2016年07月09日

「魂の法則」の要点

先日読んだ「魂の法則」が、予想を超えて素晴らしく、あまりに引用したい文が多かったことから、残りを要点としてまとめることにしました。

前半部分の引用は、すでに本の紹介記事「魂の法則」でしていますから、そちらをご覧になってください。

前半部分を大雑把にまとめると、著者のヴィセント・ギリェム氏が幽体離脱によってイザヤと名のる老人と会い、そのイザヤからこの世の真実を教わる話になっていて、そのほとんどは「神との対話」などで言われているようなことでした。

ただ、具体的に守護霊のような支援する霊がいることや、転生によって辛く厳しい人生を選ぶ魂がいるというカルマの意味などが、わりと詳しく書かれていました。


では、その後の部分を引用しながら紹介します。

これらのエゴのうちの一つから脱却するのにも、計り知れない歳月がかかることがある。しかし魂がエゴを自覚し、それに流されれば他者を傷つけると認識した時から、自己の行為にもっと責任を持ち、自分がもたらす苦悩に関しても敏感になる。するとある時点で、魂は感情に目覚め、愛する必要性を感じ、幸福になるためには愛さねばならないと気づく。」(p.210)

まず、エゴの脱却には相当な時間が必要で、何回も生まれ変わる必要があるということを言っています。そして自分の行為が他者を傷つけるという「気づき」がきっかけとなって、愛を選ぶようになるのです。

それは強制ではなく、自らそれを選ぶということです。選ばざるを得なくなる、ということですね。

子どもが一日で話せるようにならなくても、言葉は何年もかけて習得していくものだとわかっていて絶望しないでいられるのなら、幼い魂が愛せるようになるのに霊的に何年かかったとしても−−何回も転生することだが−−焦ってはいけないのだ。」(p.211)

聞いてわかったから、すぐにできるという問題ではないのです。それぞれに進化のスピードやレベルがあるのですから、それをじっと見守ってあげることが重要なのですね。


慎重であれば、適切な状況でなければ感情の表現方法を変えるかもしれないが、感情を押し殺すことはない。だが、怖れはそうする。人は怖れに捉われると、実際には危険も脅威もなくても、怖れが頭の中でそれを現実化してしまい、感情の表現を抑えこんでしまう。他者の反応を恐れるあまり、自分自身の人生に関して決断しなくなる時から、感情の抑圧が始まるのだ。」(p.214)

「神との対話」でも、感情を抑圧することが問題だと言っています。その原因は、やはり怖れ(不安)なのですね。では、感情を抑制するようになったのは、どうしてでしょうか?

一部はエゴ自体から生じ、残りは幼児期からの教育のせいだ。君たちの惑星での教育は、感情を強く抑制するものなのだ。
 長い間、君たちの教育方針は頭脳を発達させることを重視し、頭脳そのものを利用して感情の育成を抑えてきた。子どもたちは、感じたり感情を表現する大きな能力を携えて、あるがままの姿を表現しようと、心を思い切り開いて生まれてくる。しかし、感情や喜びや自発性を抑圧され、喜びを味わうたびに罪悪感を覚えるように、小さい頃から愛の代わりに執着を体験させられてきたのだ。
 何世代にもわたって、子どもたちに教えてきたものは何か? 良い子というのは言うことを聞く子で、親や教師や大人の意志や、社会の規則や便宜の奴隷であるということだ。
 子どもがどうしてそうしなければならないのかわからず、その理由を尋ねた時に「父親の私がそう言うからだ」と返答したことがどれほどあろうか? そして両親が不機嫌ならば、子どももそのイライラを我慢しなくてはならない。命令と厳格さばかりで、自由が少ない。
 親や大人に聞かずにしたことは、すべて悪いことになる。笑うことも、泣くことも、話すこともいけないことで、親の許可を得ずに黙っても悪いとされる。「私が認める人とだけつき合い、その人を好きになって、言う通りにしなさい。お前のためだ」と言うのだ。
」(p.215)

ちょっと長かったのですが、ありありとわかるので引用しました。大人が子どもに、感情を抑圧するよう仕向けていることが、これで明らかだと思います。


君たちの世界の弊害の多くは、まだ感情に鎧を着せていない子どもたちを愛せば、解決されることだろう。愛せば、愛を許容するだろう。子どもたちを一世代にわたって愛せば、世の中は一世紀も経たないうちに天国へと変わるだろう。」(p.216)

なんと大胆な予想でしょう。私たちの問題の多くが、子どもたちを強制せず、愛することによって解決してしまうというのですから。

でも、私もそう思います。子どもたちの無防備な笑顔を見ていると、私を含めた大人は、いつから鎧を着てしまったのだろうと思います。そして、自分に正直になれなくなっているのです。もし、子どもたちが、その純真なままに大人になったら…。どうして他者を傷つけたり、自分だけ得をすればいいというような、エゴを前面に出すようなことができるでしょうか?


変わろうという意志と感情の力によってのみ、人生というものは逆転し、憎しみの連鎖を断ち切れる。こうして、固く締められていたネジは緩み始め、愛のない方向へ回されたネジは一つまた一つと反転して行き、最後には完全に引き抜かれる。
 苦痛を感じ愛のない状態でいる人のすべてが、このような決断をしたとしたら、世界は一世代で変わるだろう。両親から愛された子どもは、保身の鎧を被らない世代であり、愛されて育てられたので、愛することを恐れない世代となる。
」(p.219)

親や大人たちから押し付けられ、強制されてきた私たちは、トラウマとまでいかなくても、心にしこりを残しています。そんな私たちが大人になった時、子どもに対して同じことをしてしまいます。この負の連鎖を断ち切ろう、自分が受けた苦しみは他人に与えないようにしようと決意することが、悪循環を断つことになるのです。


人が愛する場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられるように尽くすのだ。
(中略)
 本当に愛する者は、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人たちを愛しても不快に思わない。
(中略)
 執着がある者は、愛情を要求し、強制し強要する。自分がすることの見返りをいつも求める。
(中略)
 真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。強制も強要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。」(p.226 - 227)

これが愛(本物の愛)と執着(偽物の愛)の違いです。愛と自由はセットです。自由にさせない愛は、偽物なのです。


理解のある家族と暮らす者にとっては、家族が霊的な発展を遂げるための支えとなる。しかし、地上の人類はほとんど成長していないために、霊的な覚醒に取り組もうとする者は少数である。しかも、同じ家族の中に似通った魂がいて、霊的進歩に取り組むつもりであっても、同時に覚醒できることは非常に稀だ。そのため、先陣を切るのが一番難しいが、それができる人が他の者のために道を切り開かないといけない。」(p.231 - 232)

覚醒は、誰かから始めなければなりません。そうやって道を作れば、後から続く人たちは楽になります。支えてくれる人が多くいるからです。


攻撃欲はどう乗り越えるのですか?

 まず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとしてみなさい。
」(p.244)

なんでもそうですが、まずはそれがあると気づくことがスタートになります。自分にエゴがあると気づくこと、愛がないと気づくこと。それを否定しているうちは、先に進めないのです。そして、理解による克服を次のように説明します。

誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためだと理解すべきだ。かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。
 我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、愛の学習とエゴの克服を促進させるためのもので、その多くは生まれる前に自分自身で選んだものだと理解するのだ。そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さと不寛容や羨望など、他者の欲求や意見を尊重したり理解しなかったために、我々自身が招いてしまったものなのだ。
」(p.244 - 245)

思考を変えることで感情を変える方法ですね。そのためにも、輪廻転生があることや、この世は愛を体験するために存在するということを、知って信じる必要があるのです。

他者を傷つけずに不快さを解放する、いい発散方法がある。
 それは、どう感じているかを言い表してみることで、自分に湧き起こった感情を認めて、そうなった理由を述べてみることだ。聞き手は、傷つけないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈しない信頼できる人でなければならない。
」(p.245)

カウンセリングのような手法ですが、表現してみるだけなら1人でもできます。ともかくその感情を認め、受け入れ、表現してみることが重要なのですね。


死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるように、物質界で何でもやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとする。
 進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだと皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。
」(p.249)

「神との対話」でも、死は魂にとっては救いだとあります。ですから死は悲しむべきものではなく、喜ぶべきものなのだと。莊子の妻が死んだ時、莊子は瓶を叩きながら歌っていたという話があります。死を悼むのが当然という常識も、単に思い込みなのでしょう。


つまり、自尊心の強い者が本当に必要としているのは、愛され愛することなのだが、自分の愛情の欲求を認識せずに抑圧してしまうことが、安全弁のように、セックスへと逃避させてしまう。要は、愛の欠如をセックスで補っていることになる。そのために過度の性欲があるが、虚無感は、性的なものではなく感情的なものなので、性関係では満たすことができずに満足できない。
 そこで、益々セックスを求めるようになる。そうすることで、この心の空洞を癒やそうとするのだが、上手く行かずに、前述のような堕落した様式に至る場合もある。
」(p.250)

「愛の選択」でも、セックスは体の欲求で、愛は心の欲求だと言っています。本当は愛が欲しいのに、その欲求を性的な欲求と履き違えているから、いくらセックスしても満たされないのだと。私も「強烈な性欲の正体がわかった」という記事で、そのことに気づいたことを書いています。


怖れを克服する方法として、以下のようにイザヤは言います。

自覚と勇気を持つのだ。まず、自分が怖れているということと、何を怖れているかに気づくことだ。深く分析してみれば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことがわかるだろう。現実の脅威に根ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないようにすれば乗り越えられる。」(p.261)

まず、湧き起こった感情を認めることですね。その上で、冷静になって観察する。他の考え方ができないか探ってみる。そして、最後にはやはり勇気です。アドラー心理学でも、勇気を出して一歩を踏み出すことが重要だと言っています。


君たちは、夫婦になるということは、自由意志の一部を放棄することだとまだ思いこんでいるが、そうではない。たとえば君たちは、結婚したり同棲すれば、絶対に果たすべき義務であるかのように、相手と性関係を持たねばならないと思っているが、それは違う。人は、嫌だったり望まないのであれば、ただ結婚しているという理由だけで、性関係を義務づけられたりはしない。
 また、単に性関係を持ったというだけで、その相手と一緒になる義務もない。さらに、どんな状況で一緒になったにせよ、自分にない気持ちを感じなければならない義務もない。
 そして、これが一番重要なのだが、そのために罪悪感を覚える必要はない。感情とは強制されるものではなく、自発的に湧き出さなければならないからだ。霊的な観点からは、すべての上に自由意志があり、他のあらゆることに勝るのだ。
 執着を手放さない限り、愛の至福を味わえはしない。愛にとっての執着とは、鳥にとっての鳥かごだ。
」(p.282)

結婚に義務がないことは、「神との対話」でも言っています。自由は私たちの本質ですから、それを制限することがおかしいのです。そして、それを制限するのは不安だからであり、不安から生まれるのは執着です。ですから、執着を手放すことが重要なのです。

情熱に関しては、多くの場合、愛とは何の関係もなく、誰かを所有したいという満たされぬ欲求であり、我々が執着と呼ぶところのエゴが顕現したものだ。人は物ではないので所有できないし、本人以外の誰にも属さない。愛することと所有したいこと、愛と執着とを、混同してはならない。
 はっきりさせておこう。誰かを愛するように強いることはできない。愛が自由でないならば、それは愛ではないのだ。
 感情は強要することができない。感情は提言や操作、強要にも命令にも従わない。愛されたいのであれば、何の見返りも期待せず、無条件に愛することだ。そうすれば、いつか、「原因−結果の法則」が、与えたものをもたらすだろう。
」(p.284 - 285)

まさに「神との対話」で示されたように、愛は自由なのです。感情は魂の声であり、魂は自由ですから、自分以外の何にも支配されません。


精神的に調子が悪い時には、霊体とメンタル体との間でショートが起きていて、それがエネルギー体(アストラル体)に伝達されると構造を乱して、波動を下げてしまう。
 この「エネルギー低下」は、送電系の一部が停電したように、アストラル体の特定の箇所に支障をきたし、そこと繋がっている身体の部分にきちんと活力を与えられなくなってしまう。こうして生命エネルギーが不足して活力をなくした領域は身体の残りの部分と連動しなくなり、その結果、活力を失った組織は他と調和して機能できなくなってしまう。
 エネルギーの供給が途絶えると、通常の細胞の機能は影響を被り、遺伝子異常が起こり始め、細胞が破壊されて進行性の病となったり、細胞が制御不能なほど増殖し始めて癌を発生させたりする。
」(p.288)

アストラル体はエネルギーの供給元のようなもので、そこでイメージされたものが物質化し、我々の身体になっていると言います。ですから、アストラル体からのエネルギー供給が少なくなると、身体は正常に機能できなくなるのですね。

また、アストラル体に影響を与えているエネルギー低下は、精神的に調子が悪いことが引き金となります。つまり、否定的な考えや感情が、病気の原因となるのです。では、感情の葛藤を解消すれば、病気は治るのでしょうか?

それは正論だが、問題を解決できるためには、本人にかなり深い変化が起こらねばならない。「エゴ的感情」にしがみついたままで感情を抑圧し続ければ、一つの病気が治ってもまた別の病気になる。それは、特定の葛藤を解消できたとしても、同じような「エゴ的感情」を引き起こす別の葛藤が再び現れてしまうからだ。こうして病気の根本的な原因に行き当たる訳だ。
 本当に病気を発病させる原因とは、エゴとその顕現形態なのだ。そして、治癒効果があり健康にするのは、愛とそれを表現することなのだ。
」(p.289)

否定的な思考や感情を改めたとしても、エゴがある限り、別の形で出てくるというわけですね。ですから、病気を根本的に治すには、エゴを廃して愛に生きる他ないのです。

病気は、人がより高次の理解や愛、叡智へと進歩するために役立つ手段なのだよ。すでに述べたように、肉体の病は、内面の感受性の表現を妨げる頭脳の障壁を弱めるので、実のところ、進化に寄与するものだ。
 人が愛における進化で成し遂げた変化は、失われることがない。どこに行こうと、自分と一緒に持って行ける。これは、人生で得られるものの中では、最も貴重なものだ。生涯を通しての目標に掲げることができ、もしそれを達成できたとしたら、魂は自分の仕事に満足して、穏やかに霊界に戻ることができる。実際、自分の魂に成し得た変化だけが、死ぬときに持って行ける唯一のものだ。なぜなら、物的な成果はすべて、物質界に残るのだ。
」(p.292)

病気は無駄なものではなく、霊的な進化に役立つと言います。そして、霊的な進化こそが、天に積むことができる宝なのですね。


次に、精神や肉体の障害を持った子どもや、その家族への接し方について、イザヤはこう言っています。

普通の子に接するように振る舞いなさい。実際、普通の子どもなのだ。外見で判断してはならない。肉体の奥底に、皆と同じような魂を見出すだろう。その子、その愛する者の中に、不完全な肉体を見るのではなく、完全な魂を見ることだ。そしてその魂の通りに、完全な存在として扱ってあげなさい。不具合な衣装の下には、健全な肉体の人と同等かそれ以上に力強く生き、感じ、気づくことのできる人がいるのだ。」(p.296)

バシャールも、障害を持った人を哀れみの目で見るなと言います。とても勇敢な魂なのだからと。

それと同じように、楽器となる肉体が一時的に調子外れだからといって、愛という心の曲を聴き取り、それを表現する可能性を魂から奪ってはならない。普通の子どもに接するように、その子に話しかけたり、気持ちや愛情を表して伝えたりすることが、不毛な努力だと思ってはならない。」(p.296)

楽器が壊れているからと言って、弾き手の才能が限定されるわけではありません。一時的に思い通りに弾けないだけです。ですから子どもも、制限があるのは身体や精神であって、魂は愛情を感じられるのだと思って、普通の子どものように接すべきだと言うのです。

すでに言ったが、繰り返しておこう。肉体的または精神的な障害は一時的な状況で、それはひと度肉体が消滅するや、終わることだ。だが、その体験を通して、当事者や周囲の人びとに生まれて根付いた感情は、魂の糧となって永続する。そして、それが真に大切なことなのだ。」(p.297)

障害は、今生だけのもの。ですから、嘆くひつようもなければ、悲しむひつようもありません。そこで何を感じたかが重要なのですね。魂は体験しようとしてこの世に来るのですから。

愛への第一歩は、他者も自分と同じ感情を持ち、自分が苦しむのと同じことで苦しむのだと認識することだ。」(p.297)

生まれ変わるとき、前とは反対の立場として生まれることで、両サイドの感情を味わうことができます。それが魂の進化成長につながることであり、つまり、愛に近づくことなのです。だから、愛に近づくには、相手の立場を思いやることなのです。


特定の運動(ヨガ)をしたり、人がパイプとなってエネルギーを供給したり(レイキなど)、生体エネルギー発生器などによって、悪い流れを取り去り活力を与えることができる。
 エネルギー治療は、アストラル体レベルに作用し、疲弊したエネルギーを洗い流し、そこに新しい活力を供給し、気の流れを修復する。生体エネルギーを用いた治療は、病気の回復を促したり、症状を緩和させることに貢献する。
 だが、エゴ的な感情を放棄できなければ、アストラル体の乱れが再発し、その結果、肉体の病も再び出現することとなる。それゆえ、霊体、メンタル体、エネルギー体、肉体を総合して、治療に取り組むべきである。
」(p.301)

ここでレイキが出てきたのには驚きました。著者のギリェム氏は、レイキもされているようです。

レイキがアストラル体に直接作用し、病気の回復や症状緩和に役立つと言うことです。ただし、エゴを持っていると、またエネルギーの乱れが生じて、病気を再発させてしまうのです。それでレイキでは、五戒を唱えて、エゴ的な感情を捨て去るようにしています。

レイキとは、宇宙の生命エネルギーを利用する自然療法の一つで、肉体的、精神的な病気の治療に役立つ。レイキは、宇宙的生命エネルギーを意味し、それを発見した日本の先駆者に命名された。
 現在ではその名前で有名になってはいるが、健康改善を目的としたエネルギーの授受は、何千年も以前から、磁気やプラーナなどの様々な名称の下に行われてきた。それは、「奇跡の癒し」と呼ばれたイエスの手かざしのことなのだ。
」(p.301)

レイキと呼ばれていますが、イエスなど、手かざしで病気を治すという例は多々あります。日本では手当て療法というジャンルになりますが、昔から行われている自然療法です。


病気は、運命のいたずらでも神の罰でもなく、霊的成長の糧となるものだ。
 今生で患う病気は、今回の転生で立ち向かわねばならない試練を知らなかったり受け容れようとしなかったのが原因か、または心に従って行動や生活せずに霊的な内面を抑圧したのが原因だ。
 このような場合、肉体的な病は内部の病気の警報として作動し、自分を変えるように誘導する。
 先天性またはカルマによる病気のケースでは、原因は前世での行為の中に見出せる。それは、溜まった負債を清算するための試練であり、魂が霊的により高い段階へと昇るために障害となる心理的毒素を肉体に受け渡すプロセスなのだ。
」(p.308)

つまり病気は悪いものではなく、魂の成長のために良いものだ、ということですね。


イエスの最大の功績は、携えてきた愛のメッセージを布教した果敢さと勇気にあるのだ。そうすることで、多大な苦悩や死さえも被ることを知っていたにもかかわらず、誰の脅しにも屈せずに自分の考えを変えることがなかった。」(p.312)

よく言われているように、十字架にかかることが功績ではないと言います。もしそうだと言うなら、何十万にもの罪人にも同じ功績を認めなければならなくなると。イエスの功績は、愛のメッセージを伝えたことなのです。


真のマスターは、自由意志を尊重する。つまり、絶対に自己の見解を押しつけず、自分が手本となって宣教し、抵抗するものを受け取るか取らないかは、他者の自由に任せるのだ。したがって、権威主義に訴えて正当化することはなく、絶対に「俺の言う通りにしろ。俺はマスターで、悟りを得た神の使者だぞ」などと言ったりしない。」(p.336)

ここでも、自由が重要な価値観であることを言っています。今の宗教には自由がありませんから、そういう意味では、今の宗教指導者は真のマスターではないのです。


それに、皆の魂の過去を一人ひとりじっくり回顧したならば、過去生のどこかで、誰もが殺人者や人食い人種、またはその両方であったとわかるだろう。もし今、それを異常だと思うのであれば、それは霊的に成長できたからであり、自分の能力を試すために繰り返し転生したことで、犯した誤ちを修正する無数の機会を得たからである。」(p.356)

私が今、「人殺しなんてとんでもない」と思えるのは、私が立派だからではなく、過去に殺人を犯し、また殺されたりする経験をたくさん積んで、霊的に成長しただけなのですね。


霊界にはイザヤ以外にも多くの人がいて、最後にその姿を表します。そして、愛の教えを広めたいけど、聞いてくれるかどうか不安があるというギリェム氏にアドバイスします。

ジュノー:やろうと思うことを心からやってみうこと自体に、価値があるのだ。もし百万人に一人でも、このメッセージに耳を傾けてくれる人がいて、その人が感情を目覚めさせ愛の経験に心を開くことができたのなら、その価値はあったということなのだ。」(p.370)

ベスタ:その能力があるのか、と問うのはやめなさい。全員に愛する力があるのだから、多くの人にその能力があるわ。だけど、自分の日常生活に差し障るのも構わないで、気楽さを放棄してまでそうしようと思う人は僅かよ。自分自身に、やりたいのか、やりたくないのかを聞いたほうがいいわ。したいと思うこと自体、すごい力なのよ。あなたにできないことは、私たちが手伝ってあげる。いつも、あなたと一緒にいるわ。」(p.370)

非常に勇気づけられる言葉です。できるかどうかではなく、やりたいかどうか。どれだけ成果を上げるかではなく、わずかでも効果があるなら、やる意味があるのです。


レイキに関しては、まだ多くのことが書かれていますが、これは別のところで引用することにします。

私が今、やろうとしていることの方向性を明確にし、大きく背中を押してくれた一冊です。続編も購入したので、そちらも楽しみにしています。

魂の法則
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:49 | Comment(0) | └ 本の要点 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。

ランキングに登録しています。面白かったらボタンをポチッと押してね。
↓↓↓↓
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自分らしさへ

スポンサーリンク