2016年05月25日
ニュー・アース
スピリチュアル関係では何度もその名前を耳にしたエックハルト・トール氏の本を読みました。翻訳は吉田利子さん。「神との対話」シリーズの翻訳で有名です。
私は、トール氏の本を読むのは初めてです。何かのDVDで、その話を聞いたことはあります。
なぜこの本を買うことにしたのか、もう随分前なので忘れてしましました。それだけ長い間、積んであった本ですが、やっと読み終えました。最初はちょっととっつきにくい感じがしましたが、読み進めていくうちに引き込まれ、この厚い本を飽きずに読み終えることができました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「本書のいちばんの目的は、読者の頭に新しい情報や信念を付け加えることでも、何かを説得することでもなく、意識を変化させること、つまり目覚めさせることだ。
(中略)
本書の当事者はあなた自身だ。あなたの意識の状態が変わらないなら、本書の意味はない。だが目覚めることができるのは、準備が整った者だけだ。まだ全員というわけではないが、準備ができている人は多いし、一人が目覚めるたびに集団的な意識のうねりは大きくなり、その他の人々の目覚めが容易になる。目覚めるということの意味がわからない方は、本書を読み続けていただきたい。目覚めることによってのみ、目覚めるとは何なのかが、ほんとうに理解できる。」(p.16)
冒頭で、このように本書の目的を語ります。読者を目覚めさせること。それが目的なのです。
「自分の思考と自分自身とを切り離し、一瞬であっても、考えている心からその背景にある気づきに自分自身のアイデンティティが移行したことがある人は、その体験を決して忘れない。またアイデンティティの移行が非常に微妙だったためにほとんど気づかなかったり、理由はわからないままに喜びや内面的な安らぎだけを感じ取る人もいる。」(p.40)
ここで言うところの「アイデンティティの移行」が、私が経験したものを指すのかどうかはわかりません。私も2007年ころと今回、大いなるものに抱かれたような安心感と解放感を感じました。
「自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全にゆるせない何者かが、つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨を生かし続けている思考に気づき、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。怨恨を捨てようとしてはいけない。怨恨を捨てようとかゆるそうとしてもうまくいかない。怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいたとき、自然にゆるすことができる。」(p.77)
私たちの生活において、怒りをどう処理するかということは、実に大きな問題です。この処理が上手くできず、恨みを抱えて自己や他者を傷つけたりしがちです。
許そうとすると、許せない自分を許せなくなったり、許せなくて当然だという理由をつくりあげたりします。ですから重要なのはまず、その思考をしっかりと観察し、湧き起こった感情を感じ切ること。それをしなければ、本当の意味での許しはできないのですね。
「実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。
自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。正しいというのは、ある精神的な立場−−視点、見解、判断、物語−−と自分を同一化することだ。もちろん自分が正しいと言うためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。」(p.78)
すぐに他人を批判非難し、自分の正義を押し付けようとする人は、それによってエゴを強化していることになります。
「他人に傷つけられそうになって自分や誰かを守る必要がある場合もあるが、「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけたほうがいい。そんなふうに考えると、自分も闘う相手と同じことになってしまう。無意識のままで闘うと、あなた自身が無意識に引っ張り込まれてしまう。無意識つまりエゴイスティックな行動は、闘っても退治できない。たとえ相手を打ち負かしても、その無意識は単にあなたのなかへ移行するか、新しい姿で現れるだけだ。何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく存在し続ける。」(p.86)
「闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くするし、たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっと手ごわい新しい敵、新しい悪を生み出す。」(p.87)
抵抗すること、闘うことは、その対象に力を与えることになると、「神との対話」でも言っています。自分の正義を振りかざして他者を断罪する行為は、他者の存在を強め、さらなる闘いに引き込まれるのです。
「エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくことだけだ。気づきとエゴは共存できないからである。」(p.89 - 90)
闘うのではなく、気づくことが重要なのだと言います。そうすることでエゴから解放され、目覚めることができるのだと。
「スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え、感じている対象はつきつめてみれば自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり見抜くことである。」(p.90)
エゴは物事に自分を同一化して、「自分の○○」のように定義します。しかし、そこに自分はいないのです。それに気づくことが目覚めなのです。
「エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想は決してあなたを満足させてはくれない。ほんとうのあなたに気づくことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。」(p.92)
エゴを突き動かしているのは、「不安」なのですね。しかし、不安を動機とした行動は、また不安を生み出すだけです。したがってエゴの行動では、本当の安心は得られません。
怒りや恨みなど、ネガティブな状態は、自分自身に悪影響を及ぼします。それなのに、どうしてそういう考え方をするのでしょう?
「ネガティブな状態になったとき、あなたのなかには必ずその状態を望む何者かがいて、そのネガティブな状態を喜びだと感じるか、それによって欲しいものが手に入ると信じている。」(p.125)
「だから自分のなかにネガティブな状態が生まれたとき、そのネガティブな状態に喜びを感じる、あるいはそれが目的達成に役立つと考える部分があると気づけたなら、あなたはまさにエゴに気づいたことになる。そのとき、あなたのアイデンティティはエゴから気づきへとシフトしている。エゴが縮み、気づきが成長したということだ。」(p.125)
まず自分がネガティブな状態になっていると気づくこと。そして、自分の中にそれを望む部分(=エゴ)があると気づくこと。アドラー心理学で言うなら、その目的ですね。それに気づけば、自分の本質ではないエゴの存在に気づいたことになるのです。
「それでは、いま安らぎを得るにはどうすればいいか? いまという瞬間と仲直りすることだ。いまという瞬間は、生命というゲームが展開している場である。生命は他のどこで展開することもあり得ない。いまという瞬間と仲直りしたら何が起こるかを、自分には何ができ、どんな行動を選ぶことができるかを、それよりもあなたを通して生命がどう展開するかを見つめよう。生きる秘訣、すべての成功と幸福の秘訣は、次の言葉に要約できる。「生命とひとつになること」。生命とひとつになることは、いまという時とひとつになることだ。そのときあなたは、自分が生命を生きているのではなく、生命があなたを生きているのだと気づく。生命が踊り手で、あんたが舞踊なのだ。」(p.129)
詩的でわかりにくいかもしれませんが、言葉を味わってみてください。多くの人が言うように、「いま、ここ」しか本質的にはあり得ず、それは「ひとつのもの」なのです。そのことに気づくことが、人生の目的であり、成功であり、それは幸せなことなのです。
「ときには報酬も名誉や栄達も求めず、集団の大きな目的のために生涯をささげ、個人的なエゴが完全に溶解したように見えることもある。個人的な自己というすさまじい重荷から解放されれば、さぞやせいせいするだろう。そういう集団のメンバーはどれほど仕事が大変でも、どれほどの犠牲を払っても、満ち足りて幸せだと感じる。彼らはエゴを超越しているように見える。問題は、ほんとうにエゴから解放されたのか、それともエゴが個人から集団にシフトしただけなのか、ということだ。」(p.139)
異常なナショナリズムのように、集団の目的のために個を埋没させることがあります。それはエゴの消滅ではないと言うのですね。注意しなければならない点です。
一言で言えば「悟り」とは「いまに在る」ことです。それは具体的に、次のようなことだと言います。
「考えても「いまに在る」ことは理解できない。それどころか多くの場合、誤解する。気遣いがない、よそよそしい、愛情がない、無関心だ、と言われることもある。だがほんとうは、思考や感情よりももっと深いレベルで関心を寄せている。それどころか、そのレベルでこそ、ただ関心を寄せるだけでなくほんとうに気遣い、ともにいることができる。「いまに在る」静謐(せいひつ)のなかで、あなたは自分と相手の形のない本質を感じる。あなたと相手がひとつだと知ること、それこそが真の愛であり、気遣いであり、共感だ。」(p.192)
マザーテレサは、愛の反対は無関心だと言いました。しかし、一見すると無関心に見えることが、本当の愛であると言うのです。
このことは、愛が何であるかを理解すると、わかるようになります。心配するのは愛ではない、という言葉の意味がわからなければ、本当の愛がわからないのです。
普段、自分を何者だと考えているか?それによって、自分に必要なもの、人生で大事だと感じるものが決まると言います。
「あるいは「私は自分が不死の霊(スピリット)であることを知っている」「もうこんなおかしな世界にはうんざりだ。私が望むのは平安、それだけだ」と言う人もいるだろう。だがそれも電話のベルが鳴るまでのことだ。悪い知らせが来る。株価が大暴落した。取り引きが失敗しそうだ。(中略)相手はあなたのミスだと言う。ふいに怒りや不安がふつふつと湧き起こる。声が荒々しくなる。「もう、黙っちゃいないぞ」。あなたは詰(なじ)り、非難し、攻撃し、自己防衛し、自分を正当化する。すべては自動操縦で行われる。」(p.205)
このように現実の出来事に反応する自分を見るとき、取り引きや金銭などの方が重要だと考えていることがわかります。そして、それを大事だと考えているのは不死の霊(スピリット)ではなく、「小さな私」(=エゴ)なのです。「小さな私」を自分だと考えていることが、これではっきりするのです。
「彼らの現実はすべて、自分は何者かという妄想の上に築かれている。それが状況の妨げになり、すべての人間関係を損なう。自分が考える自分に欠乏−−お金でも、承認でも、愛でも−−という考え方がしみつくと、いつも欠乏を経験する。すでにある自分の人生の豊かさを認めず、欠乏ばかりが目につく。すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。」(p.208)
自分が「小さな私」だと考えていれば、あらゆるものから守らなくてはならなくなります。あらゆる欠乏に対処せざるを得なくなります。しかし、それでは真の豊かさを経験できません。すでにあるものの中に豊かさを見ることが大切なのです。
「次のことを何週間か試して、結果がどうなるかを見ていただきたい。人々が物惜しみをして与えてくれないと思っているもの−−賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い、等々−−を自分から他人に与えるのだ。そんな持ちあわせはない、って? あるようにふるまえばよろしい。そうすれば出てくる。そして与え始めるとまもなく、与えられるようになる。与えないものは受け取れない。出力が入力を決める。世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているものは、あなたがすでにもっているのに出力しようとしないもの、それどころかもっていることを知らないものだ。そのなかには豊かさも含まれる。」(p.208 - 209)
まず自分自身でやってみなさいと言います。たとえなくても、あるふりをして、与えなさいと。そうやって、与えたものが返ってくることを体験するのです。
「何が起ころうと気にしない。これは何を意味するのか? 自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。(中略)その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に心のなかで抵抗せずにいるということである。起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。」(p.216 - 217)
これはインドの覚者、J・クリシュナムルティが、自分自身の秘密として「私は何が起ころうと気にしない」と言ったことに対する説明です。
つまり、どんな出来事が起ころうとも、それを否定したり、変えようとするなどの抵抗はせず、「そうか、起こったのか。」という態度で受け入れるということです。しかしそれは、しぶしぶ認めるとか、変化させることを諦めるという受け入れ方ではなく、それを前提として自分らしく生きることです。
「神との対話」では、人は何かによって幸せになるのではなく、まず幸せになって、それを前提として行動するのだと書かれています。ここで言っていることも同じで、自分らしい在り方(愛、幸せ、寛大、豊かなど)を選択して、それを前提として行動するなら、その行動は導かれて、より良い現実を生むのです。
本書では続けて、白隠禅師のエピソードを紹介しています。言いがかりを付けられたとき、白隠禅師は「ほう、そうか?」と言うだけで、批判も否定もしませんでした。
「彼は良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。起こる出来事を個人的なものとして捉えない。彼は誰の被害者でもない。彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。起こった出来事に抵抗しようとするからその出来事に翻弄されるし、幸福か不幸かをよそから決められることになる。」(p.218)
自分を守りたかった女性のウソで、生まれた子どもの父親にされてしまった白隠禅師は、子どもを引き取って、愛情を込めて育てました。白隠禅師が抵抗しなかったから、子どもは慈しまれた。そして、女性のウソであったことがわかったとき、すべてが良い方向に解決したのです。
「簡単に言えば、エゴとは現在という時との関係の機能不全であると定義してもいい。あなたが現在という時とどのような関係でいたいかを決められるのは、いまのこの瞬間だ。
(中略)
現在という瞬間を友人としたいか、敵としたいか? 現在という瞬間は人生(生命)と切り離すことができないのだから、実は人生(生命)とどんな関係でいたいかを決めることでもある。いまという瞬間を友人としたいと決めたら、まずあなたが働きかけるべきだ。それがどんな姿で現れようとも、友人らしく歓迎すること。そうすればどうなるかはすぐにわかる。人生(生命)はあなたの友人として接してくれる。人々は親切になるし、状況は都合よく展開する。一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。だがこの決断は何度も繰り返してしなければいけない−−それが自然な生き方になるまで。」(p.219)
このように、自分自身が主人公として現在という瞬間との関係をまず決めるのだと言います。友人か、敵か? 相手を見て決めるのではなく、まず自分が決めるのです。
そして友人だと決めたなら、相手(現在という瞬間=起きた出来事)がどうかに関係なく、そのように扱うこと。そすると相手もまた、友人として接してくれるのです。それを何度も何度も繰り返すことで、それが私たちの習慣となり、生き方になるのです。
「現在という瞬間を友人としようという決断は、エゴの終わりを意味する。エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。ということは、人生(生命)と調和できないということだ。エゴの本質は「いま」を無視し、抵抗し、貶(おとし)めるようにできている。エゴは時間のなかで生きている。エゴが強ければ強いほど、人生はいっそう時間に支配される。そうなるといつも過去か未来のことばかり考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示している。」(p.219 - 220)
エゴは、現在という瞬間には生息できません。ですから、いま、ここにいることは、エゴから離れることになります。不安や期待、罪悪感などは、エゴが動きまわって意識が機能不全であることを、魂の声(感情)が教えてくれているのです。
「無抵抗は宇宙最大の力を開く鍵である。その力によって、意識(スピリット)が形から解放されて自由になる。(どんな状態、どんな出来事でも)形に対する内なる無抵抗は、形の絶対的なリアリティの否定だ。抵抗すると、形への自分の同一化であるエゴを含め、世界と世界のものごとはますます実際よりもリアルに、頑強に、永続的に見えてくる。世界とエゴに重みと絶対的な重要性を付与してしまい、自分自身と世界を非常に深刻に受けとめることになる。そうすると形の世界の動きを生存競争と誤解し、その誤解がそのままあなたの現実になる。」(p.227)
仏教ではサレンダー(降参する)と言うそうですが、目の前に起こった出来事や現実(=形)は幻想なのですから、それに抵抗しないことです。抵抗すれば、その形はますます力を持ち、存在し続けると「神との対話」でも言っています。
「生きる喜び(真の幸福はこれだけだ)は形や所有や達成や人間や出来事を通じてもたらされはしない−−起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ない。その喜びは外からもたらされることは決してない。それはあなたのなかの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。」(p.232)
幸せとは「生きる喜び」であり、それは自分と不可分なもの。ですから、何があってもなくても関係なく、幸せでいられるのです。
スーフィー教徒に伝わる古い物語で、王から悟る方法を尋ねられた賢者が、ある言葉が彫られた金の指輪を王に渡したという話があるそうです。そこには、「これもまた過ぎ去るだろう」と彫られていたとか。
「抵抗しない、判断しない、そして執着しない。この三つは真の自由の、そして悟りを開いた生き方の三つの側面なのだ。
指輪に記された言葉は、人生の良いときも楽しむなと言っているわけでもないし、苦しいときの気休めを提供しているわけでもない。この言葉にはもっと深い意味がある。すべての状況は変化し、すべての形は(良いものも悪いものも)一時的でしかないと気づきなさいということだ。」(p.244)
すべての形が無常なら、形に対する執着は減るでしょう。だって、仕方がないことですから。また、その形が良いものであれば、それを愛しく思い、もっと楽しめるでしょう。また、その良いものを失うのではという不安にとらわれず、今を楽しめるはずです。
エゴを押し出して本当の自分に気づくための方法として、トール氏は「呼吸を観察してみる」ことを勧めます。
「呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけ多く繰り返す。これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。」(p.263)
これは簡単にできそうですね。動きを緻密に見て(感じて)いく瞑想法がありますが、それと同じかもしれません。
「呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる−−これがすべての内なる変容の鍵なのだ。」(p.264)
考えるのではなく「観察する」こと。それが、いま、ここに「在る」ためのポイントなのです。
「あなたの内なる目的はまことにシンプルだ。目覚めること。あなたはこの目的を地上のすべての人と分かち合っている。これは人類の目的だからだ。あなたの内なる目的は全体の、宇宙の、現出しつつある知性の目的の一環で、それと不可分だ。外部的な目的は時とともに変わり得る。人によっても大きく違う。内なる目的を見出してそれと調和した生き方をすること、それが外部的な目的達成の土台だ。真の成功の基盤である。この調和がなくても、努力や苦闘、断固たる決意、この上ない勤勉、あるいは狡猾(こうかつ)さによってある種の目標を達成することはできるだろう。だがそこに喜びはないし、結局はなんらかの形の苦しみにつながる。」(p.278)
私たちの目的は、「目覚めること」だと言います。そして、これが土台となって初めて、外部的な目標達成も意味を持つと言うのです。
「目覚めとは意識の変化であり、その変化した意識のなかで思考と気づきが分離する。ほとんどの人にとって、これは一度限りの出来事ではなくて過程、プロセスとして訪れる。」(p.278)
阿部敏郎さんなどのように、突然に悟ってしまうような特異体験をする人もいます。私はここにあるように、これまでの知識がふと「ストンと腹に落ちる」ような体験が、何度か起こるタイプのようです。
「目覚めると、思考に呑み込まれて自分を失うことがなくなる。思考の背後にある気づきが自分だとわかる。すると思考はあなたを振り回して指図をする利己的で自律的な活動ではなくなる。思考の代わりに気づきが主導権を握る。思考はあなたの人生の主役ではなくなり、気づきに仕えるようになる。目覚めとは、普遍的な知性と意識的につながることだ。言い換えれば「いまに在る」こと、思考なしの意識である。」(p.279)
「目覚めに関してあなたにできることは何もない。何かをしようとしても、それは目覚めや悟りを価値ある所有物として獲得し、自分をもっと重要に大きく見せようとするエゴの試みになってしまうだろう。」(p.279)
目的が目覚めることであっても、目覚めるためにできることは何もないのです。悟りは与えられるものであって、努力して得るものではないと、多くの人が言っている通りです。
「人を助けること、子どもを育てること、どんな分野でも卓越しようと努力することに価値がないと言っているのではありませんよ。こういうことはみな、多くの人にとっては大切な外部的な目的です。でも外部的な目的はつねに相対的で、不安定で、一時的です。だからって、そういうことをするなと言うのではありません。それを内なる第一義的な目的と結びつけなさい、そうすればあなたの行動にもっと深い意味が生まれますよ、と言っているのです。」(p.284)
外部的な目的が、「目覚めること」という第一義的な目的よりも優先すると、エゴが動き出します。ですから、まずは「目覚めること」を第一目的として、外部的な目的を考えるようにと言うのです。
「思考と気づきの分離、それが第一義的な目的の核心にあるのですが、これは時間の否定を通して起こります。(中略)
いましていること、いまいる場所を人生の主要な目的とみなすなら、あなたは時間を否定しているのです。これはとても大きな力ですよ。たったいましていることを第一に考えて時間を否定すると、内なる目的と外部的な目的、『在ること』と『行うこと』がつながります。時間を否定すると、エゴを否定することになるんです。何をするにしても、すばらしくうまくできます。行為そのものが関心の焦点になりますからね。」(p.285)
「時間を否定する」というのは、時間の概念にとらわれないと言うか、過去や未来に思いを馳せないという感じでしょうか。「前後際断」という言葉がありますが、まさにそういうことでしょう。結果というのは未来にあります。結果がどうなるかを気にせず、今行っている行為に意識を集中する。それが「時間を否定する」ことになります。
そして、結果を気にせずに行為に意識を集中することが、「目覚める」という目的にも適うのです。
「職場やその他の場所で人と会うときには、相手に関心のすべてを注ぎなさい。あなたは個人としてそこにいるのではなく、気づきの場として、研ぎ澄まされた『いまに在る』状態として、そこにいるのです。人との関わりの本来の理由−−モノの売り買いや情報のやりとりなど−−は、二次的なことになります。二人の人間のあいだに立ち上がる気づきの場、それが人との関わりの第一義的な目的になるのです。」(p.289 - 290)
人間関係においても同様なのですね。仕事を遂行する関係とか、家族が睦み合う関係とか、そのためにする行為だとか、そういうのは二次的なことになります。重要なのは、「目覚めること」という目的に照らして、2人がそこにいるということです。
「「世間では、成功とは目標を達成することだと言うでしょう。成功とは勝利であり、認められることや豊かになることが成功の不可欠の要素だと。でもいまあげたのは通常の成功の副産物ではあっても、成功そのものではありません。世間一般に言う成功とは、あなたの行為の結果のことです。成功とは刻苦勉励と幸運が、あるいは強い意志と才能が合わさったものだとか、適切なときに適切な場所に居合わせることだと言うでしょう。どれも成功の要素かもしれませんが、本質ではありません。世間が教えてくれないのは−−知らないから教えられないのですが−−あなたは成功者になることはできない、ってことです。できるのはいま成功すること、それだけです。成功とは、いまこの瞬間での成功でしかない。そうじゃないなんていう誤った世間の言葉に耳を貸してはいけません。では、いまこの瞬間の成功とは何か? 自分の行為に、それがどれほどシンプルな行為であっても、質の裏打ちがあることです。質の裏打ちがあるとは、心遣いと関心、つまり気づきがあるということです。質の裏打ちがあるためには、あなたが『いまに在る』必要があるんです。」(p.290 - 291)
成功について、単に金持ちになったとか、有名になったとか、業績を上げたなどは、本当の成功ではないと言います。何かの結果、手に入れるものではなく、いま成功することしかないのだと。
そのためには、何かの行為をする時、気づいていることが大切なのですね。思考に踊らされずに、気づいて、いま、ここに在ること。それがすぐさま成功だと言います。
「人によっては過去ととつぜん、あるいは徐々に訣別(けつべつ)するでしょう。仕事、生活環境、人間関係−−すべてが根源的な変化を遂げます。」(p.293)
内なる目的を認識すると、外部的な変化が起こると言います。それによって、外部的に自分が何をすべきなのか、自ずとわかるのですね。
「表面的にはネガティブに見える変化もあるでしょうが、いずれは新しい何かが生まれるための空間ができたのだと気づくでしょう。」(p.294)
リストラや離婚、失恋など、ネガティブな変化があるかもしれませんが、それもまた人生に新たな空間を作るためのもの。別れなければ出会えないし、離れなければ新たな関係は結べないのです。
「不安で不確定な時期も通るでしょうね。自分は何をすべきなのか? 人生を動かすのがエゴではなくなると、外部的な安定に対する心理的な要求も(これは結局は幻想ですが)減少します。そうなれば不確定でも生きられるし、それどころか楽しむことさえできるようになります。不確定に安んじていられると、人生に無限の可能性が開けるのです。もう恐怖は行動の支配的な要素ではなくなるし、変化を起こす妨げにもなりません。」(p.294)
安定を失うことは、エゴにとっては恐怖です。しかし、そこでエゴの恐怖に振り回されていては、内的な気づきを得られません。
こういうときこそ、内的な気づきを得て、エゴを追い出すチャンスだとも言えます。そうすることで、不確定な状況でさえ楽しむことができるのだと。
「個人の生命(人生)における回帰の動きが起こるときには、つまり老齢や病気、心身の障害、喪失、個人的な悲劇などを通じて形が弱まり解体するときには、スピリチュアルな目覚めの大きなチャンスが存在する。意識が形との同一化を解消するチャンスだ。現代文明にはスピリチュアルな真実はほとんどないので、これをチャンスと捉える人は多くない。だから自分や近しい人にその時が訪れると、人は何かとんでもなく間違ったことが、起こってはならないことが起こったと考える。」(p.307)
私たちの生命(この世の命)がピンチを迎えた時は、実は目覚めのチャンスなのだと言います。しかし、多くの人はそのことに気づかず、チャンスを逃してしまいがちなのでしょうね。
「結局のところ、起こるべきでないのに起こることなどないのだ。つまり偉大なる全体とその目的の一部でないことなど、いっさい起こらない。だから外部的な目的に破壊や阻害は内なる目的の発見に、さらには内なる目的と調和したもっと深い外部的な目的の出現に結びつくことがある。大きな苦しみを経験した子どもは、年齢よりもはるかに成熟した幼いおとなへと成長することが大きい。」(p.309)
親との死に別れなど、この世的には不都合な出来事が起こる場合があります。しかしそれも、目覚めにとっては良いことなのかもしれません。
「あなたの行動には、つまりあなたを通じてこの世界に流れ込む意識のモードには三種ある。あなたが人生(生命)を宇宙の創造的な力と調和させる三つの方法である。この三つのモードは、あなたの行動に流れ込んであなたの行動をこの世界に生じつつある目覚めた意識と結びつけるエネルギーの周波数を意味する。この三つ以外のモードであれば、あなたの行動はエゴによる機能不全のそれになるだろう。またこのモードは一日のなかでも変化するかもしれないが、人生のある段階ではどれか一つが支配的になるだろう。状況によって適切なモードは異なる。
目覚めた行動の三つのモードとは、受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす、の三種である。」(p.317)
宇宙の創造的な力と調和させるとは、つまり目覚めようとすることです。エゴをおとなしくさせ、気づきに至ろうとする時、「受け入れる」「楽しむ」「情熱を燃やす」の3つのモードのいずれかを、自分の意識が採用すべきだと言うのです。
「たとえば深夜、見知らぬ場所で篠(しの)つく雨のなか、パンクしたタイヤを交換しなければならないとしたら、情熱を燃やすどころか楽しむことだってできないだろうが、受け入れることはできる。受け入れれば、安らかな気持ちで行動できる。」(p.318)
「起こったことはしょうがない」と状況を「受け入れる」ことが、気づきの第一歩なのですね。あとは「楽しむ」「情熱を燃やす」という精神の状態で行動すれば、気づきが加速されるのでしょう。
「人生の主たる目的は意識の光をこの世界に持ち込むことだと気づいて、することなすことすべてを意識のための道具にする人が増えていけば、新しい地が生まれる。
「大いなる存在(Being)」の喜びは、意識的であることの喜びである。
目覚めた意識はエゴから自分を取り戻し、人生(生命)の主役になる。そのときあなたは、それまで長いあいだしてきた行動に意識の力が加わって、いつのまにかもっと大きなものになっていくのを感じるだろう。」(p.321)
外部的な目的はどうでもよくて、意識のための道具として行動する。それが先ほどの3つのモードであり、そうすることが重要だと気づく人が増えれば、世界が変わっていくのですね。
私たちは、その目的に気づくことで人生の主役となり、本来の自分として生き始めるのです。それが私たちの喜びでもあり、大いなる存在の喜びにもなるのです。
「彼らの仕事はこの地球に新しい意識の周波数を根づかせる錨(いかり)となることだ。そこで、この人たちを新しい意識の担い手と呼ぼうと思う。彼らの使命は日々の暮らしを通じて、「ただ在ること」と他者との関わりを通じて、新しい意識を生み出すことだ。
この人たちはそのあり方を通じて、一見ささいなことに深い意味を付与する。彼らが何をするにしても、その仕事はまさにいま、ここに在ることを通じて広い静寂をこの世界にもたらすことだ。彼らの行動はどんなシンプルなものでも意識がこもっており、したがって質が高い。彼らの目的はすべてのことを聖なるやり方で行うことだ。個々の人間は人類の集団的意識と不可分だから、彼らが世界に与える影響は表面的に見えるよりもはるかに深い。」(p.328)
ここで言う「彼ら」とは、瞑想家とか黙想家などと呼ばれるような、穏やかな暮らしをする人たちのことです。見た目の派手さはありませんが、人類の集団的意識に与える影響は大きいのですね。
分厚い本を通じて、トール氏はエゴの働きを抑えて、気づくことを促します。目覚めることが本当の目的であり、そのために外部的に行うべきことは何もないのです。
具体的に、どうすれば良いのかという指針も書かれています。とても長く、言い回しもわかりづらい部分もありますが、読んでみる価値のある一冊だと思います。
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