白駒妃登美さんが紹介されていたので、この本を買ってみました。臨済宗円覚寺派館長の横田南嶺(よこた・なんれい)氏の本です。月刊雑誌「致知」に「禅語に学ぶ」と題して連載されたものを元に、1冊の本にまとめられたものになります。
横田氏は、高校生の頃から坂村真民さんに傾倒しておられました。そういうこともあり、真民さんの詩を数多く紹介されています。禅と聞くと、何だかわかりにくい禅問答を思い浮かべますが、とてもわかり易い表現で解説しておられ、読みやすい本でした。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「江戸末期に神道の一派を開いた黒住宗忠(くろずみ・むねただ)は、毎朝の日の光を拝むことを大切に説かれた。お日様の光を吸い込む、日拝(にっぱい)という修行が今でも黒住教で大切に行われている。「天地万物はお日様の光あたたまりの中に養い育てられている」「各々からだのあたたまりはお日様からいただいたものである」など、簡明な教えを説かれている。」(p.35)
森信三先生も黒住教の教えを評価されていたそうです。そして真民さんもその教を学び、毎朝の光を吸う「初光吸飲」という行を続けておられました。真理を体得された先人の教えは、相通じるところがあると横田氏は言います。
私の友人にも、毎朝のように日の出の写真をFacebookにアップする人がいます。日の出を拝むという感性は、日本人にはもう当たり前のことのように感じます。
「古来禅の修行は行雲流水などと言われ、自由自在に師を求めて行脚(あんぎゃ)をした。それも大事である。しかし、どこにいてもその師や道場の欠点ばかりを目にしていてはものにはならない。」(p.57)
これは、「法遠(ほうおん)去らず」という禅語の紹介に書かれています。この禅語の意味は、法遠という修行僧の話です。厳しい師のもとで修行しようと通っても、なかなか許してもらえない。そればかりか、雪の舞うある日、入門を求める僧たちに頭から水をかけたのだそうです。多くの僧は去っていきましたが、法遠だけは去らなかったとか。
こうして入門を認められた法遠ですが、これで終わりではありません。たびたび怒りに触れ、無理難題を押し付けられる。それでも自分は道を求めて来たのだからと、そこを去ることなく修行を続けたのです。
人生には、理不尽な出来事が多々あります。その時、そういう自分の外のものに原因を押し付け、自分の生きる道を見失ってしまいがちです。そういう時こそ、この「法遠去らず」という禅語を思い出してほしいと、横田氏は言われるのです。
「お釈迦様は、自ら人間において道を求め、人間において悟りを得たと語られたが、お釈迦様を尊崇するあまりに、時代が経つにつれて、お釈迦様を神格化し、我々にはとても及ばない高いお方だとして、我々はただあがめ奉るようになっていった。仏や祖師を尊崇することは尊いことには違いないが、禅はそのようなあり方を否定した。」(p.84)
これは「一無位の真人(しんにん)」という禅語の話です。つまり人には誰にもその中に、「一無位の真人」という素晴らしい存在があるのだということです。
「「一無位の真人」は常にお互いの眼でものを見ており、耳で聞いており、鼻で匂いを嗅いでおり、舌で味わい、身体に触れて感じている。この生きてはたらいているいのちそのものにほかならない。」(p.84)
私たちは、本質である「生命(いのち)」を見るのではなく、属性的なものを見て判断しがちです。お釈迦さまが素晴らしく、自分は凡人だという見方も、属性的な見方なのです。お釈迦さまにも自分にも、素晴らしい生命が宿っており、その生命こそが何にも代えがたい素晴らしいものであると見る。そういう見方が重要なのですね。
「そんな一時の感情を苦にしなくてもいいのです。それよりも、いま自分は泣いていると自分を認める。気がついているもう一人の自分が、あなたの中にいることに気がついたことがありますか。今僕が喜んでいると、喜んでいる自分を知るもう一人の自分が、あなたの心の中にいることを考えてください。このもう一人の自分を身体で学ぶのが禅の修行なのです。」(p.95)
これは松原泰道氏の「一期一会」という書物に載っていた話だそうです。「本来の面目」という禅語の話の中にあります。「本来の面目」とは本当の自分のこと。それは、自分が何をしているか、何を感じているかを観察している自分のこと。それが「生命(いのち)」そのものなのです。
「果たして私たちは、このように自分のいのちをなげうってまで人を救えるであろうか。それは難しいことであろう。かといってできない人を責めることはない。
ただ、こうして今この世に生まれて、生きていられるということは、不思議なこと、ありがたいこと、賜ったいのちなのだと真摯に受け止めて、自分の都合ばかりを考えずにこのいのちを何かのお役に立つように勤めようと願いたい。誰かのお役に立ってこそ、初めて本当の利益であり、真の功徳でもあろう。」(p.111)
これは「無功徳」という禅語の話です。禅宗の開祖である達磨大師が梁(りょう)の国に入られた時、その王は熱心な仏教の信者だったので、達磨大師を厚くもてなしたそうです。そして、自分が行ったことを示して、どんな功徳があるかと尋ねたとか。その時の達磨大師の答えが「無功徳」だったのです。
利益を求めて信心に励む人は多いですが、利益というのは「他人のためになること」だと言います。自分の益を求めるようなエゴイスティックなものではないのだと。したがって、自分の益になるかどうかを度外視して、ただ自分がそうあるべきと思うあり方を体現しようとすること。それが真の功徳なのだろうと思います。
「和するということは、強制し統一するのでなく、お互いを認め合うことである。違いを認め合ってこそ和することができよう。自らの利益ばかりを求め、他に強制し統一しようとばかりしていては、ますます大宇宙の大念願から逸れてしまうであろう。」(p.186)
これは「和気(わき)、豊年を兆(きざ)す」という禅語の話です。「「和気」は、穏やかな気分、和らいだ心、相和合した陰陽の気、暖かい陽気という意味がある。」とあります。「和して同ぜず」や「和え物」という言葉が示すように、「和する」というのは、それぞれの個性を活かして調和することです。
最近の日本では、「常識に従え」とばかりに均一化することが調和だとする傾向があります。しかし、本来はそうではないのです。それぞれ、性格も考え方も価値観も違う人が集まり、互いにその違いを認めあって一緒に暮らす。その違いをよしとして、その上でどうするのが互いのためにいいかを考える。最初から相手を否定したり、自分たちの考えを押し付けることではないのです。
「妻よ
三人の子よ
法要もいらぬ
墓まいりもいらぬ
わたしは墓の下にはいないんだ
虫が鳴いていたら
それがわたしかも知れぬ
鳥が呼んでいたら
それがわたしかも知れぬ
魚が泳いでいたら
それがわたしかも知れぬ
花が咲いていたら
それがわたしかも知れぬ
わたしはいたるところに
いろいろな姿をして
とびまわっているのだ
墓のなかなどに
じっとしてはいないことを知っておくれ」(p.198)
真民さんの「坂村真民全詩集 第五巻」からの引用です。この真民さんの詩は、まったく知りませんでした。まるで「1000の風になって」という歌のようですね。
しかし、多くの人がこう言うように、私たちは肉体ではなく、本質は不死の魂なのだと思います。だからこそ、肉体がなくなった後も、様々な姿となってこの世に存在する。いえ、この世そのものが幻想だから、本質的な世界には存在し続けるのだから、幻想であるこの世に偏在できるのです。
「古代中国において、禹王(うおう)が船に乗って河を渡ろうとすると、竜が襲ってきた。船に乗っている人はみな恐れおののいた。しかし禹王は「生は寄(き)なり、死は帰(き)なり」と言って、平然として取り乱すことがなかったという。」(p.213)
「生は寄なり、死は帰なり」というのは、魂の故郷はあの世であり、生とはあの世からこの世に立ち寄ったもので、死とはあの世へ帰るものだから、何ら死を恐れることはない、という意味になります。
私も、子どもの頃には死が恐くて、その恐さから泣きながら眠った夜もありました。自分というものがまったくなくなってしまう虚しさ、二度と愛する人と会えない、つまり愛されることのない悲しさを感じたのだろうと思います。しかし今は、魂は不滅だということを受け入れているので、死そのものへの恐さはあまりありません。ただ、痛いのは嫌だなぁと思うくらいです。
白駒さんの紹介なら間違いないだろうと思い、あまり内容も吟味せずに購入しました。読んだ結果は、大正解でしたね。後でわかったのですが、これは雑誌「致知」に連載されたものがベースです。それならもう間違いありません。今でこそ購読していませんが、おそらく20年か30年くらい前に10年くらい購読しました。とても内容の濃い雑誌で、最近話題の無意味なゴシップ雑誌とはまったく異なります。
「致知」では、真民さんの話もたくさん紹介されていましたね。横田氏の連載も、そういうところからつながったのかもしれません。雑誌を購読されている方には、同じ内容の繰り返しになるかもしれません。しかし、繰り返して読んでみるのも良いものです。それだけ深い内容がありますから。
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