小林正観さんの最新作を読みました。と言っても、すでに亡くなられていますので、これはかつての正観さんの言葉をまとめたものになります。前に出版された「ありがとうの神様」の続編となります。
この本も同様の形式で、1つの話を4ページにまとめてあります。それが全部で70あります。大きく9つのカテゴリに分けて、章立てしてあります。
このような形式ですから、1つ1つの話には密接なつながりがありません。章の中での関連性とか、本全体での共通項のようなものはありますけどね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「自分がわかままを言って、言いたい放題、望みたい放題やっていると、体中がチクチクと痛むらしい。このしくみは、神様からのプレゼントかもしれません。
チクチクきた瞬間に、「あっ、そうか。私は、自分のことばかり考えて、ほかの人に喜ばれる存在になっていなかったかもしれない」と気づくと、どうやら、痛みは軽くなるようです。」(p.135)
ちょうど今、私が背中痛を抱えていたので、この話が印象に残りました。全身リウマチのAさんに正観さんは、「人に何かやってあげたことはありますか?」と尋ねたのだそうです。Aさんは、体がこんな状態だから、ほとんど何もしてあげてない、と答えたそうです。
そこで、ある施設に通っていたリウマチの人の話をしたのだそうです。先生に診察してもらいに行くと、「おじいさんの包帯を巻き直して」とか「おばあさんをお風呂に連れて行って」など、用事を頼まれるのだそうです。
まったく診察はされずに用事ばかり頼まれる。そんなことが続いたある日、その方が先生にどういうつもりかと尋ねると、先生は「今、痛みはありますか?」と言われたそうです。その時、いつの間にか痛みが軽減していたことに気づかれたそうです。
身体の痛みは、自分に何かを教えてくれるメッセージだと思います。いつもよく働いている身体のことを考え、生かされていることに感謝して、他の人を喜ばせることに心を砕く。そういうチャンスを与えてくれているのかもしれません。
「人間は病気で死ぬこともないし、事故で死ぬこともないようです。人間が死ぬ理由はたったひとつ。「寿命」というものです。そして、自分の「寿命」は、生まれる前から決まっているようです。」(p.139)
霊氣(レイキ)の創設者、臼井甕男(うすい・みかお)氏は、霊氣はどんな病気にも効果があると言われています。ただし、たった1つを除いては、と。その1つとは、「寿命」だと言われました。私たちは、病気や事故が原因で人が死ぬと思い込んでいますが、実はそうではないのかもしれません。
もし、魂が生まれる環境を自分で選んで生まれてくるなら、その人生での課題をどうクリアするかというストーリーも決めていて当然です。そして、いつこの世を去るかも、自分で決めていることでしょう。そうだとすれば、すべては魂のストーリー通りなのです。
「人は、生まれる前から、「自分の寿命」を「自分が書いたシナリオ」で決めてきているらしいのです。」(p.138)
たまたま新しい治療法に出合って延命できたとしても、その「たまたまの出合い」そのものが、シナリオ通りなのだと言います。こういう話は証明できることではありません。ですが、生前記憶のある多くの子どもが、自分の意思で生まれてきたと言っています。そうであるなら、この話もまんざら嘘とは言い切れない、と思うのです。
「どんな子どもも、全員が「天才の芽」を持って生まれてきています。その芽を開かせる方法は、「子どものあらさがしをせず、賞賛すること」です。
「あなたが私の思い通りになったら愛してあげるけれど、思い通りにならないあなたは嫌い」と条件をつけるのだとしたら、それは「愛していない」といいます。
「あなたがあなただから、愛している」と言ってあげられること、「私の思い通りになっても、ならなくても、愛している」といえることが「愛している」ということです。」(p.156 - 157)
愛は無条件です。言うことを聞こうが聞くまいが関係なく、受け入れて好きでいることが愛です。相手を自由にさせ、相手が自由でいることを喜ぶのが愛です。子育ての極意は、単に「愛する」だけなのです。
「「空腹」という前半の現象がなければ、後半に「おいしい」と感じることもありません。「幸せ」という現象を「私」が感じるためには、その前半分の現象として、一般的に「つらく、悲しく、苦しい」といわれていることが、どうしても必要だったのです。
そのことがわかったら、起きている現象について、一つひとつ「よい、悪い」「幸、不幸」と、評価・論評しなくなるのではないでしょうか?」(p.293)
「低い」がなければ「高い」もない。「愛でない」ものがなければ「愛」もない。「神との対話」でも、そのように言っています。私たちは相対的な世界の中で、神の素晴らしさを体験的に知るために、ありとあらゆるものを体験しているのです。
ですから、出来事に一喜一憂する必要はないのです。どんな体験もまた、神の一部を体験しているのであり、その体験があるからこそ、その反対のことを体験できるのですから。
「「思いを強く持って、それを長く、強く念じていれば、そうなる」という法則は、どうやら、宇宙にはないようです。
人生の悩みのほとんどは、「自分の思い通りの人生を生きたい」という思いが発端になっています。だとすれば、悩みを克服する究極の方法は、「自分の思いを持たないこと」なのではないでしょうか。」(p.341)
このように正観さんは、意図的に「引き寄せの法則」を使えるものではないと言われます。世の中を自分の思い通りに変えようとする生き方そのものが、間違っていると言うのです。
このことは、私自身も同感です。正観さんの例にもあるように、どんなに野球をやりたいと願っても、それがかなわない少年もいます。どんなに健常者のように歩きたいと願っても、両足を切断した人にはできないのです。
もちろん、片腕で大リーガーになった人もいます。しかしだからと言って、強く願えば誰でも何でも願いが叶うわけではないでしょう。それが叶うのなら、死なない人が無数に出てきていいはずですから。
この世に生まれてきたのが魂の意図であるなら、顕在意識の「私」とは別の意図があるはずです。魂は、その青写真を忘れない、と「神との対話」でも言っています。つまり、魂の意図に反して何かをすることは不可能なのです。魂はあらゆる手を使って、意図に適った状況を与えるでしょうから。
ですから、ある意味で「あきらめ」が必要なのだと思います。「おまかせ」と言ってもいいかもしれません。正観さんはこれを、「自分の思いを持たないこと」と言われています。
前作も素晴らしい内容でしたが、今回もとても感動しました。1日1話を読む、という読み方もいいかもしれませんね。
全体としては、「はじめに」の部分で次のようにまとめてあります。
「「思いを持たず」、よき仲間からの「頼まれごと」を淡々とやって、どんな問題が起こっても、すべてに「ありがとう」と感謝する(受け入れる)こと。
「そ・わ・かの法則(掃除・笑い・感謝)」を生活の中で実践することであり、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言わないこと。
すると、神さまが味方をしてくれて、すべての問題も出来事も、幸せに感じて、「よき仲間に囲まれる」ことになり、「喜ばれる存在」になる。」(p.31)
これが正観さんの言う「人生の目的」であり、「幸せの本質」なのです。すべては魂の導きのままに上手く行っている。だから安心して委ねて、感謝しながら生きればいいのですね。
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