友人が紹介していた本を読みました。著者は宮原洋一さん。フリーの写真家です。
この本は、20年余り東京の祖師谷公園を中心とした青空保育園を運営している「あおぞらえん」の取り組みを、宮原さんが取材して書かれたものです。
園舎を持たない街が園舎という変わった保育園。しかし、そこで育った子どもたちはたくましく、「生きる力」を持った子どもたちだと言います。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「現代の日本では、幼児期からさまざまな「教育」が花盛りとなっているが、果たしてそれが本当に子どもたちの「生きる力」に結びついていくものなのかどうかは大変疑わしい。なぜなら、それらの多くが大人たちのつくったプログラムに従って子どもが活動させられているからである。まちがいなく言えることは、そこでは子ども自らが活動を生みだしていく主人公になっていないということである。
一方「遊び」を主体とした保育では、子どもたち自らがその活動にポジティブにかかわることになり、五感が生きいきと働くことによって身体だけでなく大脳までもが活性化する。それゆえ、「遊び」で感得したことは確実に生きる力として蓄積されていくのだ。」(p.7 - 8)
日本の教育は特に、型にはめるものになっています。大人に従わせるもので、子どもたちに自主的に何かをさせていません。多少そういうものがあっても、大人が決めた範囲内のわずかな自主性であることが多いと思います。
しかし、生きるとは自分で考えて決めることです。ですから日本の教育では、本当の意味での生きる力が育たないのだと思います。宮原さんは、遊びを主体とすることで自主性が育ち、生きる力が育まれると言います。
「本来、子どもたちにとって必要なのは、遊びをつくりだすことができる環境と材料である。既製の遊具での遊びには「飽き」があるが、自らがつくりだす「遊具」での遊びは常に新鮮だ。そこには、子どもなりのこだわりがあり、飽きればいくらでもつくり直すことができるからだ。」(p.21)
「あおぞらえん」の子どもたちは、縄跳びの長縄を木にかけてターザンごっこをしたり、ブランコをしたりするそうです。想像力を働かせて自ら遊具を作る。こういう活動によって、子どもたちはたくましく育つのですね。
「「年少」の健斗(けんと)が崖の途中で助けを求めているが、えみさんも因(もと)さんも一切無視している。一人ひとりの子どもを大切にするということは、ときには「突き放す」ことでもあるようだ。そして、自分で動きだすまでゆっくりと「待つ」らしい。」(p.27)
「あおぞらえん」では、崖登りという遊びもあります。「年長」や「年中」なら登れる崖も、「年少」にはかなり難しい。登れる子は、登れない子に指導したりもします。
大人の指導者は、差し迫った危険がない限り、子どもの自由にさせます。それは放っておくことです。そうすると子どもたちは、自分で考えて決めるしかなくなります。こうして自主性が育ちます。
「こんな発見があるのも、普段からいろいろとあたりにあるものを見ながら歩くということが習慣化しているからだ。列をつくって脇目もふらずにひたすら頂上をめざすという登り方では、仮に見つけられたとしてもそのまま通りすぎることになってしまう。それでは、事物に直接触れて学ぶという絶好の機会が失われてしまう。「あおぞらえん」の遠足ではできるかぎり自由なペースで歩くことにしているので、何かを発見したら安心してたっぷりと付き合うことができる。」(p.45)
これは、ケーブルカーを使わずに高尾山に登るというイベントでの出来事です。花やミミズなど、子どもたちは何にでも興味を持ちます。その興味を大事にして、時間通りにするとか他人に合わせるなどということは、脇に置いておくのです。
「一週間にわたる合宿だから、当然、子ども同士で葛藤が生じる。「それを克服していくことに合宿の意義がある」と、二人の保育者は口をそろえて言う。たしかに、四日目ごろから子どもたちの地と地がぶつかりあい、我慢ができなくなる。ときに、取っ組み合いのケンカにもなるが、そのあとはひと皮むけたような関係になる。」(p.73)
八ヶ岳で1週間の合宿をするのも、「あおぞらえん」の恒例のことだそうです。幼稚園児が1週間も親元を離れるということは、普通ではなかなか考えられません。けれども、そういうことも子どもが大きく成長するきっかけになるのですね。
そして、問題を起こさないことよりも、問題を起こした後の解決する力を養わせることが重要なのです。だから、滅多なことでケンカを止めたり、一方的に裁いて謝らせたりはしないようです。
「子どもの遊びの世界にはこうした理不尽なことがあり、その中で悔しさに耐えたり、闘ったりすることを身につけていく。
(中略)
こうした一見混沌とした遊びの世界で、子どもたちは理不尽なことにも耐え、それを乗り越え、時間はかかるがお互いを認めあって成長していくのだ。」(p.166 - 167)
縄跳びの長縄を最初に取った2人が、後から取ろうとした5人に奪われようとしている。そんな時でも、指導者は止めたりしないのです。
「「あおぞらえん」の子どもたちは、散歩に来るお年寄り、ランニングに来る大学生、車椅子に乗ってくる障害者、養護施設の人たちと、毎日公園に来るさまざまな人と出会っている。さらに、街へ出かけたときにもさまざまな出会いがある。いろいろな年齢層の大人たちとの出会いは、幼児のころから日々の暮らしのなかにあるのが一番いい。」(p.184)
限られた大人としか接触せず、子どもたちの中だけで育つ環境では、大人との付き合い方を学ぶことができません。幼児のころからこうして一般の大人と出会って学ぶことも、生きる力となるでしょう。
「このゆったりとした時の流れは「あおぞらえん」の日々に満ちており、「早くして」という言葉が無縁の、毎日の「儀式」である。」(p.191)
「お休み調べ」という儀式があるそうです。いわゆる出欠確認なのですが、朝、みんなが集まった時にするのではなく、遊びが一段落してからするのが特徴です。これは、その日の遊びの出鼻をくじかないためです。
そして、参加者のフルネームを読み上げるのですが、それを子どもにさせることもあるそうです。もちろん時間がかかってしまいますが、それを急かしたりしないのです。
あくまでも子どものペースに合わせるので、食事の時間も1時間以上もずれてしまうことがあります。また、遠足に行けば、帰着時間も遅くなることがあります。それでも、子どものペースを優先するのです。
こういう保育が20年以上も続いていることが驚きです。しかし、まだまだこういう保育は広まっていません。また、2人の指導員の後継者も育っていないようです。
この本を読んでみると、私もこういう保育が広まってほしいなあと思いました。そのためには指導員の育成と、親の理解が必要なのでしょうね。この本で、こういう保育の素晴らしさを理解する人が増えることを願います。
【本の紹介の最新記事】