野口整体の野口晴哉(のぐち・はるちか)氏の本を読みました。タイトルからして、風邪は悪いものではないという意味が伝わってきます。そこにピンときたのです。
この本は、野口氏の講演を元に1962年に出版されたものを、2003年に文庫化したものです。ところどころ古い漢字も使われていますが、わりと読みやすく書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「だから血圧というより、むしろ血管の硬化といいますか、血管の弾力状態の方が問題である。まあ、これは血管だけでなく、人間の体中、或は心も含めて人間全体の弾力性というものを失わないように生活すれば、突然倒れるとかいうようなことはないわけですが、もし硬張ったとしても風邪を引くと治ってしまう。
だから、体を使っているうちに、或る一部分が偏り疲労の潜在状態になって、そういう部分の弾力性が欠けてくると風邪を引き、風邪を引いた後、恢復してくる。それで私は風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている。ただ風邪を完全に経過しないで治してしまうことばかり考えてるから、ふだんの体の弱い処をそのまま残して、また風邪を引く。風邪を引く原因である偏り疲労、もっと元をいえば体の偏り運動習性というべきものですが、その偏り運動習性を正すことをしないで、いつでも或る処にばかり負担をかけているから、体は風邪を繰り返す必要が出てくる。それでも繰り返せるうちは保証があるが、風邪を引かなくなってしまったら、もうバタッと倒れるのを待つばかりである。」(p.21 - 22)
ちょっと長かったのですが引用しました。つまり重要なのは、体の弾力性ということです。そして、その弾力性を失わせる原因は、偏った運動習性であると。そのために失われた弾力性が、風邪を引くことで回復するのですね。
「癌になる人とか脳溢血になる人とかいうのを丁寧に見ると皆、共通して風邪も引かないという人が多い。長生きしている人を見ると、絶えず風邪を引いたり、寒くなると急に鼻水が出るというような、いわゆる病み抜いたという人である。鼻水が出るというのは空気の中にあるいろいろな悪いものに対する一種の抵抗力の現われですから、鼻水など出るようなら、まあ体中が敏感であると言えるわけです。」(p.22)
癌や脳溢血など重病にかかる人は、風邪を引かない人が多いのだとか。環境の変化ですぐに鼻水が出るというのは、悪いことではなく、むしろ健康だということなのですね。
「大概の人は風邪を引くような偏り疲労を潜在させる生活を改めないで、風邪を途中で中断してしまうようなことばかり繰り返しているのだから、いつまでも体が丈夫にならないのは当然である。まあ風邪とか下痢とかいうのは、一番体を保つのに重要というよりは、軽いうちに何度もやると丈夫になる体のはたらきであり、風邪と下痢の処理ということが無理なく行なわれるか行なわれないかということが、その体を健康で新しいまま保つか、どこかを硬張らせ、弾力を欠いた体にしてしまうかということの境になる。」(p.27 - 28)
原因を取り除こうとせずに、結果だけを無理に変えようとする。だから健康が損なわれるのですね。
「だから治すということは病気を治すのではなくて、病気の経過を邪魔しないように、スムーズに経過できるように、体の要処要処の異常を調整し、体を整えて経過を待つというのが順序です。」(p.40)
病気というのは、必要だから起こっているという立場です。その病気がスムーズに経過するようにしてやれば、早く病気が治ると同時に、体の弾力性も戻ってくるのですね。
「風邪というのはたいてい自然に治るもので、風邪自体すでに治っていくはたらきですから、あまりいろいろなことをしないでいいのです。」(p.67)
風邪を悪いものと捉えるのではなく、健康に戻ろうとする過程であり、自然治癒力の発露だと見るのですね。
「風邪を引くと皮膚に異常が出る人は、今の方法以外に、恥骨の上の圧定愉気を先にやっておくことです。後でなくて先にやっておくこと、そうすると経過が早い。この時期にこの方法を行うと皮膚の機能を促進するのか、いろいろの皮膚異常が治る。だからお化粧の代わりにやってもいいのです。」(p.77)
整体なので、背骨を押したりする治療法があります。その他に愉気(ゆき)と言って、手を当てる方法もあるようです。ここでは、恥骨の上に手を当てて圧迫するという方法が、皮膚に異常が出る症状に効果的だと説明しています。
「しかし石鹸をつけて洗うというのは、大便が毎日出ているのに浣腸しているようなものです。浣腸すれば全部丁寧に出るけれども、それを習慣として繰り返していると、浣腸しないと大便が出ないような体になることは御存知ですね。それと同じように、いつも石鹸をつけて丁寧に洗浄していると、皮膚の排泄するはたらきをすっかり鈍らせ、弱らせてしまう。自分の体のはたらきで掃除ができないようになり、汚れやすくなる。同時に皮膚の呼吸作用も鈍ってくる。」(p.92 - 93)
現代では、石鹸を使わないで身体を洗うという有名人も出てきて、石鹸やシャンプーを使わない人も増えてきました。しかし、1960年代にすでに、こういうことを言っておられたのですね。
「顔を赤くしようと努力しても赤くならないのに、前の恥ずかしかったことを思い浮かべると、一人でいても赤くなる。恐ろしかったことを思い浮かべると、部屋の中のストーブにあたりながらでも、寒気がしたり、顔が青くなったりする。人間の体には、思い浮かべるということの方が、意志とか努力とか気張りとかいうことより、もっと直接に働きかけるのです。」(p.113)
「ともかく空想を方向づけるということを覚えて頂きたい。この空想の方向づけということが一番大事な技術であって、これに乗って愉気法を行うということが一番よい。」(p.114)
イメージすることが身体に直接的に影響を与えることを言っています。ですから治療においては、患者がどうイメージするかということが重要なのだと言います。
たとえば「簡単に治る」などと言うと、軽く見られたと感じてしまう患者もいて、すると患者は自分がいかに重病かを証明しようとあれこれ考えてしまうのだと。すると、病気の経過が悪くなるのですね。ですから相手によって、どう言うかも考えなければならない、ということも後で説明しています。
最後に「愉気(ゆき)」のことが説明してあったので、それを引用します。
「愉気ということは一口に言って、人間の気力を対象に集中する方法です。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと意識では妙だと思われることが実現します。」(p.200)
「だから愉気をするには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心でない、雲のない空のような天心が必要なのです。
天心というのは、大空がカラッと晴れて澄みきったような心を言います。利害得失も毀誉褒貶(きよほうへん)もない、自分のためも他人のためもない、本来の心の状態そのままの心です。だから誰かを愉気するといっても、病気を治そうとか、早く良くなろうとかいう考えを持ってはならないばかりか、きっと良くなるという信念でも邪魔なのです。」(p.201)
「また愉気ということを、痛みを止めたり、痒(かゆ)みを止めたり、熱を下げるために使おうと思うことも間違っているのです。その身体の正常さを維持するために行なわれるべきで、風邪を引いても、傷口から血が出ても、膿んでも、熱が出ても、それは病気ではない。熱が出たから病気だ、咳が出たから大変だと思い込むようなのは自分の心の使い方を知らないのですから、私はそういう心のことを病気というのです。」(p.201)
レイキは意図しないエネルギーであり、相手の自然治癒力を助けるものですが、野口整体の愉気も同じような感じがしました。
病気を治そうとしてもいけないというのは、すべてを受け入れることで自然の流れを妨げないようにすること。病気さえも悪いものではなく、早くスムーズに経過させてやれば良いということが、実に本質的だと思いました。
これまでの風邪や病気に対する考え方が、完全に変わってしまう本だと思います。50年も前に、このようなことを言われていた人がいることに驚きました。
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