予想外に素晴らしい本でした。そう最初に結論を書きたくなるほど、すごい内容だったのです。あとで引用したいと感じるページには折り目を入れながら読むのですが、それがなんと34ページもあります。さすがにそれだけ引用することは難しいので、この紹介記事をどう書こうかと頭を悩ませています。
著者は佐々木芽生(ささき・めぐみ)さん。大ヒット映画「ハーブ&ドロシー」の監督です。その最新作の映画が、同名の「おクジラさま ふたつの正義の物語」。2017年9月9日より日本国内で公開となっています。これは、「ザ・コーヴ」で話題になった太地町のこと、捕鯨のことなどを、賛成派反対派双方の視点から問い直してみる映画なのだそうです。
この本は、その映画公開と同時に発行されました。サブタイトルに「ふたつの正義の物語」とあります。これは映画のタイトルにも付けられています。どっちに正義があるのか、はたまた別の真実があるのか。そんな問題に取り組んだドキュメンタリーのような内容です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「この映画制作者の独善性と、漁師に一方的に向けられたカメラの暴力性が、『ザ・コーヴ』への最大の不快感であり、違和感だった。ドキュメンタリー作家としての倫理の許容範囲を超えているように思えた。」(p.11)
佐々木さんは、アメリカで上映された「ザ・コーヴ」を観て、このように感じたそうです。自分たちが正義だから相手を悪だと決めつける独善性、その正義のためなら相手を騙すことも平気で行う手段を選ばない態度などに、不快感を感じたと言います。
「私は、『ザ・コーヴ』のような映画がアカデミー賞を取ったこともさることながら、日本側から『ザ・コーヴ』制作者へのきちんとした反論が聞こえてこないこと、そして太地という町がピンポイントで国際社会からやり玉にあげられてしまった不運に、驚きと大きな憤りを感じた。」(p.16 - 16)
「ザ・コーヴ」がアカデミー賞を受賞した時、太地町の町長は声明を発表しました。その内容は、映画が科学的根拠に基づかない虚偽のものであるし、太地町の漁は県の許可を受けた正当なものだ、というような内容でした。しかし、アメリカに届いたのはこの町長のコメントくらいで、日本政府や知識人などからの有効な反論は届かなかったのだとか。
「しかし実際のドキュメンタリー「映画」とは、作家が独自の視点で事実を自由に切り貼りして、言いたいことを訴える表現手段というのが世界的理解だ。」(p.31 - 32)
ドキュメンタリーとは、客観的な立場から事実を伝えるもの、という観点から「ザ・コーヴ」を批判する人が多かったそうですが、それに対して佐々木さんは無意味な議論だと感じたそうです。
「『ザ・コーヴ』がドキュメンタリー映画というジャンルに当てはまるかどうかはどうでもいいことで、それよりも北教育長が証言したように、取材者への不誠実な態度、制作者の独善的な姿勢、事実誤認の部分など内容そのものを検証し、正面から批判すべきだったと思う。」(p.33)
これは、映画が何を伝えるかということが、問題の本質にあるからです。仮にそれがフィクションであっても、日本が第2次大戦で残虐なことをしたという映画が多数作られ、年中上映したら、人々はそれを真実だと受取ります。そしてそういうことが起こっています。(日本人は無関心ですが。)でも、そこが問題なのです。
「まずアメリカ人は自分たちで考えることを教育されている。だからきちんとした情報さえあれば、公平に判断してくれるはずだ。
ところが捕鯨問題に関しては、反捕鯨を唱える環境保護団体からの情報しかない。そのためアメリカ人は、反捕鯨側の意見だけで判断するしかない。」(p.33)
効果的な反論や適切な情報開示が行われないために、大衆を敵に回すことになっていると言うのですね。これは渡部昇一さんも、アメリカは大衆の意見で動くのだから、政府を相手にするより「みなの衆」を相手にすべきだと言われていたことと符合します。大衆に対して、血の通う言葉で訴える必要があるのです。
「この映画が提示するものは、クジラやイルカの問題をはるかに超えるテーマではないか。北が言うように、違う価値観や文化、歴史を持つ人間たちが、地球の限られた資源をどう共有し、共存していくのか。映画は、そこまで問いかけなければならない。」(p.36)
佐々木さんはこう言って、今回の映画に取り組む姿勢を示しています。まさにこれこそが、この本のテーマにもなっています。
「交わることのない考え方や価値観の違いは、気が遠くなるほど大きいように見える。ここに歩み寄りを期待するほうが、間違っているのかもしれない。何だか絶望的な気持ちになる。戦争とは、こうして始まるのかもしれないと思う。」(p.85)
私も、こういう絶望感を感じることが多々あります。歩み寄る姿勢とは、自分を曲げることではありません。相手の中に、自分が気づかなかった真実があるかもしれないという、可能性を持ち続ける姿勢です。根本的に相手に対する敬意を持ち続ける姿勢だと思います。
「これだけ世界の批判が日本に集中しているのに、日本側から有効な反論が聞こえてこないことへのもどかしさ、その原因のひとつは、英語での情報の欠如と、日本側からの情報発信の仕方がまずいと気がついていること。」(p.116)
佐々木さんは、きちんとした反論が英語でなされないために、問題が深刻になっていると考えているようです。そのために、互いが憎しみ合い、対立し合っている。そのことが悲しいのだと。これはまさに、慰安婦問題などの構図です。遠慮してきちんと反論しないから、誤解され続けているのです。相手を誤解させておいて、誤解する相手を非難する。そんな関係になっています。
「私たちは、人間と似たような動作や感情表現をする生き物を賢くかわいいと思う。だからと言って、人間らしい生き物だけを優れていると決めつけて、優先的に保護しようという考え方は、いかがなものだろうか。」(p.134)
たしかに、イルカやクジラは、人間に近いコミュニケーションを示します。しかし、だから優れているとか、だから保護されなければならないと線引きをすることに、私も違和感を覚えます。そういう考え方を否定するつもりはありませんが、その考え方だけが絶対的に正しいとは言えないと思うからです。では、何を基準にするのか? そこに絶対的な基準はないと思います。だからこそ、他人の価値観を否定することは、対立を煽るだけで無意味なのです。
「私は、玉林のことを知り画像や映像を見たことで初めて、太地を訪れる外国人活動家の気持ちに寄り添ってこの問題を考える機会を得た気がした。彼らがイルカやクジラに抱く強烈な感情は、きっと私の玉林の犬に対する思いに近いのだろう。しかし、外国人が現地に行って自分の考えを地元の人に押し付けたり、「残酷」や「野蛮」というレッテルを一方的に貼って世界に発信すれば、それは差別ととられても仕方がないし、地元の人の反発を買うのは当然だ。」(p.157)
犬を食べる習慣がある中国の玉林でも、一方的に報道され、批判されたことがあったそうです。その時、地元住民は声を大にして言い返しました。また報道記事へは、中国系アメリカ人から相当な反論があったそうです。こうやって反論があることによって、大衆は偏った意見だけに洗脳されることがなくなります。
「この時ハンターが持っていたある明快なビジョンこそが、その後のグリーンピースを巨大組織に成長させ、環境保護活動の手本となった。
それは、現場へ行って「クジラの命を救う」ことではなかった。救うために活動している自分たちの姿を「映像に収める」ことだったのだ。具体的には、ソ連の捕鯨船が放つ銛(もり)とクジラの間に、自分たちが船で突入するところを、確実に映像で捉えることだった。」(p.210)
自分たちをヒーローとして描くことが支援者を増やすことになる。いくらクジラを助けに行って何頭助かったと報告しても、それでは支援者は増えないのです。ストーリーを映像で伝える。これは人の感情にストレートに訴えかける方法なのです。
「一握りの若者たちのグループが、世界最大の環境保護団体に発展したのは、何よりも優れたメディア戦略があったからだ。というよりグリーンピースそのものが、環境保護を訴える「メディア組織」そのものだったからだ。」(p.213)
映像でストーリーを語るということが、どれだけ人々を根拠なく動かすことができるかということだと思います。もし、洗脳ということを言うのであれば、まさにこれが洗脳だと言えるでしょう。
「結果として、良識を持ったジャーナリストがどんなに中立でありたいと思っても、太地側から何の情報も得られないまま記事を書くことになり、情報源としてシーシェパードのような団体に頼らざるを得なくなってしまう現実がある。」(p.215)
小さな町に、英語で海外のメディアに対応するような組織はありません。営業時間が終われば、対応は明日に持ち越されます。一方、シーシェパードのような団体は、つねにWEBサイトなどで大量の情報を英語で発信しています。締切のあるメディアは、中立にしたいと思っても、それができない現実があるのです。だからこそ、日本政府がもっと危機感を持って、こういうことに対応すべきだと私は思います。慰安婦問題もそうですね。
「言葉は武器になる。毒に満ちた言葉によって、人は病に倒れることさえある。彼らが私に向けて放った強力な毒を私は身体で感じ取った。そしてベッドから起き上がれなくなった。」(p.225)
佐々木さんが中立的な映画を創っているという情報が新聞の英語版で流れた途端、シーシェパードなどから散々に叩かれたようです。彼らは佐々木さんのことを恐れ、まだ力が弱いうちに叩こうとしたのでしょう。言論の自由というものはありますが、言葉は人を殺すことさえ可能な武器なのだと思います。
「日本で捕鯨に反対する活動家を批判する時、よく聞くのが彼らの目的が「金儲け」だというものだ。しかし企業が利益を上げるのと、環境保護団体のようなNPOが利益を上げることが、まったく別問題であることはあまり理解されていない。」(p.241)
人は、相手の行動が理解できない時、自分の価値観を当てはめて理解しようとします。それがまさに、シーシェパードなどは金儲けのためにやっているという考え方です。しかし、そういう思い込みで相手を決めつけ、思考をストップさせることが、相互の理解を妨げる結果となっています。
「捕鯨に反対する海外の活動家と日本の捕鯨推進派は、実は奇妙な共存関係にあるのかもしれない。海外の活動家にとって、クジラやイルカ問題は効率良く活動資金を集めるための材料だ。クジラ、イルカ以外の動物を使って、同じ規模の資金を集めるのは難しいだろう。だから、やめられない。一方、日本の捕鯨推進派にとって、シーシェパードなど海外の活動団体は、日本の文化や伝統を攻撃する「敵」である。「敵と戦う」という理由で日本の世論を簡単に味方につけられる。」(p.247)
日本人で、今、クジラ肉や、ましてやイルカ肉を食べる人は、ほとんどいないと言っていいでしょう。しかし、捕鯨に賛成する人は60%に達すると言います。つまり、外国から土足で踏み入られ、潰されそうになっている日本の文化を守ろうという意識なのです。もし、こういう責め立てるようなことをしなければ、日本人は自らの意思として捕鯨をやめるかもしれない。そういうことを佐々木さんは指摘しています。
「今、世界を動かしているのは、日々人間の「感情」に大きく揺さぶりをかける、インターネットとソーシャルメディアの拡散力と、そこを通じて発信される単純化されたメッセージだ。」(p.274)
この例として、ツイッターをうまく使ったトランプ大統領の当選や、イギリスのEU離脱をあげています。サイレントマジョリティたちが、インターネットの情報などから、自分たちの主張を示したのだと。
それが本当かどうかはわかりませんが、単純化されたメッセージが感情に大きく揺さぶりをかけるというのは本当だろうと思います。本当は人は千差万別であり、様々な考え方の違いがあるのに、レッテル貼りをする(単純化)ことでまったく交わることができない異分子という認識を作り、それを敵とみなすような考え方が広まっています。
そうやって作られた敵同士がネット上で様々なバッシングを行い、ヘイトスピーチを繰り返し、いがみ合っているのです。
「『ザ・コーヴ』は、我々をサディストのように描いた」という、刺激的な英語の見出しがつき、記事は全世界に配信された。太地の一行は、思いを伝えることができて、心のつかえが少し取れたようだった。三軒町長が、取材を終えてホテルへ帰る時にポツリと言った。「これからは、ちゃんと発信していかなければなりませんね。今回釜山に来て、その大切さがわかりました。」
和歌山県の小さな町で起きている紛争を観ながら、戦争とはこうして始まるのだと思った。」(p.277)
2016年10月に、映画「おクジラさま ふたつの正義の物語」は、韓国の釜山国際映画祭で世界初公開されました。その時、太地から町長もかけつけ、海外メディアからの取材を受けたのです。観客の多くは、太地町に同情的だったと佐々木さんは言っています。
この本を読んで思ったのは、本当に正義は人それぞれにあるのだということです。太地町には太地町の、シーシェパードにはシーシェパードの正義がありました。その争いに関連して、日本人には日本人の、アメリカ人にはアメリカ人の、そしてその他にもたくさんの、その人なりの正義があるということです。
まずはそれを認識することが重要だと思いますが、認識できない人もいます。そういう人には助けが必要です。その助けの一つが、自らの情報を発信するということです。決して相手を批判するのではなく、自分はこう考えるのだという冷静な考え方です。他の人をリスペクトしながらも自分をリスペクトする。そうやって自分の情報を発信することが、自分だけでなく相手を救うことにもなるのです。
もちろん、そう簡単にことは解決しないかもしれません。しかし私たちは、この地球上で一緒に暮らしていかなければならない人間同士だという関係でもあります。そんな人間同士が、いがみ合っていた方が良いのでしょうか?
だんだんと距離感が縮まってきた現代。他と関係を持たずに1人で暮らしていくことなど不可能です。そうだとすれば、他人との関係をどう築けば良いのかを、考えて見る必要があるのだろうと思います。そのためにもこの本は、重要な視点を与えてくれると思いました。
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