岡部明美(おかべ・あけみ)さんの最新刊を読みました。岡部さんの本は、以前に「私に帰る旅」を紹介しています。脳腫瘍という大病を経験され、自分自身を探求したお話でした。今回の本は、岡部さんの半生をつづったような内容です。
この本を知ったのは、Facebookで岡部さんと友だちになったのがきっかけです。どうして岡部さんと友だちになったかと言うと、共通の友人として神渡良平さんがいらしたからです。神渡さんの投稿に岡部さんが登場されてて、以前にご著書を読ませていただきましたという話から、友だちにしていただいたのです。岡部さんが神渡さんと出会われたのも、とても奇跡的なことがあったようですね。そのこともこの本に書かれていました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「人には、それぞれ人生で何回か脱皮の季節があり、それが病気や人間関係の確執、不慮の事故、倒産、リストラ失業、転職、失恋、離婚、愛するものとの別離の悲しみといった様々な試練による苦しみとして表れるのだろう。
それぞれ現象は違っても、その季節の訪れは、一様に、耐えがたい程の痛みや苦しみ、不安や葛藤、恐怖を伴う点では同じだ。試練という形でやってくる脱皮の季節のメッセージは、一人ひとり違うはずだから、その苦しみを自分の成長の課題として引き受け、心の深いところから聞こえてくる声に耳を澄ますことが、その季節を乗り越えていく力になるのだと思う。自分の心の深いところから聴こえてくる声は、実は、彼方から聴こえてくる声と同じ声だった。
人生に退屈していた時、人生に行き詰まっていた時というのは、この声に全く耳を傾けようとしていなかったのだということが今となってはよくわかる。すでに人生の川の流れが変わり始めているのに、未知のものはこわいから無意識に抵抗して流れに抗(あらが)っていたのだ。」(p.78)
これは私も同感です。日常の中でちょっとした抵抗を感じた時、それは自分が変わるべき時だというメッセージなのです。そのメッセージに耳を貸さないから、どうしようもない痛みや苦悩が与えられる。私は苦しい失恋を通じて、「愛する」ということを気づかされました。
「自分の中で、本来の自分が目覚める時、自分の中から新しい自分が生まれる時、人はいっぱい涙を流す。そんな”魂の産声”とでも呼ぶべき泣き声、喜びの声をたくさん聴いてきた。
私も本当によく泣いた。よくこんなに泣けるものだと思うくらい涙があふれてきた。いのちが歓(よろこ)ぶ涙は、いろいろなものを過去に流しながら、海に、空に、還(かえ)ってゆくような気がした。
いっぱい泣いたら、いっぱい元気になれたし、いっぱい怒ったら、いっぱい笑えるようになった。「話す」ことは「放す」ことにつながり、「言える」ことは「癒える」ことにつながるのだということを知った。」(p.99 - 100)
私も、年をとってからよく泣くようになりました。たいていはドラマや映画を観たり、本(小説)を読んだ時ですけどね。あと夫婦喧嘩をした時も。(笑) 男は泣くものではないという価値観を植え付けられた年代です。でも、泣くと本当にスッキリしますね。
感情を抑圧するのではなく、それを受け入れること。しっかり感じ切ることが重要だと言います。「神との対話」では、感情は魂の声だと言っています。ですから、しっかりと感じて、魂の声をよく聞くことが大切なのだろうと思います。
「自分が最も苦しんできたことが、実は、他者への贈り物なのだ。人生の不条理を体験してきた人というのは、他者を助ける仕事をするために、絶望の淵に佇(たたず)む人を癒やし、希望や勇気を与えるために、その苦しみを味わうことを神さまから与えられるのだと思う。」(p.109)
「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」と、「三年B組金八先生」の主題歌「贈る言葉」の詩にあります。武田鉄矢さんの歌ですね。人生で大変なことを経験した人は、それだけで他の人の役に立つのですね。
だから重要なのは、その出来事に負けてマイナス思考をするのではなく、そこから立ち上がることなのだろうと思います。強いからではなく、弱くて叩きのめされたからこそ、諦めて受け入れるしかなかった。それが転機になるのだと思います。
「私が若い頃から心の奥底にもっていた「一人ひとりの人生には、宇宙・神の計らいがあるというのは本当なのだろうか」という問いに対する答えを、宇宙はこの一連の出来事を通して私に教えようとしているのではないかと思った。私は正直に言って、この一連のシンクロにだけは畏怖を覚えたのだ。これまでもこうしたことは頻繁に起こっていたし、すでに何度も私は”それ”の存在を認めざるを得ない体験をしていたのだけれど、私は初めて全面的に「降参」したのだ。「降伏」と言ってもいいかも知れない。
今、「こうふく」とパソコンで打ったら「幸福」という字が最初に出てきてちょっと驚いた。ああ、確かに人の心の幸福、心の平安とは、大いなる存在=神への全面的な信頼、明け渡しなのかもしれない。小さな自分の明け渡しと、大いなる存在への全託。私は、この「降参」「降伏」を心の深いところでどれだけ待ち望んでいたことだろう。」(p.158 - 159)
先ほどの文と関連しますが、人生の流れに抵抗していると、必ず大きな障害がやってきます。乗り越えられずに打ちのめされます。でも、それが良いことなのです。打ちのめされて降参する。もうどうなってもいいと、抵抗するのをやめて結果を受け入れる。そうすると人生が変わるのです。
このことは、雲谷斎さんと阿部敏郎さんの「降参(サレンダー)のススメ」にも書かれていますね。私はよく、日本の格言の「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」を引用します。こういうすべての結果を受け入れる態度、安心していることが、降参なのです。
「なぜ人は、時間のあるこの三次元の世界に肉体をもってはるばるやってくるのだろう。きっと、この三次元の世界の”体”を通して、一つひとつ順番に、その時には、そのことだけを体験するために時間があるのではないだろう。文字通り、体とは、”体験”するための道具、ツールだ。
体があるということは、同時にふたつの体験はできない。違う場所に同時にいられない。体があるからこそ、”今・ここ”での体験に集中し、そこから私たちはかけがえのないものを味わうことができ、大切なことにも気づける。」(p.224 - 225)
これは面白い視点ですね。なぜ時間があるのか、ということを「神との対話」では、「あれ」と「これ」に分けて相対的な世界を創るためと説明しています。時間とは空間を移動する尺度ですから。そしてその相対的な世界は、体験するために創られたと説明しています。岡部さんは、一度に一つのことを体験するためと言います。そうすることで、じっくりと体験ができるからと。
たしかに同時に2つのことが体験できたら、それは体験とも呼べないかもしれません。その体験を味わえませんから。ですから逆に体験は、じっくりと味わい尽くすことが大切なのだろうと思います。
「私たちが今、生きているこの三次元の世界は二項対立、二元論の相対的世界だ。しかし、この二極のものが実はひとつのものであるという理解、目覚め。二元論を止揚した第三の道を模索していくこと、これまで対立してきたものの統合、融合がこれからの時代の大きな潮流になっていくのは間違いないことなのだろう。
生と死、光と影、善と悪、幸と不幸、成功と失敗、愛と憎しみ、喜びと悲しみ、男性原理と女性原理。片方がなかったら、片方は存在できない。片方の体験がなかったら、もう片方の体験は生れない。片方を感じることなしに、もう片方を真に味わうこと、真に理解することはできない。片方だけの働き、片方だけの体験では、世界の半分、人間の半分、人生の半分なのだ。
悪がなかったら、善とは何かはわからないわけだし、悲しみを知らずして、喜びを知ることはできない。もし自分にエゴがなかったら、自己の内奥(ないおう)にある純粋無垢(むく)さ、天真爛漫さ、愛、神性さに触れた時に、あれほどの感動を味わうことはできるだろうか。病むことの苦しさを知らずして、健康であることの真の有り難さはわからないように、孤独の痛みを知らずして、愛の至福も歓喜も味わうことはできない。」(p.241)
もうまるで「神との対話」を読んでいるかのようですね。まさにこういうことが、「神との対話」に書かれています。相対的な世界は、体験するために存在しています。ですから神は、「悪」を否定しません。「悪」がなければ「善」も存在しないからです。私たちは、その両方を体験したがっている神なのです。
ですから、多くの生が必要だと「神との対話」では言っています。わずか100年ほどの生では、そのすべてを体験することはできませんから。そして十分に体験することで、私たちは成長していきます。まだつらい体験があるでしょうけど、それは徐々になくなっていくのです。
この本の帯に、「あなたには天があたえた仕事がある。」と書かれています。それを読むと、人生に迷っている人に何かを教える本であるかのように感じるかもしれませんね。でもこの本は、どちらかと言えばエッセイのように、岡部さん自身の体験や感じたことをつづったものです。ですから、この本は使命を見つけるためのノウハウを提供しているわけではありません。
ただ、岡部さん自身が自分の使命と出会う過程で、どんなことを考えたのか、どんな失敗をしたのか、どんな導かれ方をしたのかを知ることは、読者の役に立つだろうと思います。ただし、誰もが岡部さんのように生きるわけではありません。むしろ、まったく違うと言ってよいでしょう。そうでなければ、自分として生きる意味がないからです。
ですが、ここで引用した部分などを読んでいただけると、どう人生と向き合うのが良いのかということの、参考になると思います。ちょっと文字が小さくて読みづらいのが難点ですが、文章そのものは読みやすいので、サラサラと読めます。これを普通の文字にすると、おそらく500ページくらいになるのでしょうね。それだけぎっしりと内容が詰まった本です。
