何かの本の中で紹介されていたので、中古で買ってみました。著者はバーニー・S・シーゲル氏。翻訳は相原真理子さんです。
シーゲル博士は外科医でありながら、病気に対する心の影響を確信し、治療に用いることを主張されています。
この本は文庫本ですが400ページ以上もあり、様々な例とともに、その影響について書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「生理学者の研究により、愛が体に与える影響は測定できることがわかっている。愛情を与えられない赤んぼうは骨の発達が遅れ、死亡することもあるのに対し、体をなでてもらった赤んぼうは成長が早いのだ。安らかな心が体に影響することも測定できる。瞑想をしたり、つらい体験を抑圧してしまわず、日記に書くと、免疫機能が高まるのだ。愛や心の安らぎは人間を守ってくれる。それらのおかげで、人間は人生のさまざまな苦難を乗り越えることができる。愛や心の安らぎは、われわれに生きることを教えてくれる。今というときを生き、新たな日に直面するう勇気を与えてくれる。そして、生き方を変えるための刺激として、悲しみや苦しみを利用することを教えてくれる。」(p.9)
「人間である以上、何かを失ったり悲しんだりすることは避けられない。しかし、新たな愛と真の治療は苦しみによってもたらされるのだ。苦痛を自己変革のために利用することを学ばなければ、長生きは何の幸せも生まない。自己変革の道は険しいが、これを歩むことにより、至福のときを経験することができる。」(p.10)
「病気と死は敗北のしるしではない。真に生きることができない人こそ敗北者なのだ。生きること、それも愛情豊かな楽しい人生を送ることを学ぶのが、私たちの目標だ。病気はしばしばそれを教えてくれる。」(p.10 - 11)
「人間が自分の治癒能力を高められるということは、個人に生存率は適用できないということだ。私は何年もかかって、その事実を学んだ。病気に応じて自分を変えることのできる患者は、予想よりはるかに長生きしたり、奇跡的な回復を遂げたりする。こうした例外的患者と話していると、愛、信念、今を生きる、許す、希望といった言葉がくり返し出てくる。これらの人々が得た精神的な安らぎが心を癒し、しばしば病気の回復をももたらすのだ。自然治癒を達成する人には、共通したものがある。彼らがそれを成し遂げたのは偶然ではない。医者ならだれでも、患者がこのようにして回復を遂げるのを見たことがあるだろう。だが、自分の経験したことがどんな意味を持つのか理解する医者は少ない。こうした奇跡的な治癒には科学的な根拠があり、他の人もそれを学ぶことができるという事実を、私たちは認めるべきだ。それによってさらに多くの奇跡的治癒がもたらされ、やがてこうした現象が科学的に解明されるようになるだろう。」(p.12)
ちょっと長い引用でしたが、序文においてこのように総括しています。つまり、心が治癒に影響を与えることは明白であり、その経験を積み重ねることで、それは科学的に解明できると言います。
また、病気そのものは「悪い」ことではなく、その苦痛によって生き方を変えることに役立てることができ、そうすれば幸せな生き方ができるのです。
「考え、暗示、象徴、プラシーボなど、希望を与えるものはすべて、病気を治す可能性を持つ。しかし、ほとんどの人はプラシーボは「精神と体」に関係した病気には有効でも、エイズ、がん、多発性硬化症や心臓病には効果がないと思いこんでいる。プラシーボによってさまざまな症状が軽減されたという、無数の研究があるにもかかわらず、こうした考えが根強く残っているのは興味深い。」(p.33 - 34)
薬効を調べるとき、必ず偽薬を与える一群と比較します。偽薬による治癒効果を、プラシーボ効果と言います。つまり、一定のプラシーボ(=治るという暗示による治癒)が前提として認められていることになります。
「私にとって最大の関心事は、どうしたらプラシーボを使わず、心の治癒システムにじかに働きかけられるか、ということだ。」(p.37)
シーゲル博士は、心の治癒システムそのものを解明し、それをどう効率よく応用できるかということを、目標として設定しているのですね。
「そこでわたしは、一日の間に頭に浮かぶ、自分の体についての否定的考えと肯定的考えを、それぞれ書きとめることから始めた。いざ書き出してみると、ほとんど否定的な考えばかりだ。自分がいかに自分の体を嫌悪しているか、気がつかざるをえなかった。
いまや習慣となっている、この根深い否定的な見方を克服するため、わたしは自分が好ましいと思える身体的特徴を毎日一つ選び出すことにした。どんなに些細なものでもよい。次に、その特徴をもとに書き直しを始めた。否定的考えの後に、必ず肯定的考えを書き加えるのだ。」(p.53)
これは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された患者の手記です。死ぬ前に「無条件の愛」を体験したいと強く願い、そのための方法として、まずは自分の体を受け入れようとしました。
私たちは、自分がどういう考え方をしているのか、意外と気づいていないものです。それを書き出すことによって気づき、1つひとつ改めるという作業によって、考え方の習慣を変えることが重要なのですね。
「ひとたび古い台本と自分に対する嫌なイメージが消えると、それらは二度とあらわれてこなかった。わたしは自分の体を受け入れた。自分の体を変える必要などなかった。それはありのままでよかった。これからどんな状態になろうとも……。
(中略)
病気はわたしにとって挑戦すべき対象であり、贈物だった。病気のおかげで、わたしは自分の心の奥にある思いや欲望、信念を考察することができた。そして、自己発見の旅によって自分の人生を再構築し、心と体が結びついていることを強烈な体験を通じて知ったのだ。」(p.54)
自分の体を好きになる、つまり体を愛することによって、新たな自分へと生まれ変わりました。そして、余命6ヶ月の状態から、奇跡的に回復しました。
「病気が治ったのは、わたしが自分を『治そう』としたからではなく、この世でわたしがするべきことがまだ残っていたからです……あれ以来、わたしは毎朝喜ばしい気持ちで、意欲に満ちて目をさまします。」(p.55)
つまり、自分の死を受け入れた(=生きたいという執着を手放した)上で、やり残したことを精一杯にやろうとした。その結果、たまたま生き延びたということなのです。
「ユングは、人間の青写真を、その人独自の神話と呼んだ。私たちはみな、自分の神話を見つける必要があるが、しばしば病気がその手助けをする。なぜなら、病気の経験はその経験の主について何かを語っているのであり、その人独自の意味を持つからだ。」(p.74)
それぞれの人に人生の課題(青写真)があり、それに立ち向かっていないと、最終的に病気になると言います。つまり病気は、まだ課題に立ち向かっていないよ、というサインでもあるのです。
「病気は、精神的パンクになりうる。つまり、人生の流れを中断するもので、そのときは災難のように思えるが、結局有意義な方向に生き方を変えるきっかけとなる。直感的、無意識的に認識できるようになると、それらはもっとたびたび現れるだろう。」(p.103 - 104)
人生の中で起こる予期せぬ出来事は、何らかのサインだと言います。タイヤがパンクすることさえ、何かのメッセージです。それをシーゲル博士は、「精神的パンク」と呼んでいます。そして病気もまた、そうなのだと。
ここで言う「精神的パンク」は、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)と同じような意味だと思います。直感に従うようにすればするほど、シンクロニシティが起こると言いますから。
「自分に言いきかせている言葉がさしている、あるいは描写しているもののイメージをいったん頭の中に作りあげてしまうと、これらの言葉は体の内部環境に対する意味深いメッセージとなる。言葉で作りだしたイメージをコントロールする力がある以上、私たちはこの力をあますところなく利用し、生命力を高める肯定的場面を描くようにすべきである。何かがこのようになると信じると、それが現実になる。したがって、それを建設的に利用すべきだ。時には、それが生理学的現実を生むこともある。」(p.136)
内なる自己とのコミュニケーションにおいて最も重要なのは「感情」だと言います。好ましい感情を呼び起こすきっかけとしては、「言葉」が有効です。その「言葉」を「イメージ」に変換することによって、「感情」が湧き起こります。
シーゲル博士は、肯定的な自己とのコミュニケーションによって、病気が治ることがあると指摘しているのです。
「「良い」患者は素直でおとなしく、言いなりになる。けれども、これは生きのびるためにはよくない。生きのびるために必要なのは、CURIOUS(好奇心の強い)であることだ。CURIOUSという言葉は、CURE(治す)と同じ語根を持つ。したがって、患者が長々と質問し、他にどんな治療法があるか知りたがり、自分がとのように治療に参加できるか教えてほしいと言いはるようなら、医者は喜ぶべきなのだ。」(p.227)
患者自身が「治ろう」とか「治そう」という意志がなければダメなのですね。「先生にお任せします」は、時として責任の転嫁になります。自分が自分に責任を持つこと。それが重要なのです。
「すでに述べたように、自分の欲求を否定し、何の問題もないからと助けを拒否すると、自分の体に「死にたい」というメッセージを送ることになる。その結果、体はその人が本心からそう思っているものと考え、病気を悪化させて死を早める手伝いをすることになる。」(p.252)
「理想的には、人は自分の死を認識することによって自己否定の殻を抜け出し、自分に罰を与えるのをやめ、自分を肯定するようにならなくてはいけない。しかし残念ながら、人生の初期に身につけたパターンを打破できることを、だれもが知っているとは限らない。」(p.253)
助けを求めないのは、遠慮しているからです。つまり、自分にはその価値がないと信じているからです。そういう卑屈さ、自己否定が、それにふさわしい現実を引き寄せます。
「自分の死ぬべき運命を認めて自分の人生を生き、必要な助けを求め、それを受け入れてほしい。そうすることが周囲の人々への贈物となる。あなたは周囲の人々の師となり、癒し手となるのだ。」(p.254)
自尊心を持つこと、自分自身を愛することが、自分に対してだけでなく、周りの人々へも贈物となります。その生き方を示すことが、他者の救いになるからです。
「調査対象者の半数は何らかの軽い病気にかかっていたが、残る半数は健康だった。もしストレスが健康に影響するなら、なぜこの半数の人々は、その肉体的影響を受けなかったのか? コバーサの研究チームによると、答えは三つのCにあるという。つまり、コントロール、コミットメント(かかわり)、チャレンジである。電話会社の重役やその他ストレスの多い生活をしながら健康を維持している人々は、自分の生活をコントロールしているという意識を持っていた。(これは、絶望感や無力感とは対照的な感情だ)そして家庭と仕事の両方に意義を見出し、そのどちらにも積極的にかかわっており、また他の人々が脅威と感じかねない出来事に、チャレンジする意欲を持っていた。」(p.264)
中間管理職と重役という、仕事上のプレッシャーを受けやすい人々に対する調査結果からです。つまり、ストレスが多いという環境が影響するのではなく、その環境に立ち向かう姿勢(=生き方)が問題なのです。
働かされているとか、他人が悪い(=自分には変えられない)とうい被害者意識とかが、その環境をストレスにします。自分がコントロールしていて、積極的に関わり、チャレンジするなら、それはストレスにならないのです。
「神からの贈物は、時として変わった形をしているものです。これまでの経験から、私は自分には結果をコントロールする力がないことを、はっきり悟りました。どんな態度をとるか、自分の人生でどんな努力をするか、自分の体をどのように扱うかは選択できます。でも、病気の結果を自分でコントロールすることはできません。」(p.271)
結果は手放すものであって、執着するものではありません。自分がコントロールできることに、意識を集中すべきなのです。病気や死を「失敗」とみなす限り、結果を手放すことができません。それらをサイン、または贈物と考え、それによって自分の生き方を選ぼうとすることで、自己変革が可能になるのです。
「フロイトは、病気の症状が人間の三つの欲求を満足させるという説について述べた際、病気の持つこの機能を説明している。三つの欲求とは、第一にすべての生物が持つ快楽を求める気持ち。(病気によって自分のどんな望みがかなえられていると思うか、と私が患者に訊くのは、このためだ)第二に、他人を支配したいという意識。(周囲の人を思い通りに動かすために病気を利用する場合)第三に罪ほろぼしの手段として自分を罰したいという気持ちだ。」(p.276)
病気が自分への罰だと考える人に対して、フロイトもそれを説明している言っています。アドラー心理学でも、病気は自分の「目的」を達成するために起こると考えます。それがこの3つなのですね。
「アドバイスするとき、相手が生きる意欲のある人ならよい。だが、相手が人生を愛していない場合は何を言っても無駄だ。人生が楽しくないなら、長生きをする意味がない。そんな人たちには、「私はあなたを愛しています。そしていつか、あなたが自分を愛せるようになることを願っています」というメッセージが必要かもしれない。批判しても無駄だ。批判は人間関係をこわし、失敗したという気持ちを生むだけだ。」(p.282)
相手が求めもしないのに、アドバイスしても意味がないのです。できることは、相手の自由を尊重して見守ること。つまり、愛することだけです。
「エイズ患者がグループをつくり、互いに愛と支援を与えあうケースもある。だからこそ彼らは、「私の病気は贈物だ」と言うことができる。むろん健康になりたいと思わないわけではない。だが、彼らは病気によって得たものを手放すつもりもないのだ。
この種の癒しに対して心を開くには、勇気がいるだろうか? むろん勇気がいる。病気は贈物だと宣言する資格が、私にあるのか? そんなものはない。各自がそれを贈物にしようと決めたときに、初めて病気は贈物になるのだ。私はそのような人を数多く見てきた。彼らの体験談を聞くと、自分を癒すのは自分自身であることがわかる。」(p.304 - 305)
病気になったという結果を受け入れ、その中の良い面に着目し、自分への贈物とみなす。それができるのは自分だけであり、自分がそう決めることによって、自分が癒されるのです。
「自分たちの役目が患者を癒すことであり、それは死を阻止することではなく苦痛をやわらげることであると悟れば、最期のときを患者と一緒にすごすのがいかに名誉なことかがわかる。また、人間は自分に最も適したときに死ぬという驚くべき能力を持っていることを知れば、死は最終的な癒しであることも理解できるだろう。」(p.366 - 367)
死を敗北と考える医者は、手を尽くしても救えない患者のそばに寄ろうとしないと指摘した上で、それは機会を逃しているのだと言います。そして死に立ち会うことによって、死が癒しであることがわかると言っているのです。
「神との対話」でも、死は魂にとって救いであり喜びだと言っています。不自由から自由への旅立ちだからです。そして、人(魂)は自分で選んで死ぬのだとも。
「死んだ後も私たちを生かし続けるもの、残された者を喪失の苦痛から立ち直らせるもの−−それは愛である。そして多くの場合、愛し、癒し、教えるのは病気と闘っている本人だ。前にも述べたように、まず自己愛がなくてはならない。自己愛とは、いかに不完全な存在であろうとも、私たち一人一人の中に神がいると認識することだ。(人間は、完全に不完全な存在なのだ)そしてこの自己愛から、手をさしのべて他の人を愛し、助けるという能力が生まれる。」(p.391)
まるで「神との対話」に書かれているような文ですね。愛は自己愛から始まり、それは自分の中に神がいるという認識から始まる。たしかに、そういう考え方をすることで、不完全な自分が完全なのだと思えるようになるでしょう。不完全なまま、完全に自己肯定できるのです。
この本には、非常に多くのことが書かれています。単に思考によって病気を治すというものではなく、病気を人生にどう生かすのか、どうやって自己変革するのか、愛するとはどういうことかなど、様々な示唆があります。
さらに、死に対しても、正面から向き合うものです。死を敗北とか失敗と考えるのではなく、死でさえ贈物になるのだと考えるのです。
今、病気で弱気になっている人はもちろん、生き方に迷っている人にも、お勧めの本だと思います。
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