2018年01月11日

ソバニイルヨ



待ちに待った喜多川泰(きたがわ・やすし)さんの最新刊を読みました。喜多川作品ですから、ハズレがあるはずがありません。今回はどんなふうに感動させてくれるのだろう。そういうワクワクした期待とともに読み始めたのです。

しかし、読み始めてからしばらくは、特に大した感動もなく物語が展開します。「あれっ? こんなもんなの?」と、肩透かしを食らったような感じで読み進めたところ、後半にドカーンとでっかい感動が待っていました。


まずはこの小説の概要を説明しましょう。主人公は一人っ子で中学1年生の隼人(はやと)。父の幸一郎は、人工知能を研究開発する仕事の傍ら、自らの研究室を作り独自の研究をしている変わり者。母の真由美は、仕事と子育てですぐにイライラしてしまう性格。

そんな中で幸一郎は、3ヶ月のアメリカ出張に行くことになります。真由美は「大丈夫」と言うものの、隼人のことで頭が痛い様子。幸一郎は真由美に、自分に任せるように言い残し、アメリカに向かったのです。

幸一郎がアメリカに旅立った日、隼人の部屋に異様な物体がありました。それは幸一郎が残していったロボットでした。しかも、AI(人工知能)によって学習していくロボット、名前はUG(ユージー)。はじめはそのロボットを邪魔者と考え、嫌っていた隼人でしたが、友だちや周りの人との様々な出来事を通じて、徐々にユージーと心を通わせるのです。


ではさっそく、一部を引用してみましょう。

まずはどんなことも、人のセイにしない。自分の責任だって思うこと」(p.119)

あいつのせいだと思わない未来を想像するっていうのは、「将士くんのオカゲで、今の自分になれた」って未来が来るのを想像するっていう意味」(p.121)

どんなことからも逃げない強い人間になりたいと言う隼人に、ユージは先生になると言って教え始めます。その最初が、すべての原因を自分に置くということ。それは「自分が悪い」という意味ではなく、他人のせいだと思わない未来を想像することでした。

多くの人は、これができません。だから、政府が悪い、会社が悪い、上司が悪い、パートナーが悪い、子どもが悪い、近所の人が悪いなどと、他者のせいにして愚痴を言い、不平不満を漏らすのです。そして、自分が「悪い」と決めつけた他者を変えようとして、あくせくするわけですね。

しかし、それではいつまでたっても不幸になるばかりで幸せにはなれません。だから、すべてを自分の責任だと受け入れることが重要なのです。


勉強から逃げずに、ドウセヤルナラって思いながら、質的にも量的にも、必要最低限を超え続けていけば、勉強する時間は隼人にとって、将来への投資になるだけじゃなく、その時間そのものが楽しい時間になる。ソレ人生を楽しむ秘訣。それを学ぶこと何より大事。成績は関係ない」(p.164)

勉強は自分のためにやるもの。そう言う人は多くても、そのように勉強する人がどれだけいるでしょうか? そのコツは、質(丁寧さ)や量(時間やページ数)で必要最低限を超えること。そうすれば、勉強そのものが楽しくなり、それが自分への投資になります。

私は、親から勉強しろと言われたことはあまりありません。「宿題やったか?」とか「お姉ちゃんは帰ったらすぐに勉強するのに・・・」と何回か言われたことはありますが。(姉はすぐに子ども部屋にこもるので、親は勉強していると思ったようです。本当は、マンガを読んだり描いたりしていたようですけどね。)

そもそも勉強そのものは嫌いなことではなかったのです。特に算数数学は、勝手に教科書の先まで自習し、2学期途中にはすべて終えていたくらいです。高校の物理でも、先生公認で授業中に寝ていたのは私くらい。当てられてもすぐに答えられたので、遅い授業ペースに退屈していたのです。自分で好きで勉強していたので、理解力が他の生徒とは別次元だったのでしょう。

その一方で、歴史や地理といった社会学、科学でも覚えることが多い化学や生物、そして英語は苦手でした。記憶しなければ良い点が取れない科目には興味をなくし、高校の世界史では欠点ギリギリという試験結果でしたね。あのころ、この「質と量で必要最低限を超える」という勉強方法を知っていたら、少し違ってきたかもしれません。


隼人の友人は、飼っていた犬(デルピエロ)が亡くなり、ひどく悲しんでいました。その話を聞いたユージは隼人に、コップ1杯の水が乾燥して、世界中に均一に散らばったとしたら、その水分子のうちの何個がこの部屋にあるかと尋ね、それを計算させます。中学1年生の知識でも、それは十分に計算できるのですね。

今でもデルピエロを作っていた六億の原子に囲まれてる……」(p.204)

体重約6kgのデルピエロを形作っていた原子(ほとんどは水から生じた酸素と水素、そして炭素)は、ばらばらになり、この空間を飛び回っていると考えられます。ですから、死んだとしても、つねにその友人のそばにいることを示したのです。

昔、「千の風になって」という歌が流行りました。アメリカで、誰かが作った詩を翻訳し、それに曲をつけたものです。その歌では、亡くなった人が墓の前で悲しむ人に対して、自分は墓の中にはいないと言います。1000の風になって飛び回っているのだと。

たしかにユージの言うように、私たちの肉体を構成する分子は、死んだ後は朽ちていきます。最近は火葬ですから灰になりますが、多くは燃えて気体となって空中に飛び出します。その分子(あるいは原子)は、いつまでも消えることなく、飛び回っているのです。

この部分を読んだ時、ふと思いました。その一つひとつの分子(原子)には、自分(魂)が宿っていると。神は偏在します。すべてが神であると同時に、一つひとつが神なのです。そうであるなら、私たちの魂も同じではありませんか。このことに気づいた時、感動に打ち震えました。喜多川さんが意図したことかどうかはわかりませんが、私には魂がどのように存在しているかがわかったように思えたのです。


思えば、好きな人との出会いというのが、人間を一番変えられるのかもしれない。」(p.207)

悩みの多くは人間関係から生じ、幸せになるのも不幸になるのも、人間関係次第だと言ったのはアドラーです。「神との対話」でも、人間関係がなければ人は進化成長しないと言っています。人は、好きな人と出会うことで自分を見つめ直したり、あこがれを抱いて変わろうとしたりします。どんな人と出会うかは、とても重要なことなのですね。


人には好きなことを言わせておけばいい。
 これをやったら、人からどう言われるか、こんなことを言ったら、人がどう思うか……。
 そんなことを気にしてばかりで、自分の人生でやりたいこともやらずに、言いたいことも言わずに人生を終えていく人がたくさんいる。それって、すごくもったいない。たった、一度だけの人生。隼人は、他の誰かの価値観に合わせることに費やすんじゃなくて、自分の価値観にもっと正直に生きるべき
」(p.215)

人はそれぞれ価値観が違います。どっちが正しいかを気にしていると、他人の価値観に合わせるような生き方しかできなくなります。それを「もったいない」とユージは言います。

「神との対話」でも同じように言っています。自分に対して正直になること。他人のことなど気にせず、超利己的になること。そうしなければ、自分の体験ができません。自分の体験をしないのであれば、何のために自分として生れてきたのか。自分を大切にするとは、自分として生きることなのです。


随所に、本質的な生き方を示す言葉が散りばめられています。そして、喜多川さんの作品には必ずある最後のどんでん返しも。喜多川さんの小説を読むと、本当に生きる気力が湧いてきます。そして、これを他の人に読ませたいという衝動に駆られるのです。

今回の作品を読みながら、私は何度もボロボロと泣きました。何度も嗚咽を漏らしました。読み終えてしまうのが名残惜しくて、あえて読み進めずに時間を置いたりもしました。愛しくて、愛しくて、この本を、この本を読んでいる自分を、読んでいる空間を、この本の存在そのものを、大切にしたいと心から思ったのです。

「愛とは神である」

私個人としては、このことを感じさせてもらった本でした。その意味については、またメルマガにでも書こうと思います。ぜひ、読んでみてください。
※2018年1月12日に発行したメルマガ【SJ通信】「愛は神である」に書きました。

なお、これまでに紹介した喜多川さんの本の紹介のまとめは、こちらのリンクからご覧ください。喜多川さんの本は、すべて網羅しているはずです。

ソバニイルヨ
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:14 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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