2017年12月23日
〈新装版〉心配症をなおす本
森田療法の本を読みました。サブタイトルには「よく分かる森田療法・森田理論」とあります。著者は森田療法の研究の第一人者、青木薫久(あおき・しげひさ)氏です。この本はおそらく、Facebookで「人生を変える幸せの腰痛学校」の伊藤かよこさんが紹介されていて、それで買ったのではないかと思います。
私自身、森田療法という名前は知っていましたが、詳しいことは知りませんでした。紹介文を読んで興味深く感じたので、買ってみたのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「「たえずあらわれてくる不安ととらわれはしかたのないものだから、これにさからわないようにし、不安・苦悩のまっただ中にあっても、当面はなすべきことをなしていく」という吉沢さんがとっている態度を、わたしたちは”あるがままの態度”といっています。
この”あるがままの態度”は悪循環を断ち切り、不安やとらわれをのりこえていく一つのバネになるのです。」(p.19)
森田療法で心配症が改善した吉沢さんの例を取り上げ、その本質が「あるがままの態度」を取ることだと言っています。つまり、不安を感じちゃいけないと、自分のマイナス感情を否定することがダメなのですね。湧き上がる感情はそのままに認める。それを受けいれながら、為すべきことは為す。
「神との対話」などでも、感情を抑圧することは良くないと言っています。そして不安を乗り越えるには、それをしっかりと見つめることと、最後は一歩を踏み出す勇気なのです。森田療法も、同じようなことを言っているのだなぁと思いました。
「”あるがままの態度”で社会生活上の問題を一つ一つ解決していけば、あなたの心は軽くなり、不安やとらわれは少しずつうすらいでくるでしょう。そうなれば、あなたの行動にはずみがついてきて、心にも張りが生まれ、よりいっそう仕事にはげむようになりますし、不安やとらわれにたいする硬直した態度はなくなってくるでしょう。」(p.30)
この過程では、不安や恐怖に飛び込むような感じ(恐怖突入)や、不安と一緒に行動するような感じ(不安共存)を感じるでしょうけど、為すべきことなのですから仕方なく為すしかないのです。諦めのような気持ちでしょうか。開き直りと言う方がふさわしいかもしれません。
いずれにせよ、そうやって不安があっても否定せずに、ただやるべきことをやっていく、というのが森田療法なのです。
「”治そうとする態度”と”治そうとはしない態度”が相互に矛盾しながら”あるがままの態度”のなかにふくまれているのです。そして”治そうとする態度”と”治そうとはしない態度”の矛盾のなかで、前進がみられ、しだいに吃音をのりこえていくのです。
このように、運動・発達する事物のなかに相対立する二つの側面の矛盾・葛藤をみることを、森田療法では「両面観」といっています。」(p.131 - 132)
吃音に悩む人たちの全国組織で、吃音者宣言というのを作ったそうです。そこには、どもることを恐れず、どもるままに社会人として行動する、というようなことが書かれています。これに対して、治療の放棄だという反対意見があったのだとか。
この矛盾が、森田療法の中では統合されるのだと言います。つまり、治療を放棄したのではなく、治療のためにこそ、治療されなくてもかまわないという態度が必要だということです。治療にこだわることが、かえって治療を遅らせてしまう。そういう矛盾があるのですね。
「よく「神経質は内向的だ」といわれますが、一方の気持ちは「強い欲求」によって外に向かっています。つまり「神経質は外交的だ」ということもできるわけで、このように人間の性格は矛盾しているからこそ、運動し発展していくものだ、ということができます。
このように、運動・変化していく事物のなかには、かならず矛盾があるもので、これを「矛盾の普遍性」とよんでいます。」(p.135)
神経質な人は失敗を恐れ、内向的だと言われます。けれども心にはものすごい葛藤があって、その強い欲求が治療の困難に立ち向かわせます。このように、相矛盾するものがあるのですね。そして、だからこそ運動し発展すると言います。弁証法もそうですが、矛盾こそが変化を生み出し、変化は発展につながるのです。
「しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、自分が悩みをのりこえ、自信をもちはじめると、他人の悩みも同じことだと軽々しく判断して、自分の体験がいちばんだと押しつけることです。人の心はさまざまです。だから悩みもさまざまで、人にはそれぞれ独自の悩みがあります。つまり、「世の中の事物には一般と特殊、つまり共通する性質とそのもの独自の性質の矛盾がある」ことをわきまえないと、この「平等観のとらわれ」となってしまうのです。」(p.144)
やや難しく語り過ぎているきらいはあります。そう何でも「矛盾」にする必要はないとは思いますが、森田理論としては「矛盾」で統一したいのでしょう。要は、一般的に言えることもあれば、個別にしか言えないこともあるよ、ということです。
当たり前と言えば当たり前なのですが、猫好きな人がいるからと言って、すべての人が猫好きではありません。猫を飼ったら気が紛れて病気治療にいいよというようなアドバイスは、猫好きの人の中では一般的であっても、そうでない人には役に立たないアドバイスですから。
「このことは、奉仕も「客観的事実」の正しい分析と、それにもとづいた正しい方針なくしては、かえってアダになることすらある、ということを、はっきりと示しています。
そして、「現実に根ざした奉仕」の重要な意味が、おわかりいただけることでしょう。つまり、奉仕のポイントは「客観的現実にあったものでなくてはならない」ということです。」(p.230)
ここは、とても違和感を感じた部分なので、あえて紹介しました。シュバイツァー博士を例にして、世界的にはその業績が讃えられているものの、現地の評判は散々だということが書かれていました。だから、奉仕をするなら客観的事実を正しく分析し、正しい方針を選択せよと言っているのですね。
でも、「客観的」とは何でしょうか? 現地の評判が散々だとしても、現地の人でシュバイツァー博士に感謝している人は1人もいないのでしょうか? 先ほど、すべてに矛盾があると言っているのに、ここにきて、絶対的な正しさがあるとするなら、それこそ矛盾でしょう。
このあと、客観的な現実にあった奉仕の例として、家の掃除や皿洗いをあげています。それをされて怒る人は、よほどの変人だとこきおろします。そうでしょうか? たとえば、台所を自分の縄張りだと感じている妻がいるのに、お姑さんが勝手に皿洗いをしたら、どうでしょうか? 表面上は感謝して見せるかもしれませんが、内心は腸が煮えくり返る思いかもしれません。
ですから、客観的事実などというものは存在しないのです。それが何かを分析することより、個々人がどう感じるかという主観を尋ねる方が重要だと思います。もちろん、自分がそれをされたら助かるなあという感覚で、どんな奉仕をするかを選ぶことも良いでしょう。けれども、他人が同じように感じるなどと決めつけないことです。
やや本の内容を否定してしまいますが、この部分は私が納得できなかった部分ですので、あえて書いておきます。
事例も豊富に載っていて、森田療法の理論もわかりやすく書かれています。
理屈っぽく頭でっかちになるのではなく、現実の事実に即して行動するという実践を重んじています。不安や恐怖が沸き起こっても、それをそのままにやるべきことをやる。その行動の積み重ねによって、治療がなされるのですね。
また世の中は、一面的にとらえることはできず、必ず矛盾があるし、両面性があるものです。ですから決めつけをせずに、丸ごと受け入れる、ありのままに受け入れることが重要だと。それができないとらわれ(執着心)こそが、病気の原因になっているようにも思います。
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