2017年11月24日

極楽飯店



久しぶりに雲黒斎さんの本を読みました。本名は黒澤一樹さんです。一時期、本名で活動されてましたが、また元の雲黒斎に戻されたようです。雲黒斎さんの本は、これまでに「あの世に聞いた、この世の仕組み」「降参のススメ」を紹介しています。本名で出された本は、「ラブ、安堵、ピース」でしたね。

今回の本は小説です。これもブログで発表されたもののようで、帯に「人気ブログランキング小説部門1位」とありました。死んで地獄に落ちた主人公が、悟りを得て守護霊として復活する。そんな内容になっています。そこには、雲黒斎さんの守護霊さん(雲さん)のことも出てきますよ。

この本は、今年(2017年)9月26日に、雲黒斎さんの「平日のお話会「月イチ☆」」に参加した時、その場で購入したものです。購入した本には、しっかりとサインをしていただきました。(写真は記事の最後にあります。)


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。と言ってもこれは小説ですから、引用は一部にとどめますね。

私の人生って、いったい何だったんでしょう。なぜ神は、これほどまでに私たちを苦しめるんでしょう。なぜ全知全能であるはずの創造主は、わざわざ罰せねばならぬ者や、それを可能にする世界を創り出したんでしょう。多くの宗教家が言うように、神が愛や平和そのものであるなら、最初から苦しみなど創らなければよかったのに」(p.62)

自殺して地獄に落ちた白井さんの嘆きです。この疑問に対する答えは、ずっと後ででてきます。しかし、こことのつながりが書かれていないため、読者はおそらく気づかないでしょうね。

「全てが思い通りの世界で求める最後の望み…。それって、もしかしたら『思い通りにならない』ってことじゃないっスか…」
 藪内の答えに、閻魔はパチパチと手を打って嬉しそうにはしゃいだ。
」(p.177)

「神との対話」を読んでいれば、ここに答えがあるとすぐにわかります。天国(本質的な世界)では何でも思い通りになる(全知全能)のですが、それだけだと面白くないんですね。たとえて言えば、何回投げても必ず300点満点が取れてしまうボーリングゲームのようなものです。最初の数回は楽しくても、すぐに飽きてしまうでしょう。


これまで君たちは大きな錯覚を抱え続けたまま生きてきた。それは、『分離』という名の錯覚。本当は一つの同じものなのにもかかわらず、『自分と自分以外がある』という誤った感覚を持ち続けていたんだ。たとえるなら、虹の中に見える鮮やかなグラデーションの一部を切り取り、赤、橙(だいだい)、黄、緑、青、藍、紫と名前を付けているようなものでね。」(p.194)

グラデーションですから、どこからどこまでが赤だなどという明確な区切りはありません。それなのに勝手に「この部分が赤」と決めているだけなのです。「私」という認識も、それと同じなのですね。

雲黒斎さんは他の本で、飲んだ水は私か、私でないか、という問いかけをしています。コップに入った水は私ではないと考えるでしょうけど、飲んだ水は、いつから私になるのでしょう? そこには明確な区別は存在しないのです。


最初から、個別の命などない。元からないのだから、それを消失できるはずもない。だからこそ、人間が思っているような死、つまり「命を失う」ということはありえないのだと閻魔は言う。」(p.200 - 201)

私たちの命は、どこから生まれるかと閻魔はみんなに問いました。母親の体内にいる胎児の時から、個としての命はあるように見えます。また、受精卵が着床する前から細胞分裂しているので、命はその前からあるように見えます。では、受精の瞬間でしょうか?

しかし、その前から卵子も精子も生きています。受精の前から命はあるのです。では、卵子はお母さんの命で、精子はお父さんの命なのでしょうか? 受精卵には、2人の命が宿っているのでしょうか?

このように考えると、個別の命などというものがないのだと理屈でわかると思います。それは錯覚なのです。


神を探し求めている当の本人が神自身だからね。自分自身が神であることに気づく以外、どこに神を求めても、決して見つかりはしないんだ。」(p.209)

モーセの十戒の最初に、答えが書かれていると言います。「あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない」ここで言う「わたし」とは、のことなのです。そう思って読むと、この意味がわかります。英語で言えば「I(アイ)」です。「I」と言う者が神なのです。

このあと、偶像を崇拝するなという話が続きます。偶像とは、「わたし」ではないものです。私は「わたし」のみの頼りにすべきなのです。


時には、「笑うしかない」といった言葉が表すように、いま目の前にある八方塞がりの状況に対しての完全降伏を意味することもあろう。しかしその降伏は、決して「負け」を意味するものではない。白井のボキャブラリーを借りるなら、笑い声はそのまま「神の思し召すままに」といった宣言となり得るということだ。」(p.222)

「状況(いま)を受け入れる」という態度が重要だと言います。笑いとは、思考と恐れを手放したところにあるもの。現実を創造する主導権を「分離した自己(自我、エゴ)」から「本来の自己(源、ソース)」へ渡すことが、笑いなのです。

腹から笑っている時は無防備で、安心しています。完全に信頼し、結果を手放しています。ですから、「笑う門には福来る」と言うのですね。


小説としてもとても楽しいですし、そのやり取りの中で深い気付きが得られます。最初は死後の世界がこういう感じだと言いたいのかなと思ったのですが、そうではありませんね。これは、死後の世界というシチュエーションを利用して、現世のことを語っているのだと思いました。

極楽飯店

黒澤一樹さんのサイン
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 10:47 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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