2017年10月16日
すぐに結果を求めない生き方
これも、「読書のすすめ」で白駒妃登美さんのおすすめ本3冊の中の1冊になります。前回に引き続き、鍵山秀三郎さんの本を紹介します。
鍵山さんの紹介は、前回の「凛とした日本人の生き方」の紹介の最初に詳しく書きました。興味のある方は、そちらをご覧くださいね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「さらに、自分がやるのではなく、「誰かが」やるべきだと考える人がいます。こうなるともう絶対にできません。「いますぐに」「少しだけでも」「できるだけ」「私が」やるという覚悟をもって始めることが大切です。」(p.38)
すぐに「できない」と言う人は、できない理由を探しています。そしてそれを理由に「やらない」ことを正当化するのです。
できる条件が整ってからやろうとすれば、いつまで経ってもできません。ですから、「いますぐに」「少しだけでも」やることが重要なのですね。
そして、誰かがやってくれるだろうと思っていたら、いつまで経ってもできません。自分ができることを自分がやる。そこから始まるのです。
「これらは本来、私の仕事ではありません。もちろん、あなたの仕事でもない。誰の仕事でもないのです。誰の仕事でもないことだからこそ、するのです。」(p.42)
自販機の横にある空き缶入れに他のゴミが入っている時、鍵山さんは中身をすべて外に出し、分類して、空き缶や空き瓶以外は持ち帰って処分しているそうです。
誰の仕事でもないけれど、自分がやらなければゴミはそのままで、回収する人が困ることになります。ただ回収する人が困らないようにという思いから、気づいた自分がやればよいと言われるのです。
「私が気をつけていることは、掃除を強制しないことです。強制すれば、最初は全員が従うかもしれません。でも、けっして続かない。飛行機でも、滑走路から離陸するためには、長い助走距離が必要です。同じように、リーダーにはねばり強く自分の信念を伝えていく根気が必要なのです。」(p.57)
言われたから嫌々やるというようにさせては意味がないのですね。強制しないのですから時間がかかります。それを辛抱強く耐えることが、リーダーの務めなのです。
鍵山さんが掃除をされ始めてから社員に賛同者が現れるまで、約10年かかったそうです。最初の頃は無視されたり、批判されたりしたとか。それでも続けていくことで、やっと受け入れてもらえるようになったのです。
「最近は、ほんとうの意味で人間としての美学を極めようという気持ちで仕事をしている人はたいへん少なく感じます。私の場合、美学といえるかどうかわかりませんが、「与えられた枠を使い切らない」ということを一つの信条にしています。」(p.96 - 97)
鍵山さんは、飛行機や新幹線の座席の間の肘掛けを使わないそうです。自分が使えば隣の人が使えなくなるからだとか。当然、自分が使っても良いし、先に肘を掛けた者勝ちなのですが、だからこそ使わない。それが自分に与えられた枠を使い切らないということなのです。
それでは損をするかもしれません。しかし、損か得かではなく、それが自分にとって美しいかどうかが重要なのです。それが美学なのです。
「社長である私が、社員が苦労しようが売上さえ上がればいいと思っていたら、いまの会社はなかったでしょう。社員が卑屈な思いをする会社にはしたくない。こんな取引がいつまでも続くようならば、会社を続ける意味がない。そこから脱却しようという強い意志があったから、困難にも耐えることができたのです。」(p.106)
売上の6割を占めていたスーパーが、あまりに無理難題を押し付けてくるようになったため、鍵山さんはそのスーパーとの取引をやめたそうです。そして社員の仕事を作るために、直営店を立ち上げたのだとか。しかし小売店から反発され、理解してもらえるまで大変だったようです。
どんな困難が待っているとしても、上手く行かないかもしれないと思っても、自分の志を貫くこと。それが重要なのです。
私も以前は経営者でしたから、耳の痛い言葉です。私にはそこまでの志があっただろうか? そう反省させられます。
「哲学者の三宅雪嶺(せつれい)は、「大才は決断にあり」(まず決断できることが大才である)といっています。さらに「決断は私利を去るところにあり」とも述べています。この雪嶺の指摘こそ昨今の日本の指導者に欠けているのではないでしょうか。」(p.119)
「できる」から「やる」のでは「決断」ではありません。まず「やる」と決めるのが「決断」です。生きる上での信念、つまり志がしっかりしているかどうかが、決断できるかどうかの決め手になるのでしょう。
「有名になったのは、強盗が源左の所持金を盗ろうとしたところ、源左の言葉を聞いて何も盗れなくなったことを警察に話し、それが新聞に掲載されたからだといいます。
源左に会った人たちがたくさんの思い出話を残しています。近所の住職が、夕立に遭って全身ぬれねずみになり田んぼから帰ってきた源左を見て「ようぬれたのう」と声をかけると、源左は顔をほころばせて、「ありがとうござんす。鼻が下に向いとるんでありがたいぞなあ」といったという話。」(p.182)
これは、因幡の源左と呼ばれた人の話を紹介している部分です。江戸末期から昭和にかけ89歳の長寿を全うした1人の農民です。18歳で父親を亡くし、息子2人は発狂して早世し、2度も火災に遭うなど、不幸が絶えない人生だったそうです。しかし、浄土真宗の阿弥陀如来に帰依して、善行と孝行を尽くし、3度の県知事表彰を受けたのだとか。
この後、鍵山さんは、トルストイ氏の「イワンの馬鹿」という小説を紹介します。まさに源左の生き方は、イワンのような生き方でした。出来事がどうかとか、他人がどう思うかに関係なく、今あるがままに喜びを見つけ、幸せな生き方をしているのです。
私も不器用な人間ですから、誰でもできることをただ黙々と続けるという鍵山さんの生き方には、とても共感するものがあります。たとえ他人から評価されなくても、自分がやるべきと思ったことを続ける。そういう美しい生き方をしたいと思います。
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