何を見て買ったのか忘れましたが、読み始めたら興味深くて、一気に読んでしまいました。イラストルポライターの内澤旬子(うちざわ・じゅんこ)さんが2008年10月から2009年9月まで、3頭の豚を飼い育て、屠畜場に出荷し、みんなで食べ比べをするまでのルポルタージュです。
昔はけっこうあったと思いますが、自分が育てた豚を自分で食べるということは、現代ではなかなか経験できません。「かわいそう」という感覚はないのか? そもそも、なぜこんなことを始めたのか? 様々な興味があって、この本を買ったのです。そして読んでみたところ、実に面白い。そして、いろいろと考えさせられました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「ちなみに畜魂碑を建てるという文化を持つ国は、日本の他にない。いや、探しているのだが、いまだ見つからない。」(p.3)
日本の屠畜場には、必ず畜魂碑や記念碑があり、畜霊祭のような家畜の魂を慰める行事があるそうです。日本人的には「さもありなん」と感じますが、こういうことが外国にないということに驚きました。
「とはいえ現在は、アメリカやヨーロッパをはじめとする多くの経済発展国に住む人々が、動物の愛玩と食肉利用の境界には、堅固な壁があると信じこんでいるようにも思える。自分だって屠畜を取材するために各地を訪ねる以前は、そこに明確な境界があると信じていた。しかしそれはほんとうに不動の壁なのだろうかと、取材を重ねるうちに思うようになっていた。
今回の計画は自分だけで気ままに行う試みなのだから、あえて名前をつけてかわいがった上で、つぶしてみてもいいのではないか。そもそも豚をかわいがったらどこまでかわいくなるのかということにも、興味がそそられる。」(p.10)
何千頭もの屠畜を見てきた中澤さんは、それに対して「かわいそう」という感覚は持たなかったと言います。それが愛玩動物になったら違いがあるのだろうか、という疑問があって、今回のことを計画されたようです。
私の家では、鶏を飼っていたことがあり、卵を産まなくなるとつぶして食べていました。子どものころ、鶏に餌をやることがあったのですが、名前まではつけないものの、性格がおとなしい鶏には、「かわいい」ほどではなくても、少し思い入れがありました。その鶏が潰されたとき、その肉を食べるのに抵抗を感じたことを覚えています。
「しかし生まれるそばから死んでいく豚に対面することで、何かが変わった。もし私があの時濡れた赤ちゃんを掴んで母豚の乳房につけてやったら、生きたのだろうか。それで助けてやっていればショックを受けなかったのだろうか。違う。そうではない。今自分が圧倒されているのは、生まれることの、死と隣り合わせの、文字通り紙一重の、どうしようもないはかなさだ。」(p.62)
豚の妊娠出産から立ち会うことにした中澤さんですが、出産ではショックを受けたようです。豚の排卵は20個ほどで、生れてくるのは10匹くらいなのだとか。しかし、死産も多いし、生まれても虚弱ですぐに死んでしまったり、猫が入ってきて襲われる子豚もいるのだそうです。
これまで、屠畜されていく豚を見てもショックを受けなかったのですが、この光景には何か違うものを感じたと言います。それは、生と死を分ける運命とも言うべき厳しさだったのかもしれません。
「周りの反応を聞けば聞くほど、結局は何がかわいそうで何がかわいそうでないか、何を食べて何を食べないかという基準のもとになるものが、わからなくなる。結構いい加減な、単なる習慣に基づいているだけにすぎないのではと思わされる。なのにほとんどの人は、それを絶対的な確固たるものだと思い込んでいる。時にはタブーであるかのように、騒ぐ。実に不思議だ。」(p.140)
豚に名前を付けて飼おうとしたとき、屠畜関係の人からも反発を受けたそうです。農家が小規模に豚を飼っていた時でさえ、つぶす時は隣の農家と豚を取り替えたとか言って。一方で千葉のこの町には漁港があり、イルカをよく獲って食べているとか。欧米からは猛反発を受けていますが、イルカを食べるのは平気なのです。
たしかに、何を食べるかについては、それぞれ基準が違いそうです。この辺のことは、この前紹介した「おクジラさま」という本にも、同じようなことが書かれていますね。
「二〇一〇年、宮崎県で起きた口蹄疫騒ぎで、感染を防ぐために殺処分せざるをえなかった牛豚に対し、もともと商売として飼って屠畜場に送り出すものなのに「かわいそう」と言う農家に違和感を持ったという意見が、ネットに上った。畜産の現場から離れたところから見れば、そう思えるのかもしれない。
でも違うのだ。畜産は、そんな単純なものではない。自分がやってみて思ったのは、生き物を育てていれば、愛情は自然に湧く、ということだ。」(p.171)
肉食用の家畜を育てていても、健やかに育って欲しいという愛情が湧くと言います。それは単に、それによって経済的な恩恵があるからだけではないのだと。
「「健やかに育て」と愛情をこめて育てることと、それを出荷して、つまり殺して肉にして、換金すること。動物の死と生と、自分の生存とが(たとえ金銭が介在したとしても)有機的に共存することに、私はある種の豊かさを感じるのだ。」(p.172)
前に紹介した「いのちをいただく」という本では、屠殺をしている坂本さんの話があります。農耕用の牛だったと思いますが、いずれ使えなくなれば食肉になる運命だったのでしょう。私の実家の向かいも、農耕用の牛を飼っていました。どうしたのかは知りませんが、おそらく肉牛として売ったことがあったと思います。そういうことが、以前は普通にありました。
「これまで私と三頭が交わしていたものが、どこに消えてしまうのかが、皆目見当がつかなかった。消えたら消えたでいいような気もするし、とても寂しい気もする。
ペットではない。まして家族や友人でもない。彼らは家畜だ。かなりペットに近い形で飼ったかもしれないけれど、家畜だ。でも、たしかに愛情を交わし積み重ねてきたのだ。
豚を食べるために殺すのに躊躇はないけれど、豚をずっと飼い続けていたい。」(p.207 - 208)
屠畜の日が近づくにつれ、中澤さんの心には矛盾する思いが湧いてきたようです。最終的には、やはり食べることに決めるのですが。
「しかも豚を一一〇キロまで育てるのにその三倍、三三〇キロの餌を食べさせている。肉はエコロジカルな食品ではないから、食べるのをやめるべき、と主張している団体の言うことも、わかる。ちなみに牛の場合は六五〇キロの体重の三割である、二〇二キロしか精肉は取れない。
ただし、肉は美味い。私たちの生活文化に深く入り込んでいる。すべての人が地球環境のためを思って、植物だけを食べて生きる暮らしにシフトできるかといえば、非常に難しいのではないかと思う。」(p.245)
豚の精肉は正体重の5割以下。牛になると3割。もちろん、内臓も食べられるし、骨も利用されますが、あくまでも精肉として私たちの口に入る精肉で考えると、それだけなのです。たしかに非効率と言えるかもしれません。その事実は私も認めます。ですが、私も肉は美味しいと思います。そして、肉を食べてきた文化を持つ民族もいます。一概に否定されるべきものではないと思うのです。
「帰ってきてくれた。
夢も秀も伸も、殺して肉にして、それでこの世からいなくなったのではない。私のところに戻って来てくれた。今、三頭は私の中にちゃんといる。これからもずっと一緒だ。たとえ肉が消化されて排便しようが、私が死ぬまで私の中にずっと一緒にいてくれる。
こんな奇妙な感覚に襲われるとは、私自身、ほんとうにほんとうに思いもしなかった。」(p.277)
3頭の肉を料理して食べた中澤さんは、こんな不思議な感覚を感じたのだそうです。
「肉食をやめる、つまりとりこむ生命体を選んだところで、何かを殺していること自体に変わりはない。どこにボーダーを引くのかは、人間の暮らす社会の都合次第でいかようにでも変わる。そこに正義も善悪も真理もない。その生物を食べたいのか、食べたくないのか、種として残したいのか、残したくないのかがあるだけだ。それは人間の意思であり、エゴと言ったら言い過ぎだろうか。
むしろ肉として食べながら、殺すこと、屠畜することを忌み嫌うように仕向け、時には屠畜どころか食肉全般の仕事に対して差別すら生んでしまう社会のありかたや、宗教、人々の気持ちと向き合い、なぜなのか、なぜなのか、と繰り返し問うてきたのだ。」(p.277 - 278)
中澤さんは、答えは出ないと言います。感謝して食べたからと言っても、それすら罪悪感に被せる免罪符のように思えるとも言います。これとて、その考え方が「正しい」とも言えません。それぞれにそれぞのれの考え方があり、絶対的なものではないのす。
中澤さんは今回のプロジェクトによって、名前を付けた豚を殺すことを「かわいそう」と感じる人の気持ちも理解できると言います。しかしそれ以上に、生産、屠畜、解体、料理と、様々に関わってくれた人々への感謝の気持ちの方が大きいと言います。
「今回の震災で、改めて電気と石油と水がなければ、どうにもならない大規模養豚の現実を知った。放射能事故では、不思議な逆転現象がおきた。これまでずっと輸入肉よりも国産肉の方が安心安全であるともてはやされてきたのに一転、輸入肉の方が安全、と思われるようになった。被ばく量以外のことに関して、輸入肉の衛生基準や安全対策について、何か進歩があったと言うわけでは、もちろんない。
(中略)
非常に複雑な気持ちになる。被ばくを恐れるのは当然のことなのであるが、国産飼料にも、放牧養豚にも、それぞれ志を持って挑戦していた人たちがいると思うと、ほんとうに悲しい。」(p.302)
飼養頭数が増えることで、1頭の価格は安くなりました。しかし、大規模化によって、電気、石油、水が大量になければ畜産はなりたたなくなりました。東日本大震災の時は、電気が止まっただけで、日本の畜産は大変な状態になったのですね。
理想を描いて放牧をしていたところは、逆に放射能汚染の風評被害にさらされることになりました。恐がる気持ちもわかるけれど、様々な矛盾を感じ、中澤さんは忸怩(じくじ)たる思いを抱かれたようです。
最近、教育現場でも、こういう取り組みはあるようです。家畜を飼育して、それをつぶして食べるというものです。それに対して、賛成反対いろいろ意見があるようです。そういうこともあって、私はこの本のテーマに関心を持ちました。
そもそも、生命をいただかなければ生きていけないのが、この世界の生き物です。人間とて例外ではありません。「かわいそう」と感じれば、食べることを否定できるのか? 愛情をかけることと食べることは矛盾するのか? 「かわいそう」は愛情なのか? とても深遠なテーマだと思います。
おそらくこれは、絶対的な正解などないのです。現時点での私にとっての「正しさ」が存在するだけです。だからこそ、他人に押し付けるべきものではないと思います。それぞれが、このテーマについて考えを深めてもらえるといいかと思います。この本は、そのために役立つと思います。
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