何かを見て、ふと気になったので買ってみました。フリーライターの秋山千佳(あきやま・ちか)さんの本です。
「戸籍がない」とはどういうことなのか? 正直、私にはあまり実感がわきませんでした。
しかし、読み進めるにつれて、ここには複雑な問題が絡んでいるなあという気がしてきました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「だが一方で、この国には毎年少なくとも500人以上の戸籍のない子どもが生まれている。司法統計などから数千人単位でいると予測する学者もいるし、国の統計では補足できない無戸籍の人も含めると、実数は計りしれない。」(p.2)
「無戸籍の人が生じるのは、本当に親だけの責任なのだろうか? それに、仮に親の責任だとしても、実際に戸籍がなくて困るのは子どものほうだ。それなのに無戸籍の人たちを突き放すだけでいいのだろうか?」(p.3)
冒頭でこのように言って、少なからず無戸籍で困っている人が存在することを示しています。それを「出生届を出さない親の責任だ」と責めるだけでは、本質的な問題解決にはならないのですね。
では、どうして生まれた子どもの出生届を出さない親がいるのでしょうか? その一例として、DVの問題があると指摘します。
「夫のDVやストーカー行為から命からがら逃げ出し、長らく離婚が難航している女性が、新しいパートナーを得て人生の再出発をはかり、子を身ごもったとする。生まれた子どもの出生届を出そうとすると、法律によって自動的に「夫の子」とされ、夫の戸籍に入ってしまう。そうすると、夫が戸籍謄本を取れば居場所や出産したことを知られてしまうため、報復を恐れ、出生届を出せない。」(p.3)
民法772条の規定により、離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子となります。つまり、婚姻中に身ごもった子は、どういう事情があるにせよ夫の子となるのです。夫が拒否しない限り。
戸籍がないとどういう問題が起こるか? 今は、戸籍がなくても住民票を作れるようになりました。それがあれば、運転免許も取れます。
しかし、戸籍がなければ結婚(法律婚)ができません。パスポートが作れません。また、正社員として就職することも難しいでしょう。
いわば、国から「国民」として認められていないような存在なのです。国籍はあるのに。
そもそも戸籍とは何なのか? これが非常に複雑怪奇で、役人や弁護士などでさえ、よくわからない仕組みになっていると言います。
一言で言えば、昔の「家制度」の名残です。戸主が戸籍筆頭者と名を変えたものの、要は代表者である主(あるじ)が、家族を束ねているという形式を表すもの。
家制度そのものは廃止されましたが、戸籍だけは残ったのです。そして、主(あるじ)に権限を与える名残が、民法の規定にも残りました。つまり、主が認めることによって、子どもがその父の子とされる。それが子どもにとっての幸せだという理論です。
戦後、アメリカは個人別の登録にするよう示唆したそうですが、日本が受け入れなかったとのこと。それまでの慣習を変えたくなかったのでしょうね。
戸籍がないことは、一般の人にはなかなか理解し難いことです。特に普段使うものでもなし、なくてもいいのでは? くらいなものです。けれども、当人にとって見れば、大きな疎外感を感じるようです。
「どうせ言っても無駄だから伝えない、というのは、相手がどうこうというより、ゆきなさん自身がこれ以上傷つきたくなくて自分に言い聞かせていることなのかなという気もした。恋人に対してだけはない。彼女の心の壁は、戸籍がないまま歩んだこの31年間で、どんどん高くなっているように思えた。」(p.102)
DV夫が怖くて出生届が出せない。裁判をすれば、夫に知られてしまう。今の制度では、この問題に対する解決策がありません。
唯一の解決策が、夫の死だと言います。夫が死んでしまえば、安心して裁判を起こせます。国民の権利でもあり、子どもの人権にも関わる出生届を出すのに、ここまで苦労する必要性があるのでしょうか?
他にも、何らかの事情で出生届を出していなかった人が、あとになって気づいた時、処罰されることを恐れて出生届を出さないでいる、という例もありました。
これなどは無知によるものですが、家族だけに出生届を出す義務を課すこと自体が、現代の家族観と合っていないように思います。
「戸籍をめぐる現行の法なり実務なりが前提とする家族の形やあり方は、昔とは大きく変わったわけですよね。それなのにそのまま戸籍制度を維持し、旧来の親子関係を定める民法を維持しようとするから、このような問題が起こるわけです」(p.177)
この問題に詳しい棚村教授は、このように言っています。法とは、そもそも国民の幸せのために存在するもののはずです。しかし、その法によって不幸にされてしまう。そういう現実があるのです。
この問題の根本的な解決のためには、法制度を抜本的に変える必要があります。そこまでやらなくても、少なくとも現在困っている人を救済するために、例外措置を定める法改正という方法もあります。いずれにせよ、政治家が動かなければ、この状況は変わらないのです。
しかし、政治家の中の一部には、強硬な保守派が存在し、その政治家の声が大きいために、他の政治家も「無理に変えなくてもいいんじゃないか」という気分になっているようです。
「例えば選択的夫婦別姓制度も、反対派は導入すると家族が壊れるとか弱体化するとか言うんだけれど、いまだって離婚は多いわけだし、児童や高齢者への虐待だって、同じ氏を名乗っても問題が起こっているのは変わらないですよね。戸籍制度もそうです。お隣の韓国が2008年に改めたけれど、家族が壊れたり個人主義が横行したりするわけではないんです」(p.190)
私も、棚村教授の意見に賛同します。夫婦別姓は世界的には普通の制度です。しかも、別姓を強要するのではなく、選択できるようにするだけのことでさえ、強硬に反対する人が多いのには驚きます。
こういう問題で政治家を動かすには、世論の後押しが必要です。しかし、その世論がマイノリティーに対して冷たいのが、日本の特徴のように感じます。
「その点、日本は経済優先で、標準と違う人たちに対して、全然優しくないですよね。ついてこられないお前たちが悪いんだと、問題を抱えている人たちを切り捨てていく。家族の問題も置き去りにしてね。その結果、どんどん格差は広がり、家族も無縁化して孤立していく」(p.191)
経済優先が原因かどうかはわかりませんが、日本の社会は均一化、同一化を異常に求める社会だと感じます。ちょっとでも「違う」ということを許さない冷たい社会です。標準であること、他人と同じであること、常識的であることが何よりも求められます。
なぜ、保守的な人は、現に無戸籍で困っている人を救うことすらしないのでしょう? それは、PTの特例案に反対した西川京子元衆院議員が、自民党内の会議で「アリの一穴」と表現したことに表れています。つまり、少しでも譲歩すれば、自分たちが大事にしている家族観が崩壊するという怖れです。
「つまり、夫婦別姓も無戸籍問題も、戸籍制度崩壊につながる可能性を不安視する人たちが一緒くたに反発しているというのだ。」(p.231 - 232)
秋山さんは、この本の最後を次の文で締めくくっています。
「法律を変える責任は政治家にあるが、その政治家の意識をかえられるかどうかは私たち一人一人にかかっている。」(p.230)
私自身、無戸籍の問題については、よくわかっていませんでした。しかし、この本を読むと、当人にとっては深刻な問題であることがわかります。
わずかな人であっても、そこに困っている人がいる。そういう人たちに関心を寄せ、助けようとする。それは愛ではないでしょうか?
もし愛があるというなら、無関心ではいられないはずです。自分や家族が困っていなければ、それでいいのでしょうか? それで愛だと言えるでしょうか?
困っている人のために、現実に合うようにルールを変える。それくらいのことは、さっさと行う優しい社会になってほしいものだと思います。
【本の紹介の最新記事】
戸籍制度のデメリットを家庭内暴力から逃げるために無国籍になった不作為の行為により子供が受けた不利益を同列に扱う愚は避けるべきだと思います。
夫婦別姓は日本の文化基盤を揺るがし、左翼並びに在日に利することを考えられたのでしょうか。
朝鮮は合法的に併合したのであって、欧米列強のように植民地経営とは一線を画していますし、夫婦別姓によって利する者がいるからこそ、日弁連と左翼が声高々に言っていること。
DVの人の場合どうすればいいのか、親としてまず行動することがないか、じいさん婆さんの養子縁組みなどの方法により子供の無国籍は避けられないのか。
そんな視点が欠けているのではと思いました。
ご意見をいただき、ありがとうございます。
私の考えに賛同していただく必要もなく、また、他の方がそれぞれの考えを持つことに何の問題もないと、私は思っています。
したがって、兵庫の田舎者さんがそう思われる分には、そう思われれば良いのではないでしょうか。
ただ、「夫婦別姓は日本の文化基盤を揺るがし」というのは、根拠がないと思っています。なぜなら、日本は伝統的に夫婦別姓だったからです。(庶民だけで言えば、姓がないのが伝統です。)夫婦同姓の家長制度(戸籍制度)は、明治になってから始まったものですよ。2千5百年の歴史を持つ日本において、わずか百年ほど前から始まった制度が伝統的だとは、私には思えませんね。
そして、夫婦別姓が選択できるのは世界では当たり前のことです。したがって、そうすることで何か問題があるとは考えられません。
実際、私たち夫婦は別姓です。そして何の問題も起こっておりません。
このように、国際結婚した日本国民の少なからぬ人が夫婦別姓であるというのが現実です。それにも関わらず、いまだに別姓を選択することさえ容認できないという狭量さこそ、私は問題だと考えています。
どうしてそうまでして、他人に自分の価値観を押しつけなければならないのでしょう?どうして他人の自由を縛らないと気がすまないのでしょう?そうやって他人をコントロールしなければ気が済まないという執着心(依存心)こそ、幸せになれない元凶だと私は考えています。
このブログは、そういう私の考えを公表しているものです。
ご納得いただく必要はありません。私には私の論拠があって、上記のように考えています。
意見を押し付けた書き方であったとしたら申し訳ありません。
ただ、歴史を見て、戸籍制度が確立し、名字を武士以外の一般庶民も得たのが明治であったのであって、武士は名字を得た歴史が連綿としてあった訳であり、たった百年ぐらいの制度を維新しているというのはどうなのかと私は思います。
夫婦別姓で困らないからいい、それを認めないのは世界と反し、偏狭であるとの見方は、グローバルリズムの幻影による弊害と重なるように私は感じました。
ありがとうございました。
私のコメント、全部読まれてますか?
「武士は名字を得た歴史が連綿としてあった訳であり」ということを、私は示してますよ。そしてその歴史が、夫婦別姓であったと。
源頼朝の妻は、源政子ですか?違うということを、すでにご存知でしょう。北条政子です。
それを知っていながら、どうして日本の伝統である夫婦別姓を、「伝統」という名のもとに否定されるのでしょう?
結局、兵庫の田舎者さんは、ご自身の考えを肯定する資料しか受け入れていないだけではありませんか。
「グローバルリズムの幻影による弊害」の根拠は何ですか?そして、どんな弊害があるのか、事実を示してください。国際結婚で夫婦別姓カップルの家庭は、崩壊している実例が統計的に出されていますか?
あるいは、海外の夫婦別姓カップルと同性カップルで、幸せ度の差が統計的に有意だという研究結果が何本も示されていますか?
単なる自分の思い込みを大事にすることは、それはまったくかまいません。だったら、根拠を示した私に対して、「感情的な賛成の発言」と揶揄するのはどうなのでしょうね?
まあ、私がどう言われようと、私は気にしません。考え方は人それぞれですから。
もし、私の論拠を上回る理屈なり、証拠なりを提示されたら、私も考え方を変えるかもしれません。ぜひ、そういう実りのある議論をしていただけたらと思います。