2017年10月05日
オーマイ・ゴッドファーザー
帯に清水克衛さんの写真があったので、てっきり「読書のすすめ」で買ったと思いこんでいましたが、まったく違っていました。どこで誰が紹介してくれた本か忘れましたが、こういう本を読んでみました。作者は岡根芳樹(おかね・よしき)さん。企業の社長であるとともに絵本作家、人材教育の専門家でもあるようです。
清水さんが大推薦されてるくらいですから、きっと面白い本だろうと思っていました。しかし、読み始めてすぐに認識を改めました。これは「面白い」なんてものじゃありません。「超絶面白い!」本です。今年一番に挙げても良いくらいです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
この本は、岡根さんのお父様の教育方針を、フィクション風にしながら伝える内容になっています。あえてご自身のことも次男の良樹と漢字を変えて、客観的に見ているような感じで書かれています。
「ピアノはいらないから、せめてつっかえ棒がない家に住んだ方がいいのではないかと思うのだが、すべて主である哲和の「必需品より嗜好品を優先させる」というこだわりだった。」(p.24)
雨漏りもするようなボロボロの家の中に、カレンダーの写真であってもゴッホやシャガールなどの名画を飾ってあったそうです。本棚には百科事典や図鑑、文学の名作などがズラッと並び、クラシックやシャンソンなどのレコードが並び、天体望遠鏡、顕微鏡、ピアノまであったそうです。
「子どもを子ども扱いしないといえば、哲和は「危ないからやめなさい」とか「まだお前には無理だ」という言葉を子どもに一度も言ったことがない。」(p.28)
ナイフも止めるのではなく、励まして使わせようとしたそうです。怪我をしても自己責任において良しとする。そういう考え方だったとか。ちょっと行き過ぎではありますが、お酒も飲ませることがあったとか。
「だいたい子どもを子ども扱いする親ちゅうのは、自立できとらん無能な人間なんやぞ。親であることだけが自分の存在価値やから、子どもに成長されたら困るんや。せやから手とり足とり何でもしてやって、難しそうなものは遠ざけて、ずっと子どものままでいさせようとするんやぞ。」(p.36)
子どもを子ども扱いしない、大人と同じように見るということを、徹底してやっていたようです。子ども向けの簡単な本を読むのではなく、大人が読むような難しい本を読めと励まします。わからなくてもいいし、わからないから良いのだと。
その代わりに何でも自己責任です。おんぼろな家が嫌なら、自分の責任で出て行けば良いだけだと言うくらいですから。
「人生で最優先すべきことは、成功でも儲かることでもない。むしろ人生は失敗したほうが面白いんやぞ。変な人と言われることは光栄に思え」(p.49)
お父様はかなりの変人だったようですが、変人であることに誇りを持たれていたようです。平凡では世の中を切り開いて行く人にはなれない。偉人とは異人だと言われるのです。
「べつに映画の話はどうでもいいのだが、人生においてやせ我慢する美学というものは大切である。欲望を満たすことよりも美学を追求する姿、それを粋と言うのだ。」(p.63)
「武士は食わねど高楊枝」と言いますが、やせ我慢する武士道の精神を粋だと言います。
「とある賢明な方に、武士道とは簡単に言うとどういうことなのかと尋ねたことがある。するとその方は、
「普通、人は食べるものがないとき『食べられない』と言う。しかし武士は『食べない』と言う」と教えてくれた。
簡素にして深い言葉だった。
『食べられない』は被害者意識であり、『食べない』は自分の意志。
本当は食べたいに決まっている。しかし食べることができないのであれば、自らの意志として「食べない」とやせ我慢する。」(p.63 - 64)
すべてを自分主体で能動的に生きる。自己責任において生きる。それがやせ我慢の美学なのですね。
「美学なんやから、美しいかどうかだけが問題なんであってやな、そこに成果などを求めたらあかん。成果なんちゅう煩悩から解脱して、ただひたすら『美しさ』にこだわるんや。ほんなら成果なんちゅうもんは出るに決まっとる。」(p.67 - 68)
重要なのは生き方が美しいかどうか。その結果どうなるとか、何が得られるかなどは気にしない。そうすれば、結果は自ずとついてくるものだと言います。
私も、こういう生き方に憧れて、それを目指してきました。まあそんな偉そうに言えるほどのことではありませんが。たとえば拾った財布をネコババせずに届けるというのも、こういうことではないでしょうか。
「しかし真と良樹は進んだ道こそ違いはあるが、どちらも誰かに選ばされた人生ではなく、自分で選んだ人生だから本人たちに悔いはないのだ。たとえ道に迷おうが失敗しようが自分で何とかするしかないし、何ともならなかったとしてもそれはそれでいいのだ。人生はある程度、適当であることが必要である。」(p.73)
受験勉強に積極的に取り組んで公立大学の医学部に進み、医者になったお兄さんの真。一方、高校も途中から行かなくなり、劇団を立ち上げては潰し、急性胃潰瘍で倒れるという弟の良樹。どちらの生き方であっても、それぞれが選んだ道であり、良い悪いと他人が言えることではないのです。
「勉強っちゅうのは考えることやぞ。何でそうなるのか、疑問を持って考えることが勉強や。
歴史でも同じやぞ。いい国作ろう鎌倉幕府とか年号だけ覚えて何の意味があるんじゃ。それより何であんな鎌倉みたいな辺ぴな場所に幕府を開いたのかを考えた方がええ。」(p.77 - 78)
ただ教わったように、マイナスかけるマイナスはプラスになると覚えて計算ができても、それは計算機がやることであって、人の勉強ではないと言います。マイナスかけるマイナスとはどういうことなのかを考え、それを理解する。そういう本質的な学びこそが勉強なのだと。
これは「神との対話A」でも書かれている通りです。ただ年号を覚えても意味がありません。そんなことを知りたければ、今はインターネットで瞬時に答えが得られますから。それより、なぜそういうことをしたのかということを、前提条件や当時の人の価値観を知って考え、自分がその立場ならどうするだろうかと考える。それが本当の勉強なのです。
「本を読むとやな、新しい疑問が生まれてくるんや。それでまた次の本を読むと、また違う疑問が生まれてくる。つまり新しい疑問を持つために本を読んで、その答えを考えることが勉強や」(p.79)
わかるようになるために本を読むのではなく、わからなくなるために読むのだと、逆説的に言います。与えられた答を丸暗記するようなことは、本当の勉強ではないのです。
「子どもに関心を持たない。
それは口にするほど簡単なことではない。相当の覚悟が必要である。
我が子が路頭に迷おうが、ヒマラヤで遭難して死のうが、路上で吐血して死のうが、海外でどこの誰と結婚しようが、それもまた本人の人生。などと冷静に言いきれる親はなかなかいない。
むしろ、そんなのは子どもに対して無責任だ、という人の方が圧倒的に多数だろう。
子どもに関心を持たないという表現が過激であるのなら言い換えよう。
子どもに期待しない。」(p.95 - 96)
最近でこそアドラー心理学で、叱ることはもちろん褒めることもしない、という教育論が知られるようになりました。しかしそれ以前から岡根家では、こういう育て方をしていたのですね。子どもの成績が良かろうと悪かろうと興味も示さない。一見無関心に見えることが、実は愛なのです。
「馬鹿になろうとするんやない。すでに自分は馬鹿やということに気づけ」(p.112)
賢いと損得勘定で判断し、損をすると不幸になります。勝ち負けで判断し、負けると不幸になります。しかし馬鹿は、それに気づかないから幸せでいられます。常識にとらわれることがないから、自分の好きなように生きられるのです。そんな馬鹿になるには、そもそも馬鹿なのだと気づくことなのです。
哲和は、ドン・キホーテがすごいと言います。風車を竜に見立てて、本気で戦いを挑む。狂人とも言えますが、その卓越した想像力によって、自分の人生を豊かにすることができるのです。
この後、良樹の想像力についての例え話があるのですが、これがとてもいいのです。
お金がなくて食べるものがご飯しかない時、茶碗に盛ったご飯をテーブルに置き、横になって想像するのだそうです。自分は今、砂漠の中を何日もさまよっているのだと。口にしたのはわずかな水だけ。もうこのまま死んでいくのだろうか。せめて最後に、美味しい炊きたてのご飯を食べて死にたい!そして目を開けると、そこにご飯がある。
ご飯を食べるということは同じでも、想像力次第で悲惨にもなれば幸せにもなれる。コップ半分の水を、「もうこれしかない」と思うのか、「まだこれだけある」と思うのか、考え方を選択するのは自分の意志なのです。
「この世は、すべて光と闇でできとるんや。光だけでは成り立たん。影がないのは偽もんや。せやから人間の心には、光も大事やけど同じように闇も必要なんや」(p.127)
心の痛み、苦しみや悲しみ、そういうものが大切なのです。味で言えば、苦味や辛味。甘味だけでは深みがないのです。人間も影の部分を持っているから、人生が深くなるのです。
「常識を疑って反対側から見てみろ。
勝者の立場からだけではなく、弱い立場の者の視点を持て。」(p.145)
良樹は哲和から、たった1度だけこのような手紙をもらったそうです。物事には必ず表と裏があるのだから、一方からの見方だけが正しいわけではないのです。白人の西部劇ではインディアンは悪者ですが、インディアンからすれば白人は強盗なのです。
「不安も悲しみも絶望も、人間の心が作り出すもの。実際にはそんなものは幽霊や化け物と同じなのかもしれない。
(中略)
人生は深刻になるな、笑って大げさに生きろ。」(p.171)
哲和の会社が倒産した時、哲和は何ごともないかのように妻に伝えました。差し押さえに来るから頼むと。それを聞いた妻は、子どもたちに落書きをさせます。その当時、子どもの物は差し押さえられないという規則だったようです。悩んだり沈んだりしているのではなく、家族で大落書き大会をやって楽しんだ。そんな岡根家だったのです。
「良樹、『自分を信じろ』などと言うけどな、自分なんか信じとったらとんでもないことになるぞ。人間は自分にとって都合のええことばかりを信じたがるもんや。
自分なんか信じとらんで、もっと世界を観察した方がええんや。先人たちの多くの成功例や失敗例がいろんなことを教えてくれるやろ。
せやから本をたくさん読んだ方がええぞ。」(p.185)
まあ自信と言うより過信ですね。大した経験もしていないのに過信して、無謀なことをしてしまう。それより先人に学んだ方が良いというわけです。
「ええか、挫折は何回したってかまわんけど、それで挑戦することを止めてしもうたらあかんのや。諦めんで生きることが人生や。諦めて生きとる奴に人生はない。良樹、人生は長いぞ。今のうちにいっぱい挫折しとけ。だいたいお前の人生はまだ夜明け前や」(p.197)
絶対合格すると先生からも太鼓判を押され、自分も絶対の自信を持っていた中学受験に良樹は失敗します。落胆している良樹に、哲和は「そうか、あかんかったか。良かったやないか」と声を掛けたそうです。
挫折することが良いと、心の底から思っていたのでしょうね。そして、二度と受験などしたくないと思っていないかと良樹に尋ねます。挫折することが悪いのではなく、めげて挑戦をやめてしまうことが悪いのだと言うのです。
こういうことがサラッと言えてしまうのは、それだけ自分の中に確立したものがあったのだろうと思います。そして、そういう思いで、哲和自身が生きてきたのでしょうね。
「世の中には十代で自ら命を絶とうとする若者がいるが、ちょっと待ってくれ。それは浅はかな考えだ。
二十歳になってようやく人生の朝を迎えるのだから、十代でやるべきことは、しっかりといい夢を見ることだ。
たとえ悪夢を見てしまったとしても、笑い飛ばしてもう一度眠り直せばいいだけではないか。十代なんて人生の夜明け前、まだ一日の本番は何も始まっていあにのだから。」(p.199)
人生80年を1日に例えるなら、10年は3時間、二十歳になってやっと明け方の6時です。だから、まだこれからだと思って、何度挫折しても笑い飛ばし、挑戦を続ければ良いのです。
「上京してすぐに借金を抱えて血を吐いて倒れた時もまた立ち上がることができたし、二十二歳で婚約者に振られて人生に絶望し、「死んでしまいたい!」と大袈裟に思った時もそうだ。
何度ころんだっていい、そのたびにまた立ち上がってやる。
人生、取り返しがつかないように思えることはある。けれども、本当に取り返しがつかないことは人生には起こらない。」(p.202 - 203)
岡根さんは、実際に何度も何度も挫折を繰り返してこられたのですね。婚約者にフラれて絶望したという話は、思わず笑っちゃいました。微笑ましいという感じです。だって、私もそうですから。
「うまい話をする奴もそれにただ乗っかる奴も、どっちにしてもクソ野郎や。せやけどな、一番あかんのは被害者になることや」(p.213)
満州へ行けば天国が待っている。そう政府の宣伝に乗せられて、多くの人が満州開拓に乗り出しました。しかし敗戦によってすべてを失い、命からがら帰国できただけでも運が良かった方です。権力者は何があっても褒美を独り占めし、騙された庶民は被害者だと泣きわめく。そういうことはおかしいと、哲和は言います。
誰が悪いのか? 権力者が悪いと言う良樹に、哲和はそうは思わないと言います。騙された方が悪いのかと問うと、それも違うと言います。哲和は、「被害者になること」が悪いと言うのです。騙された方ではなく、騙された結果、自ら被害者になることを選ぶ人たちのことです。
被害に遭うことは、いくら努力しても防げないことがあります。しかし、被害者にならないことは自分でできます。自己責任で人生を笑い飛ばし、自己を確立して生きる。そういう生き方が重要なのです。
それほど期待せずに読み始めた本なのですが、これは驚きました。こういう教育論そのものは、アドラー心理学にもあるように、まったくないものではありません。しかし、自らの体験を元にそれを確立し、自分自身がそのように生き、子どもを教育してきたということが驚きだったのです。
ただただ、すごいなーと思います。そして、私自身もこんな風に生きたいなーと思うのです。
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