2017年06月02日
宮本武蔵
吉川英治氏の小説「宮本武蔵」、文庫本全8冊を読みました。私が20歳くらいの時、友人から借りて読んだのが最初でした。その時、3回くらい読み返したと思います。私の原点とも言える小説です。
あの頃は引きこもり中で大学へも行かず、部屋の中でゴロゴロしているだけでした。なので、時間はたっぷりあったのです。
小説を読みながら、「武蔵のように生きたい」と思いました。しかし現実は、自分の弱さに負けて、武蔵の友人の又八のような自分だったのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「われ事において後悔せず」(第三巻p.176)
「宮本武蔵」と言えば、この言葉が思い浮かびます。武蔵も、自分自身を戒める意味で、この言葉を使っていました。私自身も、後悔しないで生きたいという思いがあって、この言葉を記憶していたのだと思います。
「−−人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も巨(おお)きな顕現と行動をする−−しかも生きたる霊物ではないか。
−−おまえという人間と、神、また宇宙というものとは、決して遠くない。おまえのさしている三尺の刀を通してすら届きうるほど近くにあるのだ。いや、そんな差別のあるうちはまだだめで、達人、名人の域にも遠い者といわなければなるまい。」(第五巻 p.186 - 187)
富士と比べて小さい自分、小さい人間と思った刹那、武蔵の心に聞こえてきた声です。
自然や宇宙は雄大ですが、だからと言って自己卑下するのはおかしいのです。人が存在しなかったとするなら、この宇宙に何の意味があるでしょう? これは1つの考え方ですが、深遠な真理につながることが、小説の中で表現されています。
それにしてもこれ、読みようによっては神や宇宙と自分は一体である、つまりすべての存在は「ひとつのもの」という真理を語っているようにも思えますね。
「「富士山をごらん」
「富士山にゃなれないよ」
「あれになろう、これに成ろうと焦心(あせ)るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間に媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値打ちは世の人がきめてくれる」」(第六巻 p.113)
これは武蔵と弟子の伊織との会話です。相手によってどうこうするのではなく、まず不動の自分をつくる。そうすれば、いかなる問題が起ころうとも関係なく、ゆうゆうとしていられるのです。
この考え方は、莊子の「木鶏」に似ています。闘鶏を育てる名人に預けた鶏の様子を聞きに行くと、最後に木鶏(=木でできた鶏)のようだと名人が答えたのです。どんなにけしかけられても泰然自若としている。そうなれば、もう闘おうとする相手もいなくなるのです。
「死んだ鳥の肉は不味かった。自分だけの身を考えて、あわててそんな死肉で腹を膨らましてしまった伊織は後悔した。−−自分を捨てて、大勢のために考えれば、食物はひとりでに、誰かが与えてくれるのだということを覚えた。」(第七巻 p.85)
嵐で自分たちの住まいが壊れた後、武蔵は弟子の伊織を残して、水が出た様子を見に行ったのです。その間に伊織は、水の出た様子を見るより自分たちが住む家を何とかする方が先だろう、と考えていたのでした。
しかし、武蔵は水が出た様子を観察し、村人たちに適切な処置を指示していました。それによって村人たちは難を逃れることができ、武蔵に感謝して食べ物を持ってきたり、家の修理を手伝ったりしたのです。
自分のことを後回しにしても他人のことを心配する。「情けは人のためならず 巡り巡って己が身のため」という言葉があるように、他人を生かせば自分が生かされるという真理を語っています。
この小説は、剣豪宮本武蔵がいかに活躍したか、いかに強かったかには、それほどスポットを当てていません。それどころか、人間臭くて悩み苦しむ姿が描かれています。
また、登場人物の多くが、何かしらの苦しみを抱えています。それぞれにそれぞれの人生があり、いかんともしがたい苦悩を抱えながら、それでも生きているのです。
そんな複雑な人の心理をみごとに描いている小説。それがこの「宮本武蔵」なのだと思います。
戦前に書かれた小説ですが、今読んでみてもまったく古びた感じがしません。お勧めの小説です。
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