2018年02月19日

私は、悲しみも劣情も、静やかに眺める。



誰の紹介だったかすっかり忘れましたが、黒田充代(くろだ・みつよ)さんの本を読みました。スピリチュアル関係のようですが、黒田さんがどういう方なのかよくわかりません。紹介文にはこう書いてあります。「目に見えるものと目に見えないもの。世界に溢れる陰陽両極のバランスを、独自の見渡し方で捉えなおし、どんな現実も「私らしく」受け入れる中庸の心で生活している。」

これでは、どんな仕事をされているのかとか、よくわかりません。しかし、おそらく、どんな仕事かが気になるのは、私がいわゆる「世間的な」見方をしているからでしょう。黒田さんにとっては、それはどうでもいいのです。それよりも、「中庸の心」で生きているかどうかが重要なのだろうと思います。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

中庸な心は自分自身さえも見渡します。
 物事に「〜べき」を定めず、「良い」「悪い」、両極を見渡して受け入れる「中庸な生き方」は、最初から目指してできるものではありませんが、どんな感情に襲われても、真っ先に自分自身に還ることができたなら、いつか真の中庸さに辿り着きます。自分をすり減らすことなく、どんな感情も行き着くところまで味わい尽くす、その全体を見渡す行為こそが、「調和」なのだと気づいたのです。

 良くしよう、巧くやろう、じゃなく。
 自分の考えや思いを「そのまま」に見渡し始めたら、自分の小さな世界は必ず動き出し始めます。
」(p.4)

黒田さんは、印象的な言葉を使われます。「中庸」とか「見渡す」は、そのままではなかなか理解しづらいと思います。その意味をこの本では説明していますが、必ずしも論理的なものではないため、私などはよくわからないという気持ちになります。しかし、感覚的にとらえる人には、伝わりやすいのかもしれませんね。

ここで語られていることは、スピリチュアル系ではよく言われていることです。決めつけないことや可能性を認めること。価値観は人それぞれだし、自分も変わるということ。すべての感情を受け入れて味わうこと。結論としては同じでも、そのとらえ方に黒田さんの感じ方があるのでしょうね。


動搖するとき。
 心の中にある「中庸な場所」を思い出してほしいのである。

 動揺する自分があること。
 それを愛(いと)しむ、いまの私がいる。

 否定も肯定もなく、心が揺れるということを感じられるようになったとき。
 初めてそこに、心地よさというものがやってくるのだと思う。
」(p.33)

動揺するというのは、感情に振り回されそうな時でしょうね。その動揺してしまう自分を愛しむ自分がいると黒田さんは言います。スピリチュアル系では、観察する自分という言い方をしますが、そういう存在でしょう。

観察する自分は、それをいちいち「良い」「悪い」などと決めつけたりせず、ただただ観察しています。だから、否定も肯定もせず、「心が揺れているんだなぁ」と感じる。こうして観察する自分こそが本当の自分なのだと気づくと、そこに平安がやってきます。


私の考える「中庸」とは、人間は極端に偏っていてもいいし、相反するものを持っていてもいいという概念。この世の中には、有っていいものも、無くていいものも、同じく存在しているという定義である。

 相反するという意味を「両極」とするなら、それらを持ち合わせる感覚とは、すでに調和されている状態。どちらかを、少数を、切り捨てながら綺麗に調和させるのではなく、両極を見渡してどちらも持ち、それがどんな状態だとしても、否定も肯定もなく見渡す感覚が中庸である。
」(p.36 - 37)

他の文章と違って、ここでは論理的な説明をしています。「中庸」「見渡す」という意味が、ここで説明されていました。ただ、偏っていてもいいのであれば、両極がないので調和していないことになってしまいます。概ね理解できるものの、こういう矛盾点が少し気になります。


欲しいものや願うものだけを選び取り、意図的に引き寄せたとしても。
 なくていいものや、思わず視線を逸らしてしまいたいものを引き寄せたとしても。

 実は、それはひとつの塊の両極であり、すべては両極で創られている世界であるということを、無作為に「引き寄せ」という形で、私たちに気づかせてくれているのかもしれない。

 すべての物事には両極がある。
」(p.78 - 79)

すべてに両極があるというのは、スピリチュアル系でよく言われていることです。コインの裏表という言い方もしますね。ですから、表(良い面)だけ引き寄せたくても、それは不可能です。裏(悪い面)も同時に引き寄せられるのだと。黒田さんも、そういうことを言われているのだろうと思うのですが、ややわかりづらいです。


なにものにも決めつけるということがない、私は自由だ。
 中庸な人はそれだけで自由な人。
」(p.156)

決めつけないから自由でいられる。その感覚は私もわかります。決めつけるというのは、「こうでなければならない」と必要性にとらわれることだからです。


世間の喧騒に甚だ敏感であるなら、正直それらには、少々鈍感であってもいいくらいの話だ。だが、こと自分自身からの騒(ざわ)めきというものには、スッと反射的に立ち上がるような直感力が、とても大切になってくる。

 感覚を研ぎ澄ます! というこの行為が、現実的に活かせたとき、落とし込めたときに初めて、自分らしいスピリチュアルに触れることができると筆者は思う。
」(p.196)

世間の雑音、つまり常識がどうのこうのというような声には、鈍感であっていいと黒田さんは言います。しかし、自分の心の声には敏感であるべきだと。スピリチュアル系では、常に内なる自分を重視すべきと考えます。真実は外ではなく、内にあるからです。黒田さんも、同じことを言われているのでしょう。


黒田さんの文章は散文的で、正直に言えば私はあまりしっくり来ません。重要なことを語られていることはわかりますが、言葉が心に染みてこないのです。なので、目は字面を追っているものの、意味が頭に入ってきてこず、「あれっ?さっきのところはどんなことが書いてあったんだっけ?」と読み返すことが多かったです。

でも最初にも書いたように、こういう散文的な表現がしっくりするという人もいると思います。感じ方は人それぞれですから。書かれている主題的なことで、特におかしい(間違い)と感じることはないので、合う人にとっては役立つ本ではないかと思います。

私は、悲しみも劣情も、静やかに眺める。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:33 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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