何の紹介だったか忘れましたが、おそらく気になって注文したのだと思います。ヴィセント・ギリェム氏の本を読みました。翻訳は小坂真理さんです。
本の帯に、「著者が、幽体離脱で会ったイザヤという存在から教えられた魂と生き方の真実。」とあります。おそらく、そういう内容なのでしょう。
まあ、同じような内容だろうけど、などと思いながら読み始めたのですが、途中からのめり込んでしまいました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「君は進化するために生まれて来たのだ。
進化するとは、どういう意味ですか? 何において進化するのですか?
エゴ(我欲)を愛に変化させていく過程を、私は進化と呼ぶ。進化とは、愛することを学ぶことだ。」(p.18)
幽体離脱した先でギリェム氏が出会った老人はイザヤと名乗り、ギリェム氏に真実を教え始めたのです。
これに対してギリェム氏は、残酷で破壊的なものまである現実は、どうしてこうなのかと尋ねます。憎悪や戦争、飢餓、貧困など、それらの存在する意味がわからないのだと。
「もちろん意味はある。進化のためだ。君が、今言ったこれらの災いはすべて、愛の欠如、つまりエゴと呼ばれる同一の源から生じたものだ。各人のエゴが集積すると、現状のようにこの世を完全な地獄にしてしまうが、それぞれのエゴが愛に変わって合わされば、この世を天国に変えられる。内面をエゴから愛に変えるのは、各人の意志にかかっている。
内側を変えることができれば、当然の結果として、君たちの周りの外側を、そして世界全体を変えることが可能になる。君たちを取り囲む外界は、自己変革を手伝うためにあるのであって、型作りを教わりたい子どもにとっての粘土のようなものなのだ。」(p.19)
このあたりは、「神との対話」などで示されていることとほぼ同じです。私たちは愛を体験するために、この世に生まれました。だからこの世には、愛がないという状態が必要なのです。
「魂は見捨てられてはおらず、ガイド役の霊たちが常に助けてくれている。自分で本当に解決できない問題がある時には、さり気なく答えを示してくれている。
ただ、君たちには多くの恐れやタブーがあり、自分の先入観や思いこみと折り合いがつかない回答を認めようとしないので、霊界にいる同胞は、なかなか支援できずにいるのだ。」(p.88)
いわゆる守護霊という存在があって、私たちは常に助けられていると言います。ただ、私たちがその存在を信じようとせず、助けに耳を貸さないから、上手く行かないのですね。
「いずれにせよ、この心の声は、問題解決のための助言や援助となって、人生が辛かろうが幸せであろうがどのようであれ、そこから君たちが霊的進化のための最大の恩恵を引き出し、エゴを取り除くプロセスや無条件の愛についての学習に役立つようにしてくれる。援助を受けるには、それが得られることを確信し、答えを見出す必要のある質問をして、良心のささやきがもたらす返答に耳を貸さなければならない。」(p.90)
今の状態を悲惨だと判断するかもしれないけど、それに関係なく、そこで得られる霊的進化のための支援をしてくれる。それが守護霊の働きなのですね。それを受けるには、その存在を信じ、答えが得られると信じて、質問をすることなのです。そして、得られた答えがそれまでの価値観と違っていても、いや違っているからこそ、受け入れることだと言うのです。
「だから、人間が、知的、物質的発展に注ぎこんだのと同じ意志力と熱意を、霊的進展に応用したとしたらどうなるかを、想像してみたまえ。
地球は今、霊的覚醒の時代を生きている。覚醒したいと願う魂が全員目覚めて実行に移せば、物事は急速に変わるだろう。」(p.122 - 123)
今の地球が霊的な覚醒の時代にあることは、アセンションなどと呼ばれて、多くの人が言っていますね。科学が急速に発展したのと同様に、霊的に急速に進化するのも可能なのです。
「自分本位の考えは破壊や苦悩しかもたらさず、真に幸せになる唯一の方法は愛することだ、との結論に達することができたからだ。そして彼らは、愛を育てることと心のなかのエゴを徐々に消し去ることに全エネルギーを注ぎ、その世界を調和のとれた暮らしやすい我が家へと変化させたのだ。」(p.123 - 124)
私たちより少し進んだ文明が、どうやって霊的進化をなしとげたかについて、イザヤはこう語ります。要するに、自分のエゴを廃して愛を育てること、これしかないのです。
「魂には、常に幸福を求めるように駆り立てる力があって、幸福を追求することによって進化する。魂は本質的に自由な存在なので、愛がなければ幸せになれないように、自由でいられなければ、霊的に完全に幸せではいられない。」(p.135)
イザヤも、私たちの本質は自由だと言います。
「「自由意志の法則」において、好きな道を選んで適切な決断をする自由が魂に認められているのなら、「霊的裁きの法則」では、自分の行為の一つ一つがそれぞれの結果をもたらし、遅かれ早かれそれらが自分に影響することを知らねばならない。別の言い方をすると、「種は自由に蒔けるが、刈り取る責任がある」のだ。」(p.146)
これはバシャールが、「与えたものが返ってくる」と言っているのと同じですね。蒔いたものは刈り取らねばならないのです。原因と結果の法則とも言えます。
「復讐の一種のように違反者を罰することが目的だとしたら、「目には目を」だと理解できる。しかし、この法則の趣旨は罰することではなく、他人に行った行為を自ら体験して、魂の進化を促進させることなのだ。
別の言い方をすると、「霊的裁きの法則」は、我々が学び取れるような方法で、各人をそれぞれの行為と向き合わせてくれる。そして、自分が招いたものと文字通り同じ状態を経験する必要はないものの、それが最も速い習得法なので、惨めな霊的な劣等感から脱却したいと願う多くの魂がそうしている。」(p.155)
奴隷をこき使った農場主の魂は、次は奴隷の子どもに生まれ変わる。それが罰ではなく、愛を育てる最も効果的な方法だから、魂は自らその転生を選ぶのです。
「したがって、困難に立ち向かう人たちがいることを喜びなさい。第一にその人たちは、更生しようと深く肯定的に改心した魂であり、第二にそれほどの試練に直面すること自体がかなり進んだレベルに達したということで、負債を集中的に清算することにも成功する可能性があるからだ。」(p.158)
何も悪いことをしていないのに、悲惨な目に合う人がいます。そういう魂は、過去の負債を清算しようとした勇気ある魂なのです。バシャールも、障害を持って生まれた人を憐れむなと言います。彼らは勇敢なのだと。
「しかし、それによって、愛の学びにおける霊的な進歩ができる。そうして真の幸福へと近づけるので、自己記録を更新してゴールした長距離選手がレースを頑張って良かったと思えるように、悲惨な状況を上手く乗り越えられると、努力の甲斐があったと思うものなのだ。
このような選択は進化した魂特有のもので、後進の同胞を助けるために転生して導こうとする、愛ある行為だ。そして同時に、自分自身もさらに速い進歩を遂げようとする。なぜなら、後進の者の恩知らずな行為と不正の多くに耐えなければならないので、無条件の愛の能力が試されるいい機会となるからだ。」(p.159)
あえて悲惨な人生を選ぶことを、魂がどう感じるかを長距離選手のたとえで説明しています。これはなかなか面白い例です。そして、そういう転生は、後進の魂を助けることにもなるし、自分のさらなる成長にもつながるのです。
「すべての災いを根絶する唯一の方法は、一人ひとりの心からエゴを一掃することだが、エゴの毒を解毒できるのは、愛だけなのだ。
腕組みをしながら救済者がやって来るのを、待っていてはいけない。行動するのだ。そうすれば助けが得られる。「愛の法則」を信奉する高次の魂は、いつでも君たちを影から応援するために、そばにいるのだ。」(p.160 - 161)
最終的に、すべての人がエゴをなくさなければ、災は根絶できないと言います。しかし、そのエゴをなくす方法は、唯一、愛することだけなのです。だから勇気を出して行動し、助けを求めるようにと言うのですね。
「「自由意志の法則」で、魂が幸せでいるために自由が必要だとしたら、「愛の法則」では、魂が幸せでいるには愛することが必要となる。これら二つの法則を統合すれば、魂は幸せでいるためには自由に愛することができなければならない、と言えるだろう。」(p.172)
「神との対話」でも、愛は自由であり、人はだれも自由に愛したいと願っている、と言っています。
「他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛することから学びなさい。自分自身を愛せない者には、他者を愛することができない。」(p.173)
「自分を愛するというのは、自分が他者より優れていると思いこみ、利己的な気まぐれを満たすことに専心することではなく、自分の愛情の欲求や感情を認めて、それを人生の原動力となるように発展させていくことだ。」(p.173)
自分に正直になる、ということですね。他人の顔色をうかがって、自分をごまかしていてはいけないのです。
「感情は魂(霊体)から生まれ、思考は頭脳(メンタル体)から生まれる。」(p.178)
これも「神との対話」で、「感情は魂の声だ」と言っているのと符合します。
「魂は実際に苦しむことで感受性を高め、特に自分と似通った状況を経験した他者の苦悩を、より敏感に感じ取れるようになる。その者に対して芽生える連帯感は、愛の萌芽なのだ。」(p.185)
悲しみを多く経験すれば、他人の悲しさに共感できます。ですから、あらゆる体験が重要なのですね。
「我々全員が学ぶべき大切な教訓は、真の幸福とは、他者が自分を愛するかどうかで決まるのではなく、自分が愛せるかどうかによるということだ。だから幸せになりたければ、他者が自分を愛してくれるのをがむしゃらに求めるのをやめ、自分自身の感情を目覚めさせるようにしなさい。」(p.188)
他人から愛されるから幸せになるのではないのです。自分がどこまで愛せるようになるかによって、つまり自分がどこまで進化するかによって、自分の幸福が決まるのです。
「相手の立場になって、どう感じるだろうか、その状況でどうして欲しいだろうかと分析してごらん。
自分が発信者または執行者となって行おうとしていた行為についての判断が、その行為の受け手となれば変化するのなら、君の態度に何らかの利己心や不公正な部分があったということだ。送り手としても同じ姿勢でいられるのなら、公正に近い判断だ。
(中略)
最終的には「自分にして欲しくないことは他者にしてはならない」と「苦悩の原因であり意志の侵害だと知っていることを、他者が、自分や自分の庇護下の者にしないように尽くせ」という金言に要約できるだろう。」(p.201)
重要なことは、昔から言われている通りです。エゴは、「自分さえ良ければ」という判断基準です。それを、自分も相手も良くなる、という愛の判断基準に変えるのです。
「完全生へと向かう過程において、魂がある程度の期間にわたり利己的な段階を経ることと、それが多くの転生で継続し得るのは避けられない現実だが、それは有益であるとも言えるのだ。なぜなら、自分の個別性や意志を再認識して、愛がない時にどう感じるかを味わえるし、愛を感じられるようなるにつれて、愛がある時の気分をありがたく思えるようになるからだ。」(p.209)
これも「神との対話」にあるように、愛がない状態を体験しなければ、愛の素晴らしさがわからない、ということですね。
ここまで、非常にたくさんの引用をしてきましたが、その多くは「神との対話」などで示されている内容です。ただそれを、より具体的に示していると言えるでしょうか。
イザヤの話が100%本当かどうかは、なんとも言えません。また、ギリェム氏も、自分の言うことを信じるのではなく、書かれている内容を自分で判断するようにと言っています。
けれども私は、「神との対話」などとほぼ符合していることから、十分にありえる内容だと感じています。そして、ここから驚きの内容へと進むのですが、それはこの続きにて書くことにします。
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