2016年10月27日
こころに残る現代史
また白駒妃登美(しらこま・ひとみ)さんの本を読みました。「人生に悩んだら「日本史」に聞こう」でも書いたように、白駒さんのことが気に入って4冊買ったうちの3冊目になります。
この本のサブタイトルには、「日本人の知らない日本がある」ということで、あまり知られていない人物や出来事にスポットを当てています。
すでに何度も書かれているエピソードもありますが、その中でも知らなかった出来事があることにびっくりです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。例によってすべてのエピソードを取り上げることはできないので、主だったものだけ取り上げます。
「是清は、浮き沈みの激しかった前半生を振り返って、「私は今日までにずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、食うに困るから助けてくださいと、人に頼みに行ったことは一度もない。いかなる場合でも、何か食うだけの仕事は必ずあるものである。その授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ」と述べています。
彼の人生哲学は、自身の境遇だけでなく、日本の「困った境遇」をも救うこととなったのです。」(p.37 - 38)
最初は、日露戦争前後の話です。近代化を進める日本の前に立ちはだかったのは、日本より何倍も強大なロシア帝国でした。日本海海戦での劇的な大勝利ばかりが注目されますが、実は総力戦であったことを白駒さんは書いています。
その中の、高橋是清氏が戦費を調達した部分に書かれていたのが、上記の文章です。成果ばかりが注目されますが、こういう生き方をしていたからこそ、その成果が生まれたのだと思います。
日露戦争で日本が勝利した背景には、日英同盟があったと言われます。イギリスはバルチック艦隊の動向を逐一日本へ伝えるとともに、寄港地では足止めをくらわせて、兵士の士気を低下させたのです。
では、どうして日英同盟ができたのか? どことも同盟を結ばない誇り高きイギリスが、なぜ東洋の小国である日本と対等の同盟を結んだのか? そこには、義和団の乱で居留者たちを指揮し、連合軍の到着まで籠城戦を行った柴五郎氏の働きがあったのです。
「義和団の乱のときの柴五郎にはリーダーとしての矜持があり、マクドナルド公使は、その五郎の姿に、上に立つ者のノブレス・オブリージュを見ました。
こうしたことが下敷きとなり、さらに両国の利害関係の一致があって、日英同盟締結という結果に結びついたのではないでしょうか。」(p.47 - 48)
この他にも、スパイとして活動した明石元二郎氏、民間人でありながらスパイ活動を行い、最後は軍人としての処刑方法である銃殺刑を求めた横川省三氏、バルチック艦隊の動向を報告しようと宮古島から170kmも離れた石垣島までボートを漕いだ久松五勇士の人々などを、白駒さんは取り上げています。
「日露戦争の勝利は日本国内だけではなく、世界中に大きな影響を与えました。
もし日本がこの戦いに敗れていたら、白色人種による世界支配が完了したと言われていて、それを水際で防いだことは、白人国家には大きな衝撃を、そしてその支配を受けてきた人々には希望と勇気を与えたのです。」(p.57)
物事にはプラスとマイナスの両面があると白駒さんは言います。日露戦争の勝利は、たしかに日本を救い、有色人種の希望となりました。しかし、そこで勝利したがために奢りが生じ、第2次世界大戦の敗北につながったとも言えます。私たちは歴史から何を学ぶべきなのか? 考えさせられる近代史です。
「松江所長には、口癖のように常に口にしている言葉がありました。
「たとえ今は俘虜となっていても、ドイツの兵隊さんたちも、お国のために戦ったのだ。彼らは決して囚人ではない」」(p.94)
第一次世界大戦のとき、日英同盟の関係から日本も参戦しました。青島(チンタオ)のドイツ拠点が陥落したとき、1000人もの捕虜を収容するのに、徳島県の鳴門市に坂東俘虜収容所を新設しました。その松江所長は、ドイツ兵を丁重に扱ったのです。
ドイツ兵たちは町の人々とも交流し、日本で最初のベートーベン「第九」の演奏が行われました。勝ったから負けたからではなく、人を人として尊重する心意気。それが日本人なのです。
白駒さんはこれを、「矜持」という言葉で表現されています。自負とかプライドという意味ですが、それだけではないと感じます。人間としての誇りのような、崇高なものがあると思うのです。
関東大震災のとき、日本の12分の1の面積しかない小国ベルギーは、アメリカ、イギリスに次ぐ3番目の金額を支援してくれました。どうしてベルギーが、そこまでしてくれたのでしょう?
第一次世界大戦のとき、フランスに進軍するドイツ軍によって、ベルギーは蹂躙されます。そのとき、迅速支援活動を行ったのが日本だったのです。
日本がベルギーに好意的だったのは、その前にベルギーが日本を救ってくれたからです。日清戦争が起こったとき、諸外国はこぞって「日本軍は旅順で多くの一般市民を虐殺した」という嘘の報道を行い、日本を非難するムードを掻き立てました。そのときベルギーが、それが誤報であることを訴え、日本の誠実さを示してくれたのです。
このように、互いに助け助けられながら、絆を強くしていったのですね。ベルギーとの関係がそういうものだと、これを読むまで知りませんでした。こういうことを教えない日本の歴史教育は、いったい何なのだろうと思います。
中央アジアのウズベキスタンとも、日本は深い関係にあります。1999年に在ウズベキスタン特命全権大使として赴任した中山恭子さんは、祖国に帰れずにこの地で亡くなった元日本兵の墓地整備のために、寄付で集めた2千万円を使ってほしいと申し出ました。ところがカリモフ大統領はこれを拒否。そしてこう言いました。
「「亡くなられた日本人に私たちは心から感謝しています。このお金は受け取れません。ウズベキスタンで亡くなった方々のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行います。これまで十分な整備ができていなかったことは大変恥ずかしい」、と。」(p.128)
なぜ、ウズベキスタンの人々がそう思うのでしょうか? それは、捕虜として強制労働させられた日本兵たちの、真摯な働きにありました。劣悪な環境であっても文句を言わず、献身的に働いて、みごとなナヴォイ劇場を完成させたのです。
この劇場は、20年後の大地震でも倒壊することがありませんでした。他にも日本兵たちが造った水力発電所などの建物は、倒壊せずに残りました。ウズベキスタンの人々は、日本の技術の高さに感嘆するとともに、強制労働させられたにも関わらず一切手を抜かない日本人の真心に感謝したのだそうです。
「ウズベキスタンの母親たちは、愛する我が子にこんな言葉を贈るそうです。
「日本人は戦いに敗れても、決して誇りを失うことなく、真面目に働いて立派な仕事をしたのよ。あなたたちも日本人のように生きなさい」」(p.129)
他にもエルトゥールル号遭難事件の話や、台湾の八田ダムの話などもありますが、他で語られていないエピソードも含まれています。
日本人は、自分が損するとか得するとかではなく、日本人としての誇りを持って生きてきました。その生き様が人々を感動させ、日本人のように生きたいと言わしめているのだと思います。
最後に白駒さんは、こういうことを言われています。
「私たちは、今、歴史の重大な岐路に立たされていると思います。「あの震災のせいで……」と言い続けるのか、「あの震災のおかげで……」といえる未来を築いていけるのか。」(p.189)
それが、今の私たちに問われていることなのだと思います。そして、私たちの生き様が、後世の日本人への評価となって行くのです。
そして白駒さんは、特攻隊として飛び立つまえに両親に送った手紙を紹介しています。その最後の歌を引用します。
「身はたとえ 南の空で果つるとも
とどめおかまし 神鷲の道」(p.190)
私たちは、「矜持」を持って生きるのでしょうか? 日本の名もない先人たちが懸命に生きて、私たちに今の日本を残してくれました。私たちは子孫に、どんな日本を残すのでしょう? それが問われているように感じました。
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