スピリチュアル・カウンセラーの小宮昇(こみや・のぼる)さんの本を読みました。古宮さんの本は、以前に「一緒にいてラクな人疲れる人」を紹介しています。「神との対話」もよく読まれていて、単に心理学を応用するだけでなく、そこにスピリチュアル的な深みを得ておられるように思います。
実は、来年(2018年)1月に、古宮さんにお会いしに東京へ行くのです。古宮さんが、アメリカで発売されたばかりの「神との対話C」を読まれて、その内容を伝えるためのお話会を開催されると聞いたからです。「神との対話」と聞いては、私もじっとしていられません。もとより古宮さんとお会いしたかったこともあって、すぐに一時帰国を決めたのでした。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「カウンセリングは人が変容する過程を支えるものです。これこれの問題に「苦しむ自分」から、もうそのことでは悩まず「より自分らしくのびやかに生きる自分」への変容です。変容の結果、当初来談した理由だった問題が変わったり、なくなったり、もしくは問題の受け取り方が変わって同じことがもはや問題ではなくなったりします。それを問題解決と呼ぶのです。つまり、問題解決は目的ではなく、変容の結果として起きることなのです。」(p.11)
問題を抱える来談者(クライアント)に、解決方法をアドバイスするのはカウンセリングではないと言います。お悩み相談ならそれでもいいのでしょうけど、それでは本質的な解決にならないからです。目の前の具体的な問題を解決に導くのではなく、来談者が変容することによって、問題が問題でなくなるようになる。来談者の成長こそがカウンセリングの目的なのです。
「カウンセリングの効果が現れるもっとも重要な要素の一つは、カウンセラーと来談者との人間関係だ、ということが明らかになってきました。」(p.16)
カウンセリングの技法よりも重要なのは、カウンセラーと来談者の人間関係だということです。来談者がカウンセラーとの間に、良い人間関係を結べていると感じた時、統計的に有意にカウンセリングの効果があったと研究結果が出ているのです。
これは、ある意味で面白いですね。つまり、技法を駆使して治してあげるというものではないのです。むしろ、互いに成長し合うような関係を結ぶことが治療になる、と言った方がよいように思います。
「誰かがあなたを縛るとき、縛る気持ち自体は愛ではなく恐れだとわたしは思います。恐れは、相手に対する信頼の欠如から生まれます。そして相手への信頼の欠如は、自分自身に対する信頼の欠如から生まれます。信頼とは愛の一側面ですから、信頼の欠如とは愛が欠如しているサインです。自分のなかで愛が欠けているから相手に愛を注ぐゆとりがないのです。」(p.45)
ここでは、嫉妬は愛ではないということと、自分を愛せないと他人を愛せないということが語られています。こういうところは、まさに「神との対話」で書かれている内容ですね。
「あるがままでいることを許され、自分自身のままであっても尊重されることを知る経験はとても貴重で、効果的なカウンセリングには欠かせない経験です。」(p.45)
カウンセラーが来談者を完全に受容すること、つまり愛することが、カウンセリングの効果を上げるのに重要なポイントだということになります。カウンセリングとは、要は来談者を愛することなのです。
「感情は、わたしたちを突き動かしている原動力、エネルギーです。愛情、喜び、怒り、悲しみなどさまざまな感情がありますが、その存在目的は、ただ一つ、「感じてもらう」ということだけです。悲しみというエネルギーなら、その人の心とからだの全体で悲しみを感じてもらいたいのです。悲しみを全身で感じきったとき、そのエネルギーは解放されて、安らかに消えてゆくことができるのです。」(p.56)
これは、心理療法家の中島勇一氏の書籍からの引用部分です。感情をしっかり感じることの重要性を示しており、これもまた「神との対話」でも示されていることです。
「癒しと成長の過程が進むために必要な援助者の態度は「共感的に理解しよう」という態度であって、来談者を「助けよう」とか「変えよう」とする態度ではありません。」(p.60)
もちろん、来談者は悩みがあるからカウンセラーを頼るのであり、カウンセラーは悩める来談者を助けたいからカウンセリングをします。しかし、実際のカウンセリングにおいては、その上下関係はないのです。助けようという気持ちがあると、上手く行かないと言います。まさに本質的ですが、面白いところです。
「そのアシスタントは、生徒を傷つける結果になったことでしょう。そしてそうなった原因は、そのアシスタントの「人から頼られ必要とされたい。そうすることによって、自分が無価値だという不安から逃れたい」という、彼女自身のこころの傷に根ざした欲求だったのかもしれません。
そのスクールカウンセラーのアシスタントのような、いかにもあたたかい・優しい態度が援助的・共感的な態度とはかぎりません。」(p.95)
生徒の身体に触れたり、「大丈夫よ」とか「応援しているから頑張りなさい」というような声掛けを、しょっちゅうしていたアシスタントについてです。そのうち生徒たちはそのアシスタントに依存的になってつきまとうようになり、アシスタントは逃げるように学校を去ったのだそうです。
来談者から頼られることを心地よいと感じ、そこに依存してしまうことは危険です。ですから、まずはカウンセラー自身が自立していることが重要なのです。自分で自分を愛せるということですね。
「援助者がすることは、来談者のいまのあり方を受けいれ、尊重し、共感的に理解し、その理解をできるだけ正確に来談者に伝えるよう努めることです。悪く評価されて援助者が不安になると、それをするゆとりがなくなります。」(p.129)
ここで言っているのも、援助者が、自分の援助が十分に評価されているかどうかを気にしないことが重要だ、ということです。自分の評価ではなく、来談者を受け入れることに心を砕くことです。それができるためにも、援助者がカウンセリングを受けることが必要だと、古宮さんは言います。
「わたしたちが他人の「悪い」面を見て腹が立つのは、自分にも同じ面があり、しかもそれを自分では受けいれていないときだと思います。」(p.132)
誰かを見て「ここが悪い」と感じて腹が立つのは、そういう面が自分の中にあり、それを自分が受け入れていないからだと古宮さんは言います。つまり、現実は自分の鏡なのです。
ここでは、「カウンセラーを志望する人間が甘いことを言うな」と指摘したカウンセラー志望の女性に対して、古宮さん自身が腹を立てた例をあげています。古宮さんはその女性を裁き、見下したと言います。
それは取りも直さず、小宮さん自身が、「カウンセラーたる者は人の気持ちを理解的に受けいれなければならない」という価値観を持っており、それに合わない人を受け入れられなかったからです。
その女性が、他の人の価値観を受け入れずに腹を立てたのと同じことを、古宮さんがしていたことに気づかれたのですね。価値観の内容は違っていても、自分の価値観と違えば受け入れられらないという点で、同じことなのです。それだけ、自分の価値観が突き崩されるのが怖かったのでしょうね。
「カウンセリング的な癒しの関係が提供することの一つは、きっとこの自己受容の過程だと思います。優秀なカウンセラーほど、何を話しても何を感じても、親身になって理解し受けいれてくれます。本当の気持ちや考えを正直に感じて、見て、表現して、それが理解され無条件に受けいれられる過程。それが解放と変化をもたらします。それが人生を変えます。そして自分一人では入ってゆけない自分自身のこころの領域にも、カウンセラーのような理解的な誰かと一緒なら入ってゆけるかもしれません。」(p.162)
古宮さんは、ここにカウンセリングの可能性を見出しておられるようです。要は自己受容なのですが、自分一人ではなかなかそれができない。それを、自己受容できるカウンセラーの共感的な態度と一緒に自分を見つめることで、自分も自己受容ができるようになる。それがカウンセリングというものなのでしょう。
「カウンセリングの過程とは、カウンセラーが来談者より上位に位置して来談者を「治す」ものではなく、来談者のもつ自然な成長の過程が自由に進むように援助するものなのです。
そして、こころの中の何が痛むのか、どの方向に進んでゆけば良いのか、どの問題が本当に大切なのか、そしてどの経験が心の奥深くに埋められているのか、すべて本当は来談者自身が知っているのです。」(p.237)
古宮さんは、ロジャースの考え方に共感し、来談者を自由にさせるカウンセリング手法こそが役に立つと思われているようです。したがって、来談者とカウンセラーは、治す者と治される者という上下関係ではなく、共に進む者という考え方なのですね。
そしてさらに、上に立つわけではないので、何が来談者に最適かは、来談者が知っているという立場に立ちます。つまりこれは、完全な来談者への信頼なのです。何も心配せず、治そうとしなくても治る力は来談者自身が持っており、来談者が必要なタイミングで勝手に治るという信頼です。
このような見方は、「神との対話」にも書かれています。例は障害者ですが、魂そのものは完璧であり、あえてそういう障害を負うことで、何かに挑戦しようとしている勇敢な魂だと見るようにしなさいと、「神との対話」では言っています。おそらくロジャースや古宮さんの考え方も、そういうものだと思われます。
私は、カウンセリングというものは、心に傷を負った人が受ける治療だと思っていました。しかしこの本を読んで、それは間違いだと気づきました。
カウンセリングというのは、特殊なことではなく、人を導く人の在り方ではないかと感じたのです。つまり、先輩とか上司とか教師という人の上に立つ人は、すべてカウンセラー的な考え方を持つ必要があるように感じたのです。
さらに言えば、人間関係においては、いつもカウンセラー的な考え方を持つべきだとも思います。たとえば夫婦間がそうです。相手の自由を完璧に認め、共感的な態度で接する。相手の課題に土足で踏み込んだり、求められないアドバイスをするのではなく、相手のことを信頼して見守る。相手が自分を頼らずに自立できるように仕向ける。
こういう態度こそが、本当の愛だと思うのです。相手を自立させ、自分なしで生きられるようにする。そのために貢献する。そういう生き方がカウンセリングの目指すところであり、人として目指すところだと思います。
もちろん、そう思ったからと言って、すぐに実践しようとしても難しいと思います。ですからこの本でも、カウンセラーこそカウンセリングを受けるべきだと言っているのです。良い指導者に巡り会い、その指導によって自分を見つめ直し、自己受容を深めていくことが大事だと思います。
【本の紹介の最新記事】