2017年11月16日

「憧れ」の思想



「読書のすすめ」にあった白駒妃登美さんのおすすめ本3冊の中の3冊目になります。これまでに読んだ2冊は、鍵山秀三郎さんの「凛とした日本人の生き方」「すぐに結果を求めない生き方」でした。

3冊目となるこの本は、私が知らない著者の執行草舟(しぎょう・そうしゅう)氏。何や難しげなお名前ですが、著述家、歌人などをされているようです。そして読み始めて感じたのは、お名前のように「難しい」ということでした。(笑)

それで読み終わるまでに、かなり時間がかかってしまいました。300ページもある上に、文字も小さめで行間も詰まっています。ルビのついていない漢字がほとんどで、読めなかった(辞書を引いた)ものが10個くらいあったでしょうか。

そんな難しい本に部類されるような内容でしたが、読むにつれて徐々に引き込まれ、最後の方は集中して読み切ることができました。「魂が震える」というのは、まさにこういう本のことを指すのかもしれません。久しぶりに読んだ本格的な本です。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
この本は、「憧れ」について探求する内容になっています。唐突に出てくる「憧れ」という言葉に、最初はよくわからなくて戸惑いました。しかし、少しずつその片鱗が見えてくると、この本の魅力を感じられるようになるのです。

いつもなら引用の都度、解説をしているのですが、なるべく解説を省いて紹介したいと思います。わからないなりに読み進め、そこに何かを感じていただきたいからです。

人間は、宇宙の意志である。私は、そう思っている。生命の中で、人間だけが「精神」を志向することが出来るからだ。精神のために死することが出来るからだ。命よりも大切なものがあるからだ。私は、それを「憧れ」と呼ぶ。あらゆる生命の中で、唯一人間だけが、生命的進化を可能にする「精神」を有している。その精神が志向する故郷を、私はともしびと感じているに違いない。そして、そのともしびは、高く遠い彼方にある。垂直に伸びる、永遠の彼方にあるのだ。」(p.21)

キリスト教は、信ずれば現世的には「損しかしない」宗教であった。そのことが、キリスト教を歴史的で世界的な宗教に育て上げたと私は思っている。(中略)信仰のゆえに死後に与えられる「永遠の生」は、「憧れ」の宗教的解釈であると言ってもいい。私の言う「憧れ」は、もっと生命的なものであるが、もちろん近いことに違いはない。ただ、私は現世における生命の「燃焼」の方が、死後の生よりも重要だと言っているのだ。」(p.28)

憧れは、肉体を顧みない人間にしか実感できない。それは、憧れを抱く本源が、人間の魂であるからに他ならない。魂とは、人間の精神が生れ出づる源泉を形創っている。それは、混沌の中に煌(きら)めく重い「質量」である。その「質量」が、人間の憧れを見つめる原動力となるエネルギーを吸い込んでくれるのだ。そして、垂直を仰ぎ見る自己を創り上げる。垂直とは、自己の魂が憧れに命じられるままに目指すものと言うことが出来る。そして、肉体が憧れを知ることは出来ない。」(p.31)

魂とは、肉体が逃げ出そうとする時、それを逃がさない「何ものか」である。恐怖に立ち向かう勇気の淵源と見て差し支えない。その魂が慕うものこそを、私は憧れと言っているのだ。」(p.31)

ここまで、前半部で執行氏は、「憧れ」がどのようなものかを語っています。この世の生命、この肉体を超えて希求するもの。それが「憧れ」です。その情熱は魂から生まれ、肉体の恐れをも克服する勇気を生み出している。そんなふうにまとめられるのではないでしょうか。


核兵器と核利用社会が出現したのは、人間がその精神に「憧れ」を失ったからに他ならない。人間が、精神の崇高を求めなくなったからなのだ。核は、物質文明の頂点に位置し、豊かさと便利さの代名詞なのである。ここに核問題の難しさがある。我々は、肉体的豊かさだけを求める物質文明を見直さなければ、核を捨てることなど出来ない。」(p.36)

その当時、他のアジア諸国は「羊のように」おとなしかった。それゆえに、西洋人はアジアにおいて、絶対的な「権力」をふるっていた。先ほど触れたように、アジア人たちは利に聡(さと)く、そのゆえに極めておとなしかったと言えよう。西洋人の差し出す目前の利益に嬉々とし、逆に欲を張ったり不満をもらせば、完膚なきまでに打ちのめされるだけであった。飴と鞭が、欧米帝国主義諸国の植民地支配を支える根本思想であった。その根本を揺るがしたのが、日本の武士がもつ「狂気」であったと言っても過言ではない。」(p.120 - 121)

豊かさを捨てる勇気、どんなに不利益であろうと筋を通す勇気がなければ、この世に高い精神性を打ち立てることはできません。幕末、大名行列の前を乗馬のままに横切った英国人を斬った生麦事件、その後の薩英戦争、馬関海峡で攘夷を決行した長州。これらは日本人の、武士の、「狂」を表していると言います。


そして、その展開として「理解しようとするな、わからぬままに突き進むのだ」という考え方を提唱実践しているのだ。今の自分にとって悪なるものであっても、突き進むうちにその意味が理解できるときが必ず来る。それを信じ、善も悪も正も邪もすべてを抱き締めなければならない。理解も不安も不明も、それらのすべてを自己の肚(はら)に収め、ただただ突き進むのである。勇気が、すべての矛盾を融合してくれる日が来る。」(p.124)

つまり、生きようとしないことによって、この世の不合理をすべて呑み込むことが出来るようになっていったのではないか。いつしか私は、死を想い続ける人間になっていた。死を想い続ける人間は、生命の垂直を仰ぎ見ることになる。現世的な不合理を、不合理とすら考えない人間となっていた。生きようとする意志が立てば、生への執着が消える。それと同時に、この世の不合理も消失したように感じている。これが、その後に「死に狂い」の思想に発展したのだ。」(p.128)

わからなくていい。一歩進めて、むしろ理解しようとするなと言います。価値判断せずに、そのまま受け入れ、いつかはそれがわかる時が来ると信じて、ただ突き進む。その勇気を持てと、執行氏は言うのです。


つまり、花も草も、その違いは何もないのだ。愛されることも、嫌われることも、どちらも自己の生命の価値には何の差し障りもないということなのだ。
 人生には、正しいも間違いもない。ただ、自分に与えられた生命に正直なことが一番大切なのだ。それが、自分にとって正しい。
」(p.144 - 145)

道元の正法眼蔵の思想を、執行氏はこのように受け止めたようです。これにより、「自らの人生で遭遇するであろう不合理と不幸をすべて受け容れる覚悟が出来た」と言います。


ヨーロッパと日本だけが、本格的な「中世」を経験した。それが、どれほどの価値であったかは、それ以後の歴史を見ればわかることだ。中世は、人間の「精神化」が行われた時代である。宗教を中心として、人間が真の「憧れ」に向かって生きる存在となった。」(p.153)

中世を経験し、精神的に高まったことで、その後の近代化と工業化を成し遂げられたと執行氏は言います。


だから、我々の生存の根底を支えているものが愛ということになる。それを知れば、我々は愛に生きることを願わずにはいられない。そして、愛こそが、無限の「犠牲的精神」を支えている法則となっている事実を知ることになるのだ。この世において、生命の本質が犠牲的精神にあることの根源がここに存する。我々は、愛を求めなければならない。つまり、愛に死ぬのである。
 愛が、革命を創り出している。革命の精神は、愛に基づくことによって宇宙と生命の根源に帰一していくと言えよう。不断の革命が、正しい宇宙を営み、正しい生命の活動を行なわしめ、正しい文明の推進を為していくのだ。革命とは、破壊のことだ。しかし、それは生成のための破壊である。破壊なくして、生成はない。
」(p.194)

不毛は、未完という意味に近い。不毛を恐れることが、生命の敵なのだ。不毛を本当の幸福と認識することが自己の生命を燃焼させる。それは、失敗することも多いに決まっている。しかし、失敗してもいいのだ。失敗の中に、生命の真実がある。つまり、生きるための「涙」が光っている。不毛であろうが、未完であろうが、そのようなことを恐れずに突進することに自己の生命の価値がある。生命は、燃焼することに、その幸福がある。革命に死することが、自己の生命の真の幸福を創る。」(p.196)

革命に生きることを、最も阻害する考え方がある。それは、自己の価値を他者に認めてもらいたいという生き方と言えよう。その成果の頂点にあるものが、「勲章」ではないだろうか。」(p.198)

だから、国家が国家のために国民に死を強制できるような時代は、現代よりも却ってそれぞれの人の生命が燃えさかっていたのだ。命をかけることが出来る「何ものか」を感ずることが大切になる。家族が大切なら、そのために死なねばならぬ。会社の仕事を真に愛するなら、仕事に死なねばならぬ。国もまたしかりだ。自分が「他者」に対して何が出来るかなのだ。その精神の中に、存在の革命が生きている。自己の運命を知ることが、革命に繋がっていくのだ。
 そして、叫ぶことだ。誰が何と言おうといっさい構う必要はない。自分が本当に正しいと思う「考え方」をこの世に対して叫ぶ。それが、自分の「存在の革命」を否応なく創り上げてくれるだろう。自己の仕事に「死に狂い」が出来る人間なら、叫ぶことは必ず出来る。どのように損をしても、叫ぶのだ。嫌われることなどは問題外である。そんなことは、特に関係ない。革命に生きる者は、自己の生命と生存の根源に対して正直でなければならない。
」(p.200)

武士道は、革命の精神である。信ずるものに対して身を捨てる精神こそが、革命の精神に他ならない。この意味において言えば、殉教を尊ぶ原始キリスト教も革命の精神なのだ。それも自己の死を、犬死にでいいとする思想である。そう思い、そう確信することで、私は初めて命がけの生き方が出来るようになった。我々現代人は、それほどに、自己の人生に固執しているのだ。私は、犬死にでいいと思うことによって、初めてその固執から抜けた。」(p.206)

ブロッホの革命思想は、変転する歴史の中で、無念のうちに命を落とし、名を残すこともなく死んでいった者たちの存在を照らし出す、愛に満ちた思想だと私は思った。人類は、絶えず生の躍動を繰り返していかなければならない存在なのだ。そうならば、個々人が未完に終わることは、次の世代が行なうさらなる生の躍動を遂げるための希望を残すということにもなる。だからこそ、自らの願いに挑(いど)むことに恐怖してはいけない、とブロッホは言っているに違いない。
 憧れに向かうときにだけ、人間には真の希望がある。希望とは、永遠に続く「魂の渇望」を言っている。それは、人間にとって無限の旅となるだろう。
」(p.237)

ここまで怒涛の引用をしましたが、だいたい本の雰囲気がわかっていただけたでしょうか。不完全でいい、失敗していい、完遂しなくていい、ともかく勇気を出して突き進む。その先に人類の希望がある。希望の中に生きる。それは愛することなのです。


書物から放射する「憧れ」のエネルギーが、私の人生を限り無い幸福へと導いてくれているのである。私の人生が、結果として如何なるものであっても、私は秀れた先人の魂と共に歩む人生を愛してやまない。書物と共に生き、書物と共に死する私の人生は、最高のものであると断言できる。それは、書物によって「憧れに向かう人生」を与えられたからに他ならない。現世の「食い物」には興味の無い自分を築けたことに尽きるだろう。」(p.247)

読書とは、精神を養うものを言っている。活字を読むことが読書ではないのだ。読書とは、心の共感を求めるものに他ならない。つまり、読書は自己の憧れに向かうための唯一の手段なのだ。自己の生命が、燃焼を果たしていくための唯一の武器となる。」(p.268)

本は、現代の剣である。それは、ただ自己の生命を燃焼させるためだけに読まなければならない。そのために、自己の「情熱」を読書によって喚起し、不断の読書によってそれを持続する。つまり、読書によって「危険を顧みない」生き方を学ぶということに尽きるだろう。そして、燃焼の果てに死する。それ以外のものは、何も望まない。その覚悟が大切だと思う。」(p.277)

人間は、一人ひとりが別々に宇宙の根源と繋がっている。だから、根源を志向しなければ、我々はわかり合うことは出来ない。誰もが同じ精神であるはずがない。だから、流行している書物によって根源的な生命が燃焼することなどはないのだ。生命の燃焼は、自分独自のものでしかない。だから、自分が「共感」する本がいい本なのだ。それが、自分の読むべき本である。その正邪などは問題外としなければならない。」(p.287)

読書は心の糧と言いますが、執行氏は読書によってこそ憧れに生きることができると言います。知識を得るためではなく、共感するために読む。だから、わからなくてもいいのだと。そしてその共感は、個々によって違います。ですから、自分がこれだと感じる本を読むことが重要なのです。そうして個々人が自分の憧れを追求していけば、その先に他の人との理解が生まれるのだと。


私は、ただ独りで死ぬ。そう決心した。それが、私の憧れに向かう人生を支えてくれた本源的思想なのだ。信ずれば、それは思想になる。どのように簡単なものでも、信ずれば、それは持続する思考の根底にすわって来るのだ。私は、このパスカルの思想によって、憧れに向かう人生を手に入れたと思っている。
 その幸福を、述べてきたつもりである。憧れに向かう幸福を、味わってほしい。それを伝えたいと思った。幸福は伝えなければならない。それが、私が読書から得た核心の一つなのだ。私の生命は、独りで死ぬ覚悟を決めたことによって、立つことが出来た。ただ独りで死ぬとは、それほどに大きな思想であったのだ。何があろうと、私はただ独りで死ぬ。だからこそ、私の生命は躍動するのだ。
」(p.306)

友のために大切な生命を投げ出す。これほど大きな愛があろうかと、聖書の中で語っています。財産も名誉も求めず、何かを成し遂げようともしない。ただ独りで死ぬ覚悟を決める。そのことによって人生は輝くのだと、執行氏は言うのです。


久々に硬派な本を読みました。貫徹していることは、生き方の「美学」だと思います。「美学」にこだわるからこそ、あらゆる執着を手放すことができる。それをするのに必要なのは、決断することです。そのための勇気です。そして、それを持続する情熱です。

読書は、そういうためにするのだという言葉、心に沁みました。読書は心の糧でもありますが、魂の糧でもあるのですね。

「憧れ」の思想
 
タグ:執行草舟
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:37 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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