2018年08月14日

道ありき

 

久しぶりに三浦綾子さんの小説を読みました。もう30年ぶりくらいになるでしょうか。たしか「氷点」「塩狩峠」を以前は読んだのだと思います。「塩狩峠」は映画かドラマで観ただけかもしれません。記憶があいまいです。

この小説を読もうと思ったのは、友人がFacebookで三浦さんの言葉を紹介されていて、その言葉に真理を感じたので興味を持ったのです。三浦さんはクリスチャンですが、一般的な教会の教えを超えた真理に気づいておられるのかもしれない、そう思いました。それでその友人に、お勧めの本を紹介してもらったのです。

「道ありき」で検索すると、数冊出てきました。同じタイトルで単行本と文庫本があり、一方には「青春編」とありました。それで私は、同じタイトルで「青春編」とオリジナルの2冊があるのだと勘違いし、両方を買ってしまいました。届いてから見ると、どちらにも「青春編」と書かれていて、実は同じ小説だったようです。

ただ、単行本には、文庫本にない「太陽は再び没せず」という短編が収められていました。これは、三浦さんがデビューするきっかけになった小説だそうです。私が生まれた年でもある1961年に雑誌「主婦の友」が募集した「婦人の書いた実話」に林田律子のペンネームで応募し、当選した作品で、「道ありき」の原型になっています。

文庫本には、単行本にない解説が収められていて、どちらを読んでもそれぞれに楽しめるかと思います。また、この「道ありき」には続編が2冊あるようで、それらも文庫本で購入しました。これから読むのを楽しみにしています。


ではさっそく一部を引用して、内容を紹介します。
その前に、これは小説ですから、あらすじを簡単に紹介しましょう。

ここに書かれているのは、三浦さんの青春時代の実話のようです。
小学校教師として勤めていた三浦さんは、終戦後に退職します。価値観の大きな転換に接して、教えるということができなくなったのです。

その後、結核に罹ります。さらにそれは脊椎カリエスとなり、寝たきりの状態にまでなります。そんな中で、素敵な男性(前川正)と巡り会い、その人がクリスチャンだったこともあって聖書を読むようになり、様々な経験を経て、洗礼を受けることになります。

出会った男性も結核で、先に亡くなってしまいます。そんな傷心の時に、その男性とそっくりの別の男性(三浦光世)と出会います。その男性もまた素晴らしく魅力的な人で、三浦さんは惹かれていくのです。そして長年の闘病生活の後、三浦さんの病気は治り、その男性と結婚します。

小説には、ここまでの様々な出来事や三浦さんの思いが、交わした手紙や、その時に詠んだ短歌などとともに書かれています。

三浦さんはご自身を「美しくない」と言われていますが、多くの男性を惹き付ける魅力があったことは間違いないようです。病気で寝たきりでありながら、愛を語る男性が他にも何人かおられたとのことですから。

このようにあらすじを書くと、女性からすると嫌味な感じに受け取られるかもしれません。ただ、この小説が語る本質的な部分は、そういうところにあるのではなく、三浦さんの様々な気付きにあると感じています。真理を感じ取る三浦さんの感性は、本当に素晴らしいものがあると思うのです。


生きる気力もなく、タバコを吸おうとする三浦さんを、前川正は止めようとします。しかし、三浦さんを責めるのではなく、自分の足に石を打ちつけることで、自分の不甲斐なさ、信仰の薄さを責めたのです。自分の命を捧げてもいいから三浦さんの病気が治るようにと祈る。そんな男性が、三浦さんの側にいたのですね。

いつの間にかわたしは泣いていた。久しぶりに流す、人間らしい涙であった。」(p.90)

そう述懐されているように、それまでの三浦さんは荒んだ心でいたのです。

自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。それは、あるいはキリスト教ではないかと思いながら、わたしを女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを、わたしはわたしなりに尋ね求めたいと思った。」(p.90 - 91)

しかし、信じて子どもたちに教えていたことが、一夜にして引っくり返されたことを経験している三浦さんです。それなのにまた何かを信じるということは、愚かなことだとも感じられました。けれども、自らを石打つ彼の姿に、三浦さんは、その愛を信じてみようという気持ちになるのです。


虚無は、この世のすべてのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを、伝道の書にわたしは感じた。」(p.106)

釈迦も同じように人生に虚しさを感じて、出家を選んだと三浦さんは言います。ご自身も、敗戦によって信じていたものが打ち砕かれ、虚しさの中に生きていました。そういう虚しさの極限まで行った時、通じるものがある。三浦さんはそのことを感じて、まじめに求めるようになっていったのです。


わたしは、男性の、わたしへの愛の言葉を、幼子がおとぎ話を聞くような、熱心さと、まじめさと、興味とあこがれをもって聞いたのです。なぜなら、男が女を愛すること、女が男を愛することは、わたしにとって大切な問題であったからです。」(p.116)

女に「魂」の生活があるってことを知らない男性たちが、何と多いことでしょう。」(p.117)

三浦さんには多くの取り巻き男性がいたことで、他の女性からは「妖婦(ヴァンプ)」と噂されていたそうです。三浦さんは、心から興味を持って男性の話を聞いたのでしょうね。その聞き上手な態度が、男性を惹きつけたのでしょう。わかる気がします。

しかし、三浦さんは男性の軽薄な愛の言葉に惹かれることはなかったようです。そういったものへの興味はまったくなく、心から魂の救いを求めていたように感じます。


いま生きたいと思っていることも、確かにそれはわたしの願いであり意志であるはずなのに、何とわたしたち人間の意志は、簡単にふみにじられることだろう。
 そう考えてくると、わたしはこの世に、自分の意志よりも更に強固な、大きな意志のあることを感ぜずにはいられなかった。
」(p.123)

自殺しようとしても死ねなかった。生きたいと思っても死んでしまう。そういう重大なことだけでなく、日常生活においてさえ、私たちの計画(意志)は、その思い通りにはなりません。三浦さんはそこに、絶対者である神の存在を感じられたそうです。


人間は、見たところしあわせそうに見えたとしても、必ずしもしあわせとは言えませんからね。」(p.147)

ひょっとしたらあの看護婦さんは、昨日縁談がこわれたかもしれない、と恋人の前川正は言います。たしかに、その人にどんな事情があるかは、その人しかわかりません。そしてその事情を、その人がどう捉えているのかも。

だからね、断定的にあの人たちは幸福だなどと、羨ましがってはいけませんよ。言えることは、いまぼくは、綾ちゃんと二人でこの芝生を歩いているだけで、じゅうぶんしあわせだということですよ」(p.147)

こんなことを語ってくれる素敵な男性が、三浦さんの恋人だったのですね。


ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだと思った。」(p.179)

親が子を愛することも、男が女を愛することも、相手を精神的に自立せしめるということが、ほんとうの愛なのかもしれない。「あなたなしでは生きることができない」などと言ううちは、まだ真の愛のきびしさを知らないということになるのだろうか。」(p.179)

親子の間だけでなく男女においても、依存させることではなく自立させることが本当の愛。そういう真理に、三浦さんは気づかれたのですね。


人の見舞物も、この太陽の光と同じように、わたしに降りそそぐ人間の愛ではないだろうかと思った。人の愛を受けるのに必要なのは、素直に感謝して受けるということではないだろうか。」(p.182)

西村という人が見舞物を持って来た時、三浦さんは断ったそうです。すると西村は、太陽の光を受けるのに、どっちから受けるかなどとしゃちほこばって受けるか?と言うのです。

そう言われてみると、太陽の光は礼を言うこともなく平気で受け取っています。天の愛を、そのように何の気兼ねもせずに受け取るのなら、人の愛も同じではないか。そう三浦さんは思われたのです。


だが、翌日訪ねて来た彼の顔を見ると、わたしは、別段何の悪いこともしていないのだと思ってしまうのであった。彼は彼で妻を愛し、わたしはわたしで前川正を愛している。その二人が、こうしてつきあっているからと言って、なぜ悪いのかと開きなおる気持ちがわたしの中にあった。」(p.192)

入院中、同室の女性がご主人のことを話したそうです。ご主人は、会社の女の子とよくコーヒーを飲みに行っているのだとか。何もないと言うらしいのですが、そう言われても仲良くしている姿を想像すると嫌でたまらないのだと。それを聞いた三浦さんは、同情して相槌を打ったそうです。

もし自分が彼女と同じだったら、と考えたのです。三浦さんの恋人が他の女の子と親しくしていたら・・・と。ところがその時、三浦さんはかつての婚約者の見舞いを受けていました。その婚約者はすでに結婚しています。これは同じことではなかろうかと思われたのですね。

それでも、自分の立場からすると悪いことをしているとは思えない。もし恋人がそのことを悩むなら、くだらないと笑い飛ばしたくなる。まさに相談してきた女性の夫と同じなのです。

人は、それぞれの立場で感じ方や考え方が違います。どっちが正しいわけではなく、それぞれに正しさがあるのですね。


神の御計画が、人間のわたしにわかるわけがなかった。しかし神が愛の方である以上、前川正の死は、それなりに神の定めた時であり、最もよしとした終わりであったにちがいない。わたしはそう思うようになって行った。」(p.251)

早すぎる恋人の死を嘆き、神に不満を言っていた三浦さんですが、ある時、自分の態度が間違っていたと気づかれたのです。神が愛であり、正しい方であるなら、間違ったことをされるはずがない。そうであるなら、今の自分には理解できないとしても、恋人の死は、最も良い時に、最も良いこととしてなされたことに違いないのだと。

「神との対話」でも、このことは示されています。だからマスターは、起こったことをすべて「好ましい」として受け入れるのです。


どんなにわたしが彼を愛していたところで、神がわたしに彼を与えてくださらないのなら、それもまた仕方のないことだと思った。この頃からわたしは「必要なものは必ず神が与え給う。与えられないのは、不必要だという証拠である」と信ずるようになって行った。わたしは以前ほどあくせくしなくなった。」(p.285)

旧約聖書のヨナ書の話を聞いて、三浦さんは信仰を深められたそうです。後に結婚された男性との関係で悩んでおられたのですが、このことから執着せずにいられるようになったのだとか。

これも「神との対話」に示されていることでもあります。起こることが良いことなら、何が起こるか、起こらないのかと、いちいち気にする必要はないのです。


この小説は、三浦さんの人生に実際に起こったことです。事実は小説より奇なりと言いますが、まさにそうですね。
三浦さんがどういう出来事を通して信仰を深めて行かれたのか、そのことがよくわかります。小説と言うより、三浦さんの信仰の歴史であり、告白であるように思いました。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:35 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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