前に読んだ「魂の法則」の続編を読んでみました。著者はヴィセント・ギリェム氏、翻訳は小坂真理さんです。
ギリェム氏は、幽体離脱によって守護霊(?)のイザヤ氏と出会い、彼から多くのことを学びます。その内容が、対話形式で書かれています。
どうしてそんなによく覚えているのか不思議でしたが、この本の最初にその謎解きが書かれていました。幽体離脱しながら自分の口で語り、それを録音しているようですね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「どんな場合においても、他者を悦ばせるだけのために、したくもないことを義務としてするのはよくない。自分の意志や自由を放棄しても自己成長できないし、相手の成長を助けることにもならないので、無駄に苦しむだけだ。相手のエゴを満たしてやっているだけになる。」(p.30)
自己犠牲は愛ではないのです。自分がやりたくないことをやって喜ばせても、相手に感謝されなければ恨みが残りますから。
「すべての霊的な存在は幸せになる資格があるが、そのことによって他の人の権利が減ってしまってはならない。そのため、他者のために自分の幸せを諦めることも、自分が恩恵を得るために他の人に犠牲になってほしいと求めることも、どちらも公正ではない。幸せになる権利を損ねてしまうものは、愛とは言えずにエゴなのだ。」(p.30 - 31)
相手に何かを強いることも、自分に何かを強いることも、どちらも愛ではないのです。
「友情があるなら、カップルの関係の継続を強いることなく、その友情を続けていけばよい。この現実を認めずに、自分の気持ちに釣り合わない関係を維持しようと無理すると、相手に対しての拒絶感が生まれてしまう。」(p.66)
カップルになるのは、相似の魂(類魂)という特別な存在との関係であり、それ以外ではカップルの愛の感情は生じないと言います。それなのに無理をしてカップルでいようとするから、おかしくなってしまうのだと。
「いや、二人のうちのどちらか一方が関係を続けたくなければ、解消するには充分だ。パートナーがその決断に合意しているかどうかは関係ない。個人の自由意志の侵害となってしまうので、伴侶といえども、関係の継続を強いることはできないのだ。」(p.67)
「虐待されていなければ関係を切る筋合いはないという意見の人たちは、宗教的な伝統教育を受けていることが多い。そういう教育では、相手の暴力が唯一の離婚の口実として認められるので、双方に夫婦の愛情があるかないかにかかわらず、その関係を一生涯続けるべきだと感じさせられてしまう。しかしながら、それは違う。別れるには、カップルの二人が愛し合っていないだけで十分である。」(p.71)
「多くの宗教は離婚に反対だが、当人の意志に反して関係の継続を強いることは「魂の法則」の中の、「自由意志の法則」に違反することになるのだと言っておこう。」(p.71)
カップルの関係は、双方の合意によってもたらされます。ですから、どちらか一方でも解消したいと思うなら、解消されるべきなのです。法律などをたてに相手に関係の継続を迫ることは、愛ではなくエゴなのです。
「認めがたいかもしれないが、お互いの愛情に基づかない夫婦は、実際には夫婦として存在していないのだ。一生にわたり、署名入りの契約書を維持することができ、世間には仲の良いイメージを作れたとしても、それは表面上の結束に過ぎない。うわべだけの世間体は取り繕えたとしても、それぞれが心の中では実情を知っているので、自分自身の人生の虜にされた気がして、苦々しさ、空虚感、悲しみを噛みしめ、不幸であることだろう。さらに、それを誰にも知られまいとすると、独りで苦しむこととなり、余計に耐え難いものとなる。」(p.73)
パートナーに対して愛情を感じているかどうかは、自分自身がよくわかっています。他人をごまかすことはできても、自分をごまかすことはできないのです。
「「子どものために我慢する」という言い訳は、個人的な幸せよりも家族の結束が優先される伝統的な宗教教育を授かった人たちの間によく見られるものだ。
むしろその関係を長く続けると、反対に、子どもを苦しませてしまうことになる。愛し合っていない二人が一緒に住もうと無理をすると、周りまで感応して不幸せになるので、子どもの情緒には否定的な状況となる。子どもたちは多くの場合、両親の喧嘩や口論に居合わせて、親の不快感や苦悩を感じ取る。そして、これこそが子どもたちに感情的トラウマをもたらすのである。「あなたがいなければ離婚していた」と言う親もいるので、両親が不幸せなのは自分のせいだと感じながら成長する子どももいる。こういうケースでは、親は自分の意気地のなさを子どものせいにしているのだ。」(p.76)
自分のせいで親が離婚できないと感じる子どもは、とても辛いでしょうね。
「今の若者は、特に西洋諸国において、それほど抑圧的な教育を受けていないので、より自由である。特にもっと性的な自由を謳歌していて、ある人と性関係を持っても、その人と生涯共にすることを義務づけられるわけでない、と知っている。このこと自体はいいことだ。」(p.86)
日本でも随分と自由になってきましたが、結婚相手は処女であるべきだとか、婚前交渉はとんでもないなど、以前はいろいろとうるさく言う人もいました。
「別の人に恋愛感情を抱きながらその気持ちを断念し、それが正しく善いことで天の掟と合致すると自分に言い聞かせるか、あるいは人から言いくるめられて、生涯にわたって愛のない結婚生活を送る人もいる。そういう人は、司祭が結婚式の日に厳かに言った「神が結び合わせたものを引き離してはならない」という誓いを守るために自己を犠牲にしたので、極めて不幸であるのだが、他人からは申し分のない道徳心とふんだんな徳を持った聖人のように見なされる。
しかしながら霊的な視点では、愛の感情に対しての忠誠心しか霊的な価値がないので、違った見方をされる。そういった人たちは、彼らの社会規範や習慣上は、非の打ちどころのないイメージであるが、自己の感情に対して不実であるため、霊的進化においては停滞してしまっている。そのため、霊界に戻れば無意味な自己犠牲を払ったことに気づくだろうし、その次の転生では、今生では勇気がなくてできなかったこと、つまり感情のために闘うべく、戻る必要があるのだ。」(p.91)
自分を抑えることが美徳だと信じていても、本当の自分を否定すると苦しくなっていきます。そしてその苦しさこそが、愛からかけ離れていることを知らせているのです。
「しかし、全世界を敵に回そうとも、闘う価値はあると言っておこう。愛の感情のために奮闘することは、霊的進化と幸福の基盤となるので、それに勝る動機は存在しないのである。愛のために闘うことを決意した者は、愛する類魂に再会する時に、至福という一番大きな報酬を得て、思う存分、愛を感じ味わうことができるのだ。人間の利己的な足かせのせいで、その試みにおいて肉体の命を失ってしまったとしても、またそのために物質界で成就できなかったとしても、今生で蒔いた種は霊界で褒美として刈り取ることができると確信すべきである。」(p.94 - 95)
愛のために闘うことは、全世界を敵に回してでもやる価値があると言います。生きて添い遂げられないとしても、その意志を守ることが重要なのだと。
「魂はこの道程において、無数の恋愛関係を経験し、すべて−−本能、愛情、エゴ的感情−−を味わって、体験の幸・不幸の度合いに応じて、少しずつ自分の感受性と愛する能力を磨き上げていく。こうして、エゴ的感情を排除していき、愛の感情を育んでいく。回を追うごとに、自分の感情がより明確になり、気持ちに従って生きる場合に、自信を持つことができるようになる。また、他者の感情における自由に対しても、だんだんと尊重できるようになる。」(p.97)
経験によって愛の感性が磨かれていくのですね。そういう意味では、経験を積むことは悪いことではないと思います。
「犠牲者意識は、相手からの憐憫(れんびん)の情を引き出しながら、その関心を自分に向けようとする人に特有のエゴ的感情で、同情してもらうことによって、相手を思い通りにしたり、利用しようとしている。犠牲者意識は、相手の自由意志にはお構いなくその気を引こうと強いるので、一般的に独占的であり、独占欲との関係が深い。自己成長しようと努力せず、他者に自分の試練や責任を果たしてもらおうとするので、臆病者でもある。」(p.101)
自分は犠牲者だと訴える人は、エゴから脱却できていないのです。
「愛のない関係は、愛が欠如しているという時点で、すでに壊れているのだ。ただそれを認めて、それに従って行動すればよい。前にも話したろう。伴侶を愛していないのであれば、正直になって、それを伝える勇気を持つことだ。そうしてから、正式にカップルの関係を終了させることだ。これは、他の人を愛しているか否かとは別問題だ。」(p.111 - 112)
「罪悪感を持ってしまうのは、君たちがカップルの愛を所有的または執着的なものだと誤解しているからで、所有権つきの結婚、婚姻の不解消など、同じように誤った道義上のルールを作り上げてしまったからだ。
罪悪感に打ち克つためには、愛の感情は自由で自発的なものなので、強要できないしすべきでもないということと、どんな慣習でも縛りつけておけないということを理解する必要がある。」(p.112)
愛がないと感じたなら、その感情に正直になって、関係を解消すべきだと言います。そこに罪悪感を感じてしまうのは、カップルの愛を誤解しているからだと。
「子どもたちが自由でいられるようにしてあげなさい。思い思いの気持ちを表現でき、好きに遊べて、遊びながら学べるように。
愛されて育てられる世代の子どもたちがいれば、君たちの世界は急速に変化するだろう。愛には世の中を変える力があるのだ。君たちには世界を変えられなくても、愛を知ることができた次の世代が変えてくれるだろう。」(p.121)
子どもに何かを強制する必要はなく、ただ自由にさせてあげる。そうすれば、愛を受けて育った子どもたちが、この世を変革してくれるのです。
「条件付きで、子どもを愛してはならない。自分の子どもを自慢するだけに利用する人は、子どもを愛してはいないのだ。その子が他の子とくらべて何らかの能力に秀でていると、頭がいいと鼻を高くするくせに、能力がなければ過小評価するので、子どもの自尊心に甚大な影響を及ぼしてしまう。
自分の子どもを本当に愛する者は、顔が可愛かろうとなかろうと、頭が良かろうが悪かろうが、積極的であろうがなかろうが、その子をあるがままに愛するものである。」(p.122 - 123)
子どもを愛するのに、条件をつけてはいけません。愛は無条件ですから、条件をつけたら愛ではありません。
「大人をたたくことが犯罪行為となり許し難いのであれば、ずっと力が弱く身を守ることができない子どもをたたくことが、どうして許容されるのだろうか?
自分自身に望まないことは、他者にしてはならない。子どもという、もっとか弱く無防備の者が相手であれば、なおさらである。」(p.123)
そして、体罰などはもっての外です。自分が上司から叩かれるのが嫌なら、子どもにそういうことをしてはいけないのです。考えてみれば、すぐにわかることだと思います。
「宗教とは人間が創った階層構造を持つ組織で、一連の教義上の信念の周りにしがみついている。これらの信念は、的を射ていようがいまいと議論が認められず、権威者の見解次第である。つまり、その階層構造で一番権威を持つ者に、皆が信じるにふさわしい真の信仰を決める権力があるのだ。」(p.141)
宗教の問題は、誰かの信念(価値観)を信者に押し付けることにあります。個人の自由が認められないのであれば、それは愛とは呼べないでしょう。
「転生することになる魂の誕生が二週間早まるか遅れるかによって、その人が違う人生を送ったり、異なった性格になるなどということが、どうして信じられるのかね? 魂の人格や成長というものは、無数の転生を経て獲得した霊的な学びの結果である、と何度も言わなかったかね? 人生で出会う試練は、生まれる前に自ら選んで準備をしたもので、それを乗り越えるかは個人の意思次第だと言っているのに、どうして誕生の日付によって、その人の人生の出来事が決まってしまうと思えるのだろうか?
もう一度、はっきりさせよう。未来は白紙だ。人の未来が誕生日で決定されているのなら、どこに自由意志の余地があるのだ? 二次的なことばかりに注意を向けていると、本当に大切なことを見逃してしまう。」(p.186 - 187)
誕生日ですべてが決まるということはない、と言います。したがって、そういう占いのたぐいも、あまり意味はないのです。
本質的にはそうなのだと思います。ただ、生まれる時や場所、人生で起こることを自分が選んでいるのだとしたら、それにふさわしい日付に生まれるということがあっても、おかしくないようにも思いますけどね。日付を選ばない、と明らかに言えるだけの根拠は示されていないようにも思います。
「人が直面する状況はすべて、それが遺伝性の病気であろうと、半身不随であろうと、どれも、その魂を成長させる意味があるのだ。それらは、魂が生まれる前に選んだ試練なのだよ。」(p.217)
こう言って、自殺はもちろんのこと、安楽死でさえ否定します。痛みの緩和は良いが、命を途絶えさせることは良くないと言うのです。
前の「魂の法則」でも感じたのですが、イザヤ氏は「良い」「悪い」をはっきりと言います。私は、このことに違和感を覚えます。なぜなら、それもまた価値観の押しつけだからです。
もちろん、愛に立ち返るという目的ならば、ということだろうとは思います。しかし、それでも自分の経験に従うべきだとして、「良い」「悪い」をはっきりとさせない「神との対話」の方が、より正確なような気もします。
最期の安楽死の問題でも、「神との対話」では、安楽死を悪いことだとは言いません。喫煙など緩慢な自殺はOKで、苦しむだけの人が安楽死を選ぼうとすると法律違反だとするのは、おかしくないかと問いかけます。
世の中には、これが絶対的に正解などというものはなく、どっちを選んでも良い面も悪い面もあるように見えることがほとんどです。そうだからこそ、私たちはありとあらゆることを体験できます。ですから、イザヤ氏のように決めつけると、かえって萎縮させてしまうように感じました。
引用はしませんが、売春の問題もそうです。十戒に売春してはならないとある、と言うのですが、一方で強制されることが悪いとも言います。そして、私たちの世界では、強制的に売春を排除することはできないだろうと。私たちの感性が成長したあかつきには、自然と売春はなくなると言います。
だとしたら、最初に売春は悪いと言い切る必要性があるのでしょうか? 「神との対話」では、売春は悪いことではなく、残念なことだと言います。せっかくの愛を感じる機会を逃してしまうのだからと。
また、戦争の問題もそうです。イザヤ氏は、絶対に戦争はいけないと言います。そこでは、仮に殺されたとしても、兵役を拒否すべきであるかのように書かれています。しかし一方で、防衛する権利はあるし、自分の自由を守るためにも防衛すべきだと言います。ただ、相手のレベルまで身を落とす必要がないのだと。
では、防衛のために兵役を拒否すべきなのでしょうか? それとも喜んで応じるべきなのでしょうか? また、どこまでが正当な防衛で、どこからが過剰なのでしょうか? このことには、彼は何も答えていません。
また、防衛権はあるが、それは平和的な解決策が尽きてからだとも言います。では誰が、平和的な解決策が尽きたと判断するのでしょう? そしてガンジーを例に、暴力に訴えなくても大きなことができると言います。でもその運動によって、多くの人が殺されたことはどうなのでしょう? 武力で防衛することと、非暴力不服従で殺されることと、どっちが良いのでしょう?
これが絶対的に正解だと言えば、必ず矛盾が出てきます。この世には矛盾があるのであって、だからこそ人によって様々な価値観を持ち得るのです。
たしかにイザヤ氏が言うことに一理あるとも思いますが、それが必ずしも現状の最善の答えではないようにも感じました。結局、自分の自由意志で考え、決定することだと思います。そのとき、他にもっと良い答えがあるかもしれない、という気持ちを持っていることが、重要なように思います。
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