中に、島根県江津市沖まで辿り着いた船もありました。イルティッシュ号です。住民はそれを助けて介抱し、乗員265人全員を助けたのです。私の故郷でもある島根県のエピソードです。
たとえ敵国の人であったとしても、戦闘時でなければ人として敬意をもって遇する。そういう気概が、日本人には伝統的にあるように思います。本書にも太平洋戦争時に、沈没した敵艦船の乗員を助けたエピソードが載っています。そういうのを読むと、人としての美しさを感じます。
「それにしても、海で受けた恩を空で返してくれるなんて、トルコ人も粋ですね。」(p.155)
エルトゥールル号の恩を忘れなかったトルコによって、イラン・イラク戦争の時にイランに取り残された多くの日本人が救われました。自国民は陸路で避難するようにさせ、優先的に日本人を救出機に乗せてくれたのです。
このエピソードは、映画にもなりました。「海難1890」です。もう思い出しただけで涙がこぼれそうになります。
「私は、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外のさまざまな町を訪れましたが、そのたびに、”日本ブランド”を感じていました。「日本人だから」という理由だけで、信用してもらえたり、とても親切にしてもらえたんです。
それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が共感してくれていることからきていたと思います。敗戦後、日本がまたたく間に復興できたのも、日本人の努力や能力以上に、日本人ブランドが世界に愛されていたからではないでしょうか。」(p.172)
本書には、ベルギー、メキシコ、ウズベキスタン、トルコ、ポーランド、スリランカ、パラオ共和国という国の人たちが、日本に対して親しみを持っていてくれることがエピソードとともに書かれています。日本人があまり知らないことがほとんどです。しかし、間違いなく私たちのご先祖様の誰かが、その国の人々の心に残る対応をしてくれています。
「日本は天国のようなところだった」と語ってくれたのは、シベリアから日本経由でポーランドに戻ることができた孤児の1人、アントニーナさん。ヨーロッパの国がどこも助けなかった時、日本だけが救いの手を差し伸べたのです。そして、その孤児たちに対して親身に接した大勢の日本人がいました。
「何か特別なことやとてつもなく大きなことをする必要なんて、ないのです。先人たちがしてきたように、大切な人、大好きな人を笑顔にするために、一日一日を、心をこめて丁寧に生きる。勇気と誇りを持って、この世を天国に変える小さな一歩を、踏み出していきましょう。」(p.173)
白駒さんは、このように言います。目の前の人を笑顔にする。喜びを与える。そうする方法は無数にあるし、そう決意すればその方法は見つかる。そして、他人に喜びを与えれば、自分が喜びを得られる。それが本来の私たちの姿なのだ。そう、「神との友情・下」にもありました。
「例えば、コップに半分入った水を「もう半分しかない」と受け止めるのが、マイナス思考。「まだ半分ある」が、プラス思考。でも、まったく違う受け止め方もあるのです。水の量に関係なく、「こうして飲めることが有り難いな」とか、「こうして安心して水が飲めるのも、大自然のおかげであり、先人たちのおかげ」といった受け止め方がある。
私はこれを「感謝思考」と呼びたいと思います。」(p.188)
これは新しい視点ですね。多い少ないと量に注目するのではなく、ただ存在していることに感謝する。「感謝思考」という言葉は、私の心に響きました。
「八田さんが台湾に残した一番の功績は、八田ダムを造ったことではありません。確かに、それも大きな功績です。でも自分は、それと同じかそれ以上の功績があると思っています。それは、八田さんが台湾に日本精神を伝えてくれたことです」(p.228)
李登輝元総統は、日本で講演する時、必ず于山島(うざんとう)ダム(八田ダム)を造った八田與一(はった・よいち)氏のことを話されるそうです。その時、上記のようなことを話されるのだとか。
「公に生きる」「他人の幸せを考える」「他人の痛みを自分の痛みとする」というような自他同一の感覚が「日本精神」なのです。台湾の人たちにとっては、「日本精神がありますね」というのが、最も嬉しい褒め言葉なのだそうです。
巻末には横田南嶺(よこた・なんれい)氏の解説があります。白駒さんは、これだけでも読む価値があると絶賛されていましたね。私のFacebookに、白駒さんが次のようにコメントされていました。
「横田管長の解説が素晴らしく、これだけでも皆様にお読みいただけたら本望です(*^^*)」
本書に、日露戦争に先立って金子堅太郎がルーズベルト大統領に会いに行き、日本への協力を取り付けたという話が載っています。ハーバード大学で同窓だったよしみがあったからです。その金子がアメリカに渡ることになった時の伊藤博文とのやり取りが、この解説に書かれています。
ちょっとネタバレになるので引用しませんが、さすがは伊藤博文だなぁと思わせるエピソードです。しっかりとした見識と胆識。一流と言われる人は、さすがに違いますね。もし大東亜戦争の時も、伊藤博文が首相だったら・・・と思ってしまいました。気になる方は、ぜひ本書をお読みください。
白駒さんも書かれているように、歴史を学ぶとは、年号や出来事を覚えることではない、と私も思います。さまざまな環境、事情、出来事があり、その中で人々がどう考え、どう行動したのか。そのことを知ることが、歴史を学ぶことだと思います。
それも、ただそれを知ればよいのではありません。知識だけ増えても、評論家になるだけです。それでは意味がありません。その知識を自分の生き方に活かすこと。活用しなければ歴史を学んだことにはならないのです。
そういう意味で、わかりやすくエピソードを伝えてくれる白駒さんの本は、とてもお勧めです。この本も、ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思いました。
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