黒澤一樹(くろさわ・いつき)さんの本を読みました。黒澤さんは、ブログネーム雲黒斎(うんこくさい)で知られていましたが、名前を変えられたようですね。Facebookが実名でなければいけないという規則にひかかって、アカウント名を本名にされたのは知っていましたが、著者名も本名にされたとは知りませんでした。
雲黒斎さんの本としては、これまでにも「降参のススメ」や「あの世に聞いた、この世の仕組み」などを紹介しています。続編の「もっとあの世に聞いた…」の中では、超訳般若心経が秀逸でしたね。
今回の本は、老子の「老子道徳経」を超訳したものになります。老子は私も注目していたのですが、いまいちわかりづらい面がありました。これを黒澤さんがどう訳されているのか、読む前からワクワクしていました。この本ではプロローグとして、老子が「老子道徳経」を書き残すエピソードが記されています。これは史実ではありませんが、なかなか興味深いです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「だから、「あるがままの現実」はひとつでも、「解釈の現実」は人の数だけ存在する。
ちょっと乱暴な言い方になってしまうけど、解釈で捉えた世界は、ある種、「個人的な決めつけ」や「思い込み」に過ぎないんだ。その思い込みに縛られるほど、人生は窮屈で深刻なものになってしまう。」(p.30)
たとえば花を見て、それを美しいと言うなら、それは解釈なのです。ありのままの現実は、花があるというだけ。いえ、花という名前さえもつけません。ただそんなものがあるだけなのです。ですから私たちは、主として解釈の現実を見ていることになります。
その現実の中で、「○○は□□だ」とか、「〜すべき」などと決めつけています。だから自分が窮屈になってしまいます。自分で自分の自由を束縛しているのですね。
「タオは、無限に広がるからっぽの空間。淵のように深い、万物の存在基盤だ。
「からっぽ」の空間だから、見ることも触れることも出来ないけど、その空間こそが「無限の愛」なのさ。
なぜ「からっぽ」が愛なのかって?
だって、「空間」は、ありとあらゆる存在をそのまま抱き続けてくれるじゃないか!」(p.36)
空間は、物の存在を拒否しません。悪い人はダメとか言わないのです。つまり無条件に受容してくれるから、まさに愛なのですね。
「「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離して捉えているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生命の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。
「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりを捉えているからこそ、「命の内に人がある」ことを知っている。」(p.39)
個別の命が存在するのではなく、1つの命が存在しているだけ。それが無数に分かれているように見えるだけなのです。昔から多くの人が悟ったこの気付きによって、「ひとつのもの」が本質だとわかるのですね。
「僕たちが普段「死」を恐れるのは、「自分(個別)の命」の消失をイメージするからだよね。
でもさ、「始まってもいないものが終わる」とか「現れていないものが消える」なんてことがあると思う?」(p.41)
人(個別)の命がどこから始まったかを考えてみると、このことがわかると言います。出産時点でないことはたしかですが、ではいつでしょう? 受精時でしょうか? でも、そのときすでに、卵子も精子も生きていたのであり、受精卵となっても同様に生きていたのです。そうなると私たちの個別の命は、始まりが見つからないことになってしまいます。
だから、始まってもいない何か(個別の命)が終わる(死ぬ)なんてことはあり得ないと言うのです。これまでと同様に、単に姿を変えるだけなのですね。
「タオを生きる人は、誰かを救おうだとか、改心させようだとか、成長させようなどといった、何かをコントロールしようとする作為がない。
「世はこうあるべき」というイデオロギーを押しつけることもなければ、「自分はこうでなくてはならない」というセルフイメージに縛られることもない。
世の「うつろい」そのものを受け入れ見守る、愛の中に生きる。
タオは、万物を生み出し繁殖させるが、それらが成長しても、決して我がものとはしない。万物の創造主でありながら、支配者を気取らない。」(p.49)
このように、意図的に何かをしようとするのではなく、あるがままに受け入れるのがタオを生きる人の奥深さであり、徳なのだと言います。
「「解釈の世界」では、一定の条件を満たしていなければ、相手や状況をそのまま受け入れられない。
ありのままの相手では受け入れられず、自分が受け入れられる状態に「変わって欲しい」と願うから、そこに、相手を自分好みにコントロールしようとする作為が生まれる。
また、相手に気に入られようとするがゆえに、ありのままの自分を認めず、相手の求める条件に沿う自分に矯正しようとしてしまう。
そうやって、「わたし」という自意識が強くなり、取引の世界に埋もれるほど、人は本当の愛から離れてしまうんだ。」(p.67)
本当の愛とは、無条件で受け入れること、ありのままを受け入れることです。それは相手に対してもそうですし、自分もまたそうなのです。
「「平和のために戦う」という行為ではなく、「そこに加わらない」という無為こそが、その平和をもたらすのだから、そこに「己の強さをひけらかす」なんてのはナンセンスだろう?」(p.90)
マザー・テレサさんが反戦運動には賛同せず、平和運動にのみ参加されたのも、こういうことですね。平和を求めるなら、まず心を平和で満たすべきなのです。
「人生は、「思い(願い)通り」に流れてくれるわけじゃない。
でも、人生を「思い(解釈)通り」に歩むことはできる。
どんな状況であっても、「満たされない」と解釈するのなら、人生は決して満たされない。
どんな状況であっても、「満たされている」と解釈するなら、人生は幸せなものになる。
ほら、人生における「幸不幸」は、その人の「解釈」の世界に浮かび上がっているのさ。」(p.94)
現実は、思い通りにならないことばかりです。けれども解釈の世界では、それを満たされないとも満たされるとも解釈できます。ですから、解釈次第で不幸にも幸せにもなれるのです。
「心から、
喧騒が消えると「静寂」になる。
曇りが消えると「明晰」になる。
強がりが消えると「素直」になる。
欠乏感が消えると「感謝」になる。
焦りが消えると「ゆとり」になる。
恐れが消えると「安堵」になる。
分離が消えると「ひとつ」になる。
こだわりが消えると「流れ(変化)になる。」(p.109)
タオの流れは、つねに元に戻ろうとするのだと言います。余分なものを削ぎ落として、元の姿に戻ろうとする。それは、そもそも神であった「ひとつのもの」が、あえて分離した世界を創り出しながら、少しずつ本来の自分を思いだすことで、神に戻ろうとするようなものです。
今ある状態に何かを付け加えて、何か別のものになるのではありません。そもそもそうだった、元々の自分に戻ろうとしているのです。
「タオを生きる人なら、お金を貸したとしても取り立てるようなマネはしない。
仮に割り符(信用証書)の半分を握っても、それで相手を責め立てない。
徳ある人は「信頼」し、徳なき人は「心配」する。」(p.161)
一度でも恨めば、それはしこりとなって残ると言います。だから、はじめから恨まないようにすることが重要なのですね。そのためには、心配せずに信頼すること。たとえ相手が思い通りに行動してくれないとしても、それも含めて受け入れることなのです。
若干まだわかりにくい部分もありますが、全体として「神との対話」と同様のことを言っているのだなとわかりました。こういうことが、すでに2500年も前から言われていたのですね。
この本は、特別な装丁になっています。写真のように、きれいに開く作りです。これはけっこう値の張る作りですが、老子ということを考えた時、この装丁が良いと思われたようです。
通常ならネットで注文するのですが、今回は事情があって出版社から直接購入しました。小さな出版社で、増刷のための資金が足りなかったのだそうです。それで黒澤さんも出版社に協力し、サインをするから出版社から直で買ってくれと訴えておられました。
もともとは、この本を買う予定はありませんでした。けれども、出版社の方の率直なお願いと、それに協力しようとする黒澤さんの思いに応えたくて、買うことにしたのです。読んでみてから思うのは、買ってよかったということですね。
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