小林正観(こばやし・せいかん)さんの本を読みました。正観さんは、すでに6年くらい前に亡くなられているので、これはこれまでの講演や著作から再編したものになります。ダイヤモンド社のこのシリーズは3冊目。これまでに「ありがとうの神様」と「ありがとうの奇跡」を紹介しています。正観さんの「ありがとう3部作」と呼んでもよいかもしれませんね。
この本も、これまでと同様に4〜6ページで1つの話が終わるように見事に構成されています。帯には、「神様が味方になる68の習慣」とあって、「人間関係」「仕事」「お金」などをテーマにして、その悩みの解決のために正観さんが話されたことが紹介されています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「世の中は、自分が思っている「正義」や「道義」にしたがって、できているのではないようです。
「正義」や「道義」や「道徳観」を持つのは自由ですが、必ずしも、自分以外の人も同じ考えを持っているわけではありません。」(p.13 - 14)
私たちは、理不尽なことや不条理なことがあると、それを糾弾し、批判避難しようとしがちです。自分が考える「正義」こそが絶対的な「正義」であり、誰もがそれに従うべきだと考えるからです。ですから、汚職まみれの政治家が当選したり、ずるいことをする企業が繁盛することが許せません。
しかし正観さんは、そういう理不尽さや不条理は、受け入れなさいと言います。自分の「正義」で裁いたり糾弾したりするのではなく、単に自分はそういうことは絶対にやらないと決意するだけでいいのです。
「「病気をすること」も、「事故に遭う」ことも、「それによって、悩み苦しみが生じること」も、ついには「死を迎える」ことも、全部が「シナリオ」通りに進むようなのです。
未来は確定的に存在していて、「自分が生れてくる前に書いたシナリオ通り」に進んでいくとするならば、「未来を心配すること」に意味はないということになります。」(p.19)
正観さんは、運命は最初から決まっていると言います。しかし、こういう決定論の立場に立つと、では自分で努力することは無意味だということになりかねません。ここは難しいところなのですが、そこで努力しなくなるか、あるいはそれでも努力し続けるかさえ、予め決まっているということなのでしょう。
ただ、多くの場合、私たちは未来を心配します。その不安を動機として何かをしようとします。それが決定論の立場に立てば、心配することがナンセンスになります。だって、もう変えようがないのですから。すると今度は、その安心を動機として何かをすることになります。そうすることで、少なくとも苦悩からは離れられると思います。
「「自分の魂」が決めたことであり、死因が病気であろうと、事故であろうと「予定通りに死んでいく」ことにほかならないと考えられます。
そう考えれば、人の死は、不幸でも悲劇でもない、ととらえることができるのではないでしょうか?」(p.21)
死で予定通りであるとするなら、その死因を心配する必要はありません。事故か、事件に巻き込まれるか、あるいは病気か。何であろうと、死ぬべき時には死にます。それだけのことなのです。
「神との対話」でも、同様のことが書かれています。偶然に何かが起こることはないし、神が認めないとは何も起こらないと。魂は、生まれることも死ぬことも、人生でのテーマもすべて自分で決めています。その通りに人生は進むのです。
「「幸せ」という名の絶対的な現象は、地球上に存在しない。しかし、「幸せ」という名の現象が存在するときがあります。どういうことかというと、「私」が「幸せ」だと決めたとき、それが、その人にとっての「幸せ」になります。
つまり、「幸せ」という現象は、個人にのみ帰属するものであって、他人が口をはさんだり、意見を言うべきものではないということです。「幸せ」は、「幸せを感じた人にのみ存在する」という構造になっているようです。」(p.94)
同じ一杯の水を飲んでも、一日汗水たらして働いた後に飲んだ人は、それを幸せと感じるかもしれません。けれども、室内にいて、常にそこに水があって、さっきも飲んだばかりであれば、当たり前としか感じないかもしれません。さらに言えば、その状況が同じだとしても、人によって違いがあるのです。
「「あのとき、あんなことをしてしまった」と思ったとしても、それを受け入れ、肯定して、「しょうがないよね」と言いながら、自分自身とつき合っていけばいいのだと思います。未熟な私を受け入れること。「ああ、あのときは未熟だったな。不十分だったな」と受け入れるだけでいい。
いつまでも過去にとらわれ、後悔や反省をする必要はないのだと思います。」(p.107)
正観さんは、後悔は必要ないと言います。なぜなら、その時点では最高の判断をしたのだからと。今、その時点の判断を振り返って未熟だと感じるのは、その時点より今が成長しているからです。成長した自分が過去の未熟な自分を裁く必要はないのです。
「神との対話」でも、罪悪感を抱くなと言っています。正観さんはここで「反省」という言葉を使われていますが、これは「罪悪感」に近いものでしょうね。本当の「反省」は、これからどうすれば良いかという判断の材料を定めることです。悔いることではありません。
「相手がニコッと笑ったからなのか、「ありがとう」を言ったからなのか、どちらなのかはわかりません。しかし、どうも、「ニコっと笑って、『ありがとう』を言う」と、光が発せられて、周囲が明るくなることがあるらしいのです。」(p.128 - 129)
たまたま先日参加した小宮昇さんのお話し会の中でも、こういう話がありました。詳細は忘れましたが、喜んだり感動したりすると、光子が発せられるのだと。その話と符合するので引用しました。私にはどうなのかわかりませんが、ひょっとしたら物質的にそういうことがあるのかもしれません。なぜなら、物質は思い(思考)から創られているからです。
「人生を最大に楽しむための大きなキーワードが「3つ」あります。この3つを実践すると、奥の奥まで人生を楽しんで、もっと楽しめるようになるらしいのです。
そのキーワードは、「そ」(掃除)と、「わ」(笑い)と、「か」(感謝)。
・「トイレ掃除」をすると、お金に困らないらしい
・「笑う」と、体が丈夫になるらしい
・「感謝」をすると(「ありがとう」を言うと)、まわりが味方になってくれるらしい
私は、それぞれの頭文字を取って、「そ・わ・かの法則」と名付けました。これが、40年間、宇宙の現象を見続けてきた、私の結論です。」(p.133)
正観さんの有名な話ですので、他でも聞かれていると思います。実際私も、正観さんの文を読んだのは、このトイレ掃除の話が最初でした。でも、この3つはそんなに難しいことではありませんし、やって悪いことでもありません。そうなら、騙されたと思ってやってみてもいいのではないでしょうか。
「人は、涙を流すと、怒らなくなり、怒鳴らなくなり、イライラしなくなるようです。
どうやら人は、「やさしくなる」ことで、病気を改善できることがあるらしいのです。」(p.197)
この話の事例は、50年間心臓病で苦しんだ女性の話です。ある時、3泊4日の座禅体験会に参加したそうですが、最初から最後までわけもわからず涙を流し続けたのだとか。その後、「妙な感じ」を味わったそうです。それは「静けさ」。それまで、ドキンドキンと聞こえて耳を離れなかった自分の心臓の鼓動が聞こえなくなったのです。その日以降、女性は心臓が楽になったと言います。
ただこの事例では、なぜ涙が流れたのかがわかりません。その前に正観さんの事例があって、NHKドラマ「おしん」を観て泣くと、やさしくなれるとあります。ですから正観さんは、どんな理由であっても泣くことは、やさしくなることにつながり、やさしくなると病気を癒す効果があると言われるのですね。
これは何とも言えませんが、私自身、年をとってよく泣くようになりました。悲しくてと言うより、感動して泣くのですけどね。ドラマを観ていて泣くこともよくあります。本を読んでいても泣きます。妻に笑われますが。(笑) きっと、良いことにつながっているのでしょう。
「人生は、「修行の場」でないとしたら、何でしょうか?
人生は、「喜ばれるための場」であり、「感謝をするための場」であり、なによりも、「楽しむため」に存在しているようなのです。」(p.290)
他で「人生は修業の場」というような表現もされている正観さんですが、それは方便なのでしょうね。「修業の場」でもいいけれど、「楽しむ場」と考える方がなお良いということなのです。孔子も、「知る」より「好む」、「好む」より「楽しむ」方が上だと言っています。ただ理解して、でも修行だから仕方がないと思ってやるより、それが楽しいからやる人の方がより成長するのですね。
「人間の潜在能力や超能力は、「こうでなければ嫌だ」「こうならなければダメだ」と思った瞬間に、出てこなくなるようです。反対に「そうならなくてもいい。でもなるといいな。でも、ならなくてもかまわない」と考えると、潜在能力が花開くらしい。」(p.333)
これは、私がいつも言っている日本の格言、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということですね。思い通りにしようとして力むのは、結果に執着(依存)しているからです。その結果に必要性を感じるのは、そうならなかった時の不安が強いからです。ですから、その不安が現実を引き寄せます。
これが、「引き寄せの法則」を駆使しようとする人が陥る罠です。正観さんも言うように、そうなったらいいけど、ならなくてもいい、というように結果を手放すことが重要です。「神との対話」では、必要性を好みに変えると説明しています。
この他にこの本でよく出てくるのが、「三禁五戒」です。
「三禁」・・・「恨み・憎しみ・呪い」
この「う・に・の」を禁止すること。それが三禁です。
「五戒」・・・「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」
この5つを口にしないようにすること。それが五戒です。
五戒が守れるようであれば、三禁に至ることはないと言います。
そして、五戒を3ヶ月から6ヶ月くらい守っていると、「頼まれごと」が始まると言います。
「「頼まれごと」を「はい、はい」と引き受けていくと、3年ほどで「ある方向に自分が動かされている」「どうも、自分の使命はこのあたりにあるらしい」と気がつきます。」(p.28)
このようにして「頼まれごと」をやりながら感謝して生きていると、神様が味方をしてくれて、幸せに生きられると言います。「幸せ」とは、「喜ばれる存在」になることなのだと。
正観さんの本も何冊も読みましたが、この本もとてもよくまとまっていると思います。昔の本はなかなか手に入りづらくなっているようですので、この「ありがとう3部作」だけでも読んでみると良いかもしれませんね。それだけでも十分に、正観さんのお考えがわかると思います。
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