書店の「読書のすすめ」へ行ったとき、気になって買った本です。「私・世界・人生のパラダイムシフト」とサブタイトルにあるように、凡夫が仏になる過程で起こるパラダイムシフトについて、またそれがどういうことで起こるのかについて、書かれた本のようです。
著者は、禅僧の藤田一照(ふじた・いっしょう)氏、社会芸術家で起業家の桜井肖典(さくらい・ゆきのり)氏、編集者で文筆家の小出瑤子(こいで・ようこ)氏の3人です。これは、月に1回行われた「仏教的人生学科 一照研究室」という学びの場の16回分の講義録を元に、何か面白い本を作ろうということになり、小出氏がピンと来たものを選んで、そこに肉付けして作られたとのこと。その学びの場では、午前中は座学で、なぜか英文の仏教書を元に藤田氏が講義し、午後はワークをしたのだそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「「私」と「経験」とを切り離して考えていると、なにかが起こってきたときに、「私」にはなにも問題がない、問題があるのは「経験」の方、だから「経験」をいじれば問題が消えるはずだ……という路線での思考に陥ってしまうんですよ。これって、「私」をいじらないためのトリックですよね。」(p.39)
「つまり、「私」が「経験」の外側にいて、「経験」を持っているんじゃなくて、「経験」のなかに「私」が生まれているということです。」(p.41)
非常にわかりにくい言い回しですね。ご本人もわかりにくいとは思うと言われてます。ただ、ここがすべての基礎になるから、ついてくるようにと。しかし、もうちょっとわかりやすく表現できないものですかね。
そのあと、桜井氏が「やりがいのある仕事」と「私」との関係で説明していますが、こちらの方はまだわかりやすいです。つまり、「やりがいのある仕事」というものがどこか外にあるのではないということです。「仕事」のなかにやりがいを感じない「私」が生まれているのだと。
「神との対話」などでは、「経験」という言葉ではなく、「出来事」とか「状況」という言葉で説明しています。いずれにせよ言葉には制約があるので、なかなか共有しづらい面があるのだと思います。
「たとえば誰かが必死になってお金を稼いでいるとしますよね。でも、その人は、実はそういう努力のうちで「家」や「故郷」を探しているんですね。本人はそのことに自覚的じゃないでしょうけど。恋愛だってそうですよ。誰かを好きになって、一緒に生きたいという願いを持っているとして、その根っこには、実は「家」や「故郷」を求める気持ちがあるんです。
でも、現代に生きる僕たちは、「家に帰りたい」という心の奥底にある願いにきちんと向き合っていないから、どうしても、家の代用物みたいなものを自分の目標にしてしまうんですね。」(p.52)
これは古代から言われていることですね。人間は、本来の居場所へ帰ろうとしているのだと。その潜在的な欲求を満たそうとして、そのためにお金を稼いだり、人気を得ようとしたり、パートナーから愛されようとする。そういうものなのです。
「この「無限」というのが、つまりは僕たちの<家>というふうに言った方がいいかもしれないね。家に帰るというのは、有限が無限との不可分のつながりに落ち着くこと。「有限」と「無限」が横並びに対立しているのではなくて、「無限」に根差して「有限」があるという縦の関係にある。つまり、「有限」を通して「無限」に触れているんです。」(p.59)
有限の波と無限の海というたとえで説明しています。あるときふっと立ち上がっては消えていく波は、海を離れては存在しません。それと同様に、個々人である私たちも、この世では有限な存在ですが、実は無限の世界とつながっていて、そこへ帰ろうとしているのだと。
「OSがチェンジする前は、思考も言葉も動作も、みんな「分離」の方向に使っていた。自分を守るためにね。それが、全部、反対の方向に切り替わるんですよ。今度は、思考や言葉や動作を「つながり」の方向で使っていく。なぜなら、つながっているのが自然なことだというヴィジョンを得たから。「つながり」こそが、ほんとうの生き方だという洞察を得たから。」(p.89)
「神との対話」などでも、分離から統合へという話があります。それと同じことを言っていると思いますが、それを「OS I」から「OS We」へのアップデートで説明しています。
私は、IT関連の仕事をしていましたし、パソコンやスマホもよく使っています。OSとアプリの違いもわかります。ですが、そういう私でさえ、このたとえはわかりづらい。具体的なイメージとまったく結びつきませんでした。言っていることは何となくわかるけど、心に沁みてこない感じですね。
「僕たちに絶対的に必要なのは、なにが起きてもそれらすべてを自分のworkとして、ありがたく受け取り、誠実に取り組んでいこう、と主体的に決めてしまうこと。それと同時に、今目の前にあるものをしっかりappreciateできる繊細な感受性なり、受け取る能力なりを、ちゃんと訓練して育てていくこと。まあ、それ自体がworkになる、と言ってもいいかもしれないね。」(p.110)
英語の仏教書が元になっているからかどうかわかりませんが、このようにやたらと英語表記が出てきます。もちろん、その言葉の説明はありますが、言われてすぐに身につくものでもなく、この文章だけ読み返しても、何のことやらさっぱりわからなくなります。appreciateというのは「理解する」「鑑賞する」「感謝する」という意味だそうです。普通に「理解し、受け入れ、感謝する」というように、日本語で説明してくれればわかりやすいと思うのですけどね。
workもそうですが、具体的にいったい何を指しているのか、心に残りません。その前の章で、「どんなものでもworkにできる」という意味で、workableという言葉を説明しています。なぜなら諸行無常だからだと。つまり、すべては変わりゆくものだから、「すべてのものはworkable」だと言います。だからすべてをworkにできるのだと。そのことからするとworkとは、自分が取り組むべき課題、のような意味になるのでしょうかね。
「「あたらしい世界」を実現していくのは、なにも難しいことじゃないんですよ。当たり前の日常の中で十分実現していけます。具体的に言えば、この旅の中で何度も言ってきたけれど、「分断」ではなくて「つながり」のヴィジョンを持って生きていくこと。それをあなたの人生というフィールドで、あなただけのやり方でやっていくことです。」(p.187)
「神との対話」などで言われるように、本質的にはすべては「ひとつのもの」です。ですから「分離」ではなく「統合」へと方向を変えることが重要になるのだと思います。
途中で書きましたが、やたらと英語が出てくるため、私にはとてもわかりづらいです。言葉が沁みてこないのです。もちろん、日本語では上手く説明できない概念があるケースもあるでしょう。しかし、この本では、そうでない言葉までも英語で書かれている部分が多数ありました。どうしてわざわざ英語で言うんだろう? 英語が話せることを自慢したいのかなあ? と思ったくらいです。
その理由は、最後に書かれていてわかりました。教科書が英語の仏教書なのですね。なぜかはわかりませんが。おそらく英語ができる人のための講座でもあったのでしょう。私のように英語がほとんどできない人もいれば、逆に普通に英語ができるよという人もいるので、このことの良し悪しは論じないことにします。
書かれている内容は、「神との対話」などで言われているようなことなので、何となくこういうことが言いたいんだろうなと理解できました。おそらく、こういう感性の方がわかりやすいという人もいるのだろうと思います。私には合いませんでしたが。
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