2018年01月05日

仏教の大意



これも書店「読書のすすめ」で購入した本です。著者は鈴木大拙(すずき・だいせつ)氏。お名前だけはよく存じ上げていますが、おそらく本を読むのは初めてです。少し難しそうな気はしたのですが、少々難しいくらいの本を、わからなくても読み進めることが重要なのだという、「読すめ」で買った別の本にあったもので…。

たしかに、難しい本です。昭和21年に鈴木氏が、天皇皇后両陛下に講演した内容を基に加筆修正されたものですが、こんな難しい話をされたのですね。それを聞かれた当時の両陛下は、ご理解されたのでしょうか? それは何とも言えませんが、なかなか一度読んだくらいでは理解できない内容です。

難しい理由の1つは、やはり使われている言葉や漢字が古いということがあります。ルビもないので、どう読むのかさえわかりません。精読するには、辞書を引かなければなりません。今回は、類推しながら読むだけにしましたけど。また、表現が古い(耳慣れない)ために、何を言っているのか理解できない、ということがあります。

まあそういう難しさがあるとは言え、仏教の各宗派に通じて、仏教全体として捉えておられるようで、それぞれの宗派の真髄を語られています。そして、その中で仏教全体にまたがる本質的なことを語られているように思います。


では、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

知性的な言ひ詮わし方では、智慧の眼を開くことです。また意性的にいえば、矛盾そのものの真中へ飛び込むことです。なぜ手を手というか、片手にどうして声が出るか。これを外から眺めないで、そのものの中に入ると−−即ちそのもの自体になると、問題はなくなるのです。それはどう解消したのかというと、無解消の解消です。不思量の思量です、依然として論理や思索の圏内へは入ってこないのです。それが不可思議解脱です。」(p.34 - 35)

これが仏教的な考え方、解脱、悟りということなのでしょうか。矛盾するものをそのままに、知性で理解しようとするのではなく、そのものの中に入る。そのものと一体化する。そうすると、問題が問題ではなくなっているのだと。ちなみに「片手にどうして声が…」というのは、「隻手音声」という白隠禅師の公案のことですね。

これは非常に難しいのですが、何となくわかります。それは、「神との対話」で「聖なる二分法」ということが書かれていたからです。私たちは別々のもののように知覚認識されますが、一方で「ひとつのもの」だと言います。個々と一体が同時に存在することはできない、というのが知性の働きです。でも、それが真実なのだと。矛盾しているように見えて調和しているのです。


なぜそのように非合理性の経験事実を取り上げなくてはならぬかというに、吾等平生の立場では憂悩・恐怖に逼(せま)られてのみいるからです。そうしてそれは知性的分別の故であるから、この分別面を脱却しなければ、心の平和は得られないのです。分別思慮を抉出するという外科的大手術は決して容易ではありません。山が山であって山でないとか、山は山でないから山だとか申すことは、ただ言葉の上の遊戯ではないのです。」(p.37)

禅問答と言われますが、普通に考えると何を言っているのかわけがわかりませんよね。しかし、それは言葉の遊びではないのです。知性を捨ててそのものと一体化する中で解脱する。そうしなければ、煩悩から決別し、執着を脱することができないのです。それができなければ、心配して憂い悩むことや不安になって恐れることから逃れられないのです。


死ぬ時に死にます、生れるときに生れます。生きて喜ばず、死んで悲しまず、晏然としています。この人は哲学者でもなければ、科学者でもない、それ故、何の理屈もいわずに、そのままに何もかもを受け入れています。これが無分別の分別、分別の無分別という即非の論理を生活そのものの上に認覚した人の境地です。」(p.57)

あるがままを受け入れる、ということでしょうか。死ぬ時は死ぬがよろしく・・・という良寛さんの言葉が思い出されます。そして、仏教を正しく理解する上では、こういう「不可思議」に完全に没入することが必要だと鈴木氏は言います。


理と事と−−これを神と人、または仏と衆生とにして見ると、両者は互いに相容れぬと考えるのが宗教学者一般の見解です。しかし華厳ではこれを円融無礙するといいます。理を事のうちに見るとか、事を理の中に見るとかいうのでなくて、理即事、事即理というのです。またこれを相互に鎔融するといいます。」(p.72 - 73)

般若心経では「色即是空」というように、「色」が実態で「空」が一般であり普遍です。それを華厳経では「事」と「理」で説明しているそうです。それをここでは、「人」と「神」という対比にも当てはまると言っています。

そういえばある説によれば、レイキ(霊氣)の創設者、臼井甕男氏が鞍馬山での修行で得た悟りは「神即我」「我即神」であったそうです。それが本当かどうかはわかりませんが、真実は一体であるという考え方は、仏教の真髄でもあるのですね。


阿弥陀はすでに無量劫の昔に正覚を成じた、そうしてこの成正覚(じょうしょうがく)の条件として衆生の成正覚を提供しているのです。もし弥陀の方ですでに成正覚の事実があれば、人間もすでに成正覚しているものと考えなくてはならない。果たしてそうだとすれば何もそのためにせっせと求道だ何だといって騒ぐには及ばないと、−−こういうふうに考えるのです。しかしこれも人間的知性的分別をもとにしての判断で、未だに法界の風光には接していないのです。弥陀が無量劫の昔に正覚を成じたというのは、人間的歴史的事実として伝えられるのでなくて、人間各自が霊性的直覚に入るとき感得または悟得せられる事実なのです。」(p.103)

阿弥陀仏の本願の話です。阿弥陀仏は無量劫というはるか昔に願をかけ、すべての人を救うまでは自分は成仏しないと誓ったのだそうです。それが事実であれば、すでに阿弥陀仏という仏になっている以上、その願が叶ったことを意味します。では、人はすでに救われているのか? ということですね。

鈴木氏は、それは知性による考え方であり、そうではないと言います。これまでの話からすれば、そうであると同時にそうではない、ということなのでしょう。そもそも、時は誰にも同じように流れるわけではないことを、アインシュタインの相対性理論が証明しています。ですから、阿弥陀仏の本願が先か、自分の覚醒が先かなど、意味のないことなのです。

「神との対話」では、この辺はもっとわかりやすく説明しています。私たちは最初から神であり、神でなかった時など一度もない。ただ、この世に生まれる時、神であることを忘れるのだと。おそらく、仏教の言う救いについても、同じようなことではないかと思います。


ここまで読むと、仏教は何やら難しくて理知的な人しかわからないのではないか、と思われますが、そうではないと鈴木氏は言います。そして、浄土系信者の讃岐の庄松という人の話をします。文字の読み書きもできない貧農だったそうですが、「庄松ありのままの記」という言行録に、彼のエピソードが載っているとか。

京都の本山にみんなでお参りし、大阪から船で帰る途中、播磨灘で大暴風雨に遭遇したそうです。船はいつ転覆するともしれない。一行は船にしがみつき、お題目を唱えたりして、無事に帰港することを願ったのです。

ところが庄松一人は船底でいびきも高らかに前後不覚に寝ている様子であった。つれのものはいかにも不思議な落ち着き方だと思って、庄松をゆりおこした、そうして「同行、起きないか、九死一生の場合じゃ、ぐずぐずしてはいられぬぞ」といった。庄松曰(い)う、「ここはまだ娑婆か」と。
 庄松の生きていた世界はどこであったのだろうか。浄土でも娑婆でも、華厳の法界でも諸行無常の浮世でもなかったらしい気がする。彼は彼自身の霊性的直覚の世界に住んでいたのである。
」(p.119 - 120)

つまり庄松にとっては、死ぬことは恐いことではなかったのです。死んだら浄土へ行ける。ただそれだけです。この世(娑婆)から逃げ出したいわけでもなく、しがみつきたいわけでもない。すべて阿弥陀仏の思し召しのままに、という安心した中に生きていたのでしょう。安心立命という悟りの境地ですね。


完全にすべてを理解できたわけではありませんが、この本全体を通じて言っているのは、個人的に霊性的直覚を得ることが、仏教的に重要なことだと言っているように思います。それは知性を捨てて、こちらたいあちらという分別をやめること。分離から統合へという意識でもあります。

この本の内容が多少でも理解できたとすれば、それはやはり「神との対話」を読んでいたからだろうと思います。仏教は哲学だと、海外では捉えられているようです。たしかに、そういう一面があるかもしれませんね。

難しい本ですが、読み応えがあると思います。ページ数は126ページと少ないので、がんばって取り組んでみてはいかがでしょうか。

仏教の大意
 
タグ:鈴木大拙
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:17 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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