前作の「「嫌われる勇気」(アドラー心理学)の要点」も記事にしていますので、そちらも合わせてご覧ください。
なお、これも前作と同様に、哲人と青年との対話形式で進む物語となっています。そのため、ネタバレとなってしまいますのでご注意ください。
青年は教師となり、さっそくアドラー心理学を応用しようとします。しかし、「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針は、上手く機能しませんでした。
理論は素晴らしくても、実践には使えない。そう感じた青年は、哲人を論破すべく、再び哲人のところへやってきたのです。
その青年に対し、哲人はすぐさま「アドラーを誤解している」と青年の過ちを指摘します。
「もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解しています。アドラーがわれわれに要求することの内実を理解すれば、その厳しさに身を震わせることになるはずですから。」(p.8)
哲人も同様に迷った時期があったそうですが、幸い主夫として幼い子を育てていたため、その体験から理解を深めたと言います。そして、それによって得た確証を、こう言います。
「ひと言でいうなら、「愛」です。」(p.9)
「アドラーの語る愛ほど厳しく、勇気を試される課題はありません。」(p.10)
つまり、アドラーの言う「愛」を理解しなければ、本当の意味でアドラーを理解したとは言えないし、アドラー心理学を実践に応用することもできない、と言うのです。
さらに、哲人は青年に、こう言いました。
「あなたはまだ、「人生における最大の選択」をしていない。」(p.11)
最大の選択とは何かという問いに、哲人は「愛」だと答えます。
この本のテーマは「幸せ」ですが、その背景には「愛」があり、「愛」の問題だと宣言しているのです。
まず、アドラー心理学が掲げる目標を確認します。
「行動面の目標は次のふたつ。
@自立すること
A社会と調和して暮らせること
そしてこの行動を支える心理面の目標が、次のふたつでした。
@わたしには能力がある、という意識
A人々はわたしの仲間である、という意識」(p.38)
カウンセリングで教育の場でも、この4つが重要だと言います。アドラーはカウンセリングを「治療」ではなく、「再教育」の場だと捉えていたからです。
そこで最初の「自立」という目標を掲げたときのとっかかりとして、「尊敬」することだと言います。
「これは親子であれ、あるいは会社組織のなかであれ、どのような対人関係でも同じです。まずは親が子どもを尊敬し、上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。」(p.41)
まず良好な関係を築くことが重要で、そのために上の立場の人から尊敬するのです。しかもそれは、無条件の尊敬です。相手に問題があるとか関係なく、ただ尊敬するのです。
では、その「尊敬」とはどうすることなのか?
「目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。なにかの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし、誰かから「ありのままの自分」を認められたなら、その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。」(p.43)
条件をつけずにありのままの相手を認めることで、相手が自立に向かう勇気づけをする。それが「尊敬」だと言います。
そして、その具体的な第一歩として、「他者の関心事」に関心を寄せることだと言います。相手の関心事を評価したり否定するのではなく、ただ関心を寄せるのです。それが「共感」だと言います。
「共感」とは、「わたしも同じ気持だ」と同意することではありません。それは単に同調だと言います。
「共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度なのです。」(p.55)
では、どんな技術であり、態度なのか?
「われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だと。」(p.52)
しかし、他者がどう感じるのか、その主観的な感覚を共有することは難しいように思えます。そこで、この言葉の意味を、こう説明します。
「まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。そうすれば、「きっと自分も、この人と同じような課題に直面するだろう」と理解できるはずだ。さらにそこから、「きっと自分も、この人と同じようなやり方で対応するだろう」と想像することができるはずだ、と。」(p.54)
この技術を身につけ、自ら率先して「尊敬」がどういうものであるかを提示する。それが、相手に「尊敬」を教えることにもなるのです。
アドラー心理学は「目的論」と言われます。「原因論」だと、過去のトラウマのようなものが原因で、今の自分がこうなのだと説明します。しかし「目的論」では、自分がこういう目的を持っているから、それを達成するために今の自分を選択していると説明します。
「つまり、われわれは過去の出来事によって決定される存在ではなく、その出来事に対して「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。」(p.61)
今の自分を肯定する人は、不幸だった過去の出来事も肯定的にとらえます。「あの苦労があったから、今の自分がある。」というように・
逆に今の自分に満足していない人は、それを過去の出来事のせいにします。そうすれば、今の自分に不満足な自分を、そのままでいいと思えますからね。
「いいですか、われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。」(p.65)
このように、過去は捏造されるものだと言います。歴史が勝者によって書き換えられるのと同様に、自分の過去は、今の自分に都合よく書き換えられるのです。
ここで哲人は、カウンセリングで用いる三角柱について説明します。三角柱の各面には文字が書いてあります。「悪いあの人」「かわいそうなわたし」「これからどうするか」です。
ほとんどの相談者は、何も言わなければ前の2つについて語ります。それに同調したとしても、一時の慰めを得るだけで、本質的な解決にはならないと言います。それでは、カウンセラーに依存するだけです。
そこでカウンセラーは三角柱を相談者に渡し、自分が話すことの面を向けて、何でもいいから話すように言います。すると相談者は、自ら「これからどうするか」を選び、それについて語るのだそうです。
このことは、依存させることは本質的な解決にならない、というアドラー心理学の基本的な考え方を示しています。このことが、叱ることはもちろん、褒めることさえしないという、アドラーの考え方につながるのです。
哲人は、学級は独裁国家ではなく、民主主義国家でなければならないと言います。
「学級という国家の主権者は教師ではなく、生徒たちである。そして学級のルールは、主権者たる生徒たちの合議に基づいて制定されなければならない。」(p.82)
クラスが荒れたりする原因は、教師が独裁者になっているからだと言います。なぜそうなのか?
本来、人それぞれ価値観が違うにもかかわらず、教師が特定の価値観を生徒に押し付けようとする。つまり管理しようとする。これが独裁国家です。そのためのツールが、「叱ること」「褒めること」なのです。
ここで、人が叱られるようなことをするのには、いくつかの段階があると言います。まずは、「それがよくないことだと知らなかった」という可能性です。
この場合、知らなかったのだから教えて理解させれば良いだけで、ここで叱る必要性はありません。それ以降の段階は、良くないことだとわかっていながら起こす問題行動になります。
まず最初は、ほめてほしいという欲求を満たすための「称賛の要求」という段階です。いわゆる「いい子」です。彼らは、行っていることが「良いこと」だから行うのではなく、褒められるから行っています。
「彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです。」(p.92)
この後、「注目喚起」「権力争い」「復讐」「無能の証明」と、徐々にエスカレートしていきます。最初は、問題行動を起こして注目されたい、というところから反抗が始まります。次には無関心よりは叱られたい、権力を競いたい、復讐したい、というようになるのです。
なぜこのように、問題行動がエスカレートするのでしょうか?
「そしてそのすべては「所属感」、つまり「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。」(p.104)
つまり、その共同体の中で自分が何か貢献していて、役立っているという幸せを感じたいのです。しかし、どうすれば役立っているのかわからない。そのとき、独裁者が方向性を示せば、それに従おうとします。つまり、独裁者に依存してしまうのです。
しかし、独裁者が何を良しとするかはわかりません。価値観は人それぞれですから。また、仮にわかったとしても、それが自分にはできないこともあります。たとえば独裁者が、忘れ物をしたことを叱っても、どうしても忘れ物をしてしまう生徒がいます。するとその生徒は、それでも独裁者から褒められたいので、自分ができる他の方法を考えます。それが問題行動になるのです。
おそらくアドラーを理解できない人は、登場する青年のように、絶対的な価値観があると信じている人なのでしょう。つまり、他者を強制して、一定の価値観に従わせなければならないと考えている人。本当は絶対的な価値観などないのだと理解できない限り、アドラーを理解することは不可能だと思います。
「子どもたちの問題行動を前にしたとき、親や教育者はなにをすべきなのか? アドラーは「裁判官の立場を放棄せよ」と語っています。あなたは裁きを下す特権など与えられていない。」(p.115)
裁くことができるのは、その価値観が絶対的に正しいからです。その価値観に従わせなければならないからです。しかしアドラーは、親や教育者にはその特権はないと言います。そして、叱責や暴力は、一時的に恐怖心で従わせることができたとしても、子どもたちを自立させることができません。
「叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。このことは、子どもたちも十分に理解しています。叱責を受けたとき、暴力行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうちに働きます。
(中略)
怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。」(p.116)
つまり、叱責やその延長上の暴力は、人間関係から信頼や尊敬というものを奪うことになります。そのような共同体が、果たして幸せな人々で構成されるでしょうか? 考えるまでもなく、答えは明らかです。
叱ってはいけない。褒めてもいけない。それで生徒たちが悪いことをしたら、「これからどうするか」を問う。そんなことでは、単に「もうしません」と言うだけではないかと、青年はくってかかります。しかし哲人は、反省を強要しても意味がないと答えます。
「よく、謝罪文や反省文を書かせる人がありますが、これらの文書は「許してもらうこと」だけを目的に書かれたものであって、なんら反省にはつながらない。書かせる側の自己満足以上のものにはなないでしょう。そうではなく、ここで問いたいのは、その人の生き方なのです。」(p.118)
反省させることが無意味であることは、以前紹介した「反省させると犯罪者になります」にもありました。アドラーも同様に考えていて、重要なのは生き方だと言います。
哲人は、カントの言葉を紹介します。
「人間が未成年の状態にあるのは、理性が欠けているのではない。他者の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。つまり人間は自らの責任において未成年の状態にとどまっていることになる」(p.119)
私たちは、「他者の指示」によって動いた方が、考えなくて良いから楽だと思っています。それは大人たちが、他人を支配下に置こうとして、子どもたちを「未成年の状態」置くべく、自立の恐怖を吹き込んでいるからです。「社会はそんなに甘いモノじゃない」などと言って、不安を煽っているからです。
大人たちがそうするのは、子どもたちが自立して対等になることを恐れているからだと言います。自分たちの権威を守ろうとして、子どもたちを従順な羊に仕立てあげるのです。
「だからこそ、教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかねばならないのです。」(p.122)
カウンセラーも相談者を、「依存」と「無責任」の地位に置かないよう注意すると言います。「先生のおかげで治りました」と言われるようでは、何も解決していないのだと。
子どもに対しても、「遊びに行っていい?」と尋ねられて、「宿題が終わってからね。」と答える親は、子どもを「依存」と「無責任」の地位に置いていると指摘します。では、どうするのが良いのか?
「自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料−−たとえば知識や経験−−があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。」(p.123 - 124)
つまり、親や教師がルールを示すのではなく、目的のためにはどういうルールがいいのか、子どもたちに考えさせ、決めさせるということですね。宿題が先か、遊びが先かは、子どもが決めればいいのです。
「子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。」(p.125)
叱ることが良くないことは、わりと理解しやすいと思います。しかしアドラーは、褒めることも良くないと言います。それは、褒めることによって競争が生まれるからだと言うのです。
「独裁が敷かれ、民主主義が確立されていない共同体では、善悪のあらゆるルールがリーダーの一存によって決定されます。」(p.135)
国家でも会社でも家庭でも、独裁的なリーダーが恣意的にルールを決めるのです。
「さて、問題はここからです。「ほめられること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。他者がほめられれば悔しいし、自分がほめられれば誇らしい。いかにして周囲よりも先にほめられ、たくさんほめられるか。さらには、いかにしてリーダーの寵愛を独占するか。こうして共同体は、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになります。」(p.136)
「……競争相手とは、すなわち「敵」です。ほどなく子どもたちは、「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺(うかが)う油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。」(p.137)
つまり、褒めることによって、褒められたいという欲求が掻き立てられます。そのとき、ルールは独裁者が決めるので、独裁者の顔色を伺い、他のメンバーを敵とみなして蹴落とそうとするのです。
「競争のあるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。」(p.138)
これは、ルールがしっかり決まっているスポーツでもそうです。競争して勝とうとする限り、ルールのぎりぎりを突こうとしたり、あるいは、見ていないところで不正をしようとするのです。
そういう競争原理のある組織では、仲間の足を引っぱったり、他人の手柄を横取りするなどの不正が起こります。目的はリーダーの寵愛を受けることですから、そのためには何でもやるのです。
「そんな事態を招かないためにも組織は、賞罰も競争もない、ほんとうの民主主義が貫かれていなければならにのです。
(中略)
競争原理ではない、「協力原理」に基いて運営される共同体です。」(p.139)
アドラーが目指す社会は、競争を否定し、協力によって運営されるもの。そのために賞罰を否定するのです。
「アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。では、どうすれば所属感を得られるのか?
……共同体のなかで、特別な地位を得ることです。「その他大勢」にならないことです。」(p.151)
人が賞賛されたがるのは、「所属感」を得たいからだと言います。なぜなら、子どもは例外なく劣等感を抱えて生きているからです。その弱さのために共同体をつくり、協力関係の中に生きようとするのが人間なのだと。
それをアドラーは、「共同体感覚」と呼びます。他者との強固なつながりを求めること。それは劣等感に根ざした、本能的な生きる方法なのです。
「すべての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついているのです。」(p.148)
しかし、承認欲求をいくら満たしたところで、「所属感」は得られないと言います。
「ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。」(p.152)
他人から愛されることを求め、他人に依存してしまう。それと同じですね。
「「わたし」の価値を、他人に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。」(p.152)
他者からの承認ではなく、自らを承認するしかありません。他人から愛されるのを求めるのではなく、自ら自分を愛するのです。
しかし、なかなか「その他大勢」にならないことは、難しいようにも思えます。そんな個性があると思えないから、自信を持てないのです。それに対しては、「普通であることの勇気」を持てと言います。
「いいですか、「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。」(p.153)
他者から認められようとして、他者が望む何かになろうとするのではなく、今あるそのままの自分を受け入れること。自分のままでいいのだと認めること。それが重要なのです。
アドラーは、人が社会で生きていくにあたっては、直面せざるを得ない課題があると言っています。それが「人生のタスク」と呼ばれるもので、「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つからなります。
この3つのタスクは、すべて対人関係の課題だと言います。「仕事のタスク」と呼んでも、それは労働の課題ではなく、仕事に関する人間関係の課題なのです。
アドラーは、「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と言っています。もし宇宙に自分一人しか存在しないなら、何の悩みもありません。他の人がいることによって、人の苦悩は生じるからです。
「アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。」(p.178)
つまり、私たちの苦悩も喜びも人間関係にある、ということですから、私たちの人生とは人間関係であるとも言えるわけです。「神との対話」でも、人間関係がなければ私たちは進化成長できないと言っていますから、この点でも符合しますね。
「仕事のタスク」は、人間が分業することで身体的な弱さを克服しようとしたことで生じました。「われわれは働き、協力し、貢献すべきである」と言っているのは、それが人間が選んだ生き残り戦略でもあるからです。
「要するに、人間はひとりでは生きていけないのです。孤独に耐えられないとか、話し相手がほしいとかいう以前に、生存のレベルで生きていけない。そして他者と「分業」するためには、その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは、協力することができない。」(p.188)
分業する協力者として、他人を信用することが重要なのです。相手のことが好きとか嫌いとか関係なく、協力せざるを得ないから信用するのです。
そして、他者からも信用されることが重要です。「仕事のタスク」においては、どんな職業につくかは関係ありません。それは、どんな仕事であっても、共同体の誰かがやらなければならない仕事であるためです。
それより、仕事に取り組む姿勢が重要だと言います。能力よりも、「この人と一緒に働きたい」と思われることが重要だと。なぜなら、その思いによって、互いに助け合おうとするからです。
「そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。」(p.193)
教育の現場で求められるのは、「仕事のタスク」ではなく「交友のタスク」だとアドラーは言います。なぜなら、教育の目標は「自立」であり、自立を援助するには尊敬からはじめなければならないからです。
「ありのままのその人を尊重する。あなたは「あなた」のままでいいのだ。特別である必要はない。あなたが「あなた」であることには、それだけで価値が有るのだ。尊敬を通じ、そう伝えることによって子どもたちは、くじかれた勇気を取り戻し、自立の階段を登りはじめます。」(p.197)
なぜ、何の関係もない人をありのままに受け入れ、尊重できるかと言えば、その人を信頼するからだと言います。つまり、尊敬と信頼は同義なのです。
「仕事のタスク」では信用がポイントになりますが、「交友のタスク」では信頼がポイントになります。
「どんな相手であっても、「尊敬」を寄せ、「信じる」ことはできます。それは環境や対象に左右されるものではなく、あなたの決心ひとつによるものなのですから。」(p.199)
「信用」は、相手が役割を演じてくれると信じるだけです。相手の人格は関係ないし、嫌いなら嫌いのままでかまいません。しかし「信頼」は、まるごと受け入れる必要があります。ただしそれは、相手の思想信条を鵜呑みにすることではありません。
「信じることは、なんでも鵜呑みにすることではありません。その人の思想信条について、あるいはその人の語る言葉について、疑いの目を向けること。いったん保留して自分なりに考えること。これはなんら悪いことではないし、大切な作業です。その上で成すべきは、たとえその人が嘘を語っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じることです。」(p.205)
まず相手から信じてもらえなかったら、何を語っても相手には伝わりません。正論であればあるほど、それは反発されてしまいます。ですから、相手から信じてもらえるために、まず自分から先に相手を信じるのです。
また、正論で相手をねじ伏せようとしても、相手はそれに同意しようとはしません。なぜなら、正義は人それぞれだからです。
「ちいさな口論から国家間の戦争まで、あらゆる争いは、「わたしの正義」のぶつかり合いによって発生します。「正義」とは、時代や環境、立場によっていかようにも変化するものであり、唯一の正義、唯一の答えなど、どこにも存在しません。「正しさ」を過信するのは、危険でしょう。」(p.207)
相手が信じようと信じまいと関係なく、まず自分から信じる。その無条件の信頼によってのみ、相手からの信頼が得られるようになります。そして、それができるためには、前提条件があると言います。
「自分を愛することができなければ、他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ、他者を信じることもできない。」(p.209)
無条件に他人を信じることができないのは、無条件に自分を信じていないからです。だから最初に、自分自身を信じ、受け入れ、愛することが必要になります。
「交友のタスク」を行うには、「仕事のタスク」で必要な信用ではなく、信頼が必要になります。それは、無条件に相手を信じることです。
仕事で問われるのは機能であり、自分自身ではありません。常に他人と比べられる中で、能力を磨いて競争に勝つことでしか、共同体の中での所属感を得ることができません。
ですから、「仕事のタスク」から「交友のタスク」へと踏み出すことが重要なのです。そうしなければ、本当の意味での幸せを得ることができないから。
無条件に信じたからと言っても、相手から信じてもらえる保証がないのが「交友のタスク」です。だからこそ、「課題の分離」という考え方が重要になると言います。
「そこは「課題の分離」です。他者があなたのことをどう思うのか、あなたに対してどんな態度をとるのか。これはいっさいコントロールできない、他者の課題なのです。」(p.211)
どうすれば相手が信じてくれるかは、コントロールできません。つまり、相手の思考を理解することはできないのです。人と人は、わかり合えない関係になります。
「当然、相手の考えていることがすべて「わかる」ことなどありえません。「わかりえぬ存在」としての他者を信じること。それが信頼です。われわれ人間は、わかり合えない存在だからこそ、信じるしかないのです。」(p.211)
アドラーはこのように、徹底的にわからない他人を信じることが重要だと説きます。その理由は、彼が軍医として第一次世界大戦に従軍した経験にあると言います。
「アドラーは、どこまでも実践的な人物でした。フロイトのように、戦争や殺人、また暴力の「原因」を考えるのではなく、「いかにすれば戦争を食い止められるか」を考えたと言ってもいいでしょう。
人間は戦争を、殺人や暴力を希求する存在なのか? そんなはずはない。人間が誰しも持っているはずの、他者を仲間だと見なす意識、つまり共同体感覚を育てていけば、争いを防ぐことはできる。そしてわれわれには、それを成し遂げるだけの力があるのだ。……アドラーは、人間を信じたのです。」(p.214)
このように、何の根拠もなく人間を信じ、空虚な理想を追い求める姿が、非科学的だと批判を受けることになります。
「しかし、アドラーは非科学的だったのではなく、建設的だったのです。彼の原理原則は「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」だったのですから。」(p.215)
「世界平和のためになにかをするのではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の、ちいさな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくのです。
(中略)
いいも悪いも、そこからはじめるしかないのです。世界から争いをなくしたければ、まずは自分自身が争いから解放されなければならない。生徒たちに自分を信じてほしいと思うのならば、まずは自分が生徒たちを信じなければならない。自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出すのです。」(p.215 - 216)
まずは自分から無条件に他人を信じる。そこが世界平和のスタートなのだと、アドラーは考えたのです。
ここからいよいよ、アドラーが掲げる人生の最後のタスク、「愛のタスク」に入ります。「仕事のタスク」「交友のタスク」と進んだ後に、最後に残るのが「愛のタスク」です。まずアドラーは、一般的に考えられている「愛」についての常識を疑います。
「愛とは、一部の心理学者たちが考えているような、純粋かつ自然的な機能ではない」(p.227)
異性と出会った瞬間に恋に落ちるような、そういう情熱的な心の衝動は、「愛」ではないと言うのですね。では、アドラーが考える「愛」は、どんなものでしょうか。
「築き上げるものです。「落ちる」だけの愛なら、誰にでもできます。そんなものは、人生のタスクと呼ぶに値しない。意志の力によって、なにもないところから築き上げるものだからこそ、愛のタスクは困難なのです。」(p.227)
落ちる愛は、所有欲や征服欲と同じだと言います。ただ自分のものにしたいだけ。本当の愛は、手に入れることで終わるのではなく、手に入れたところから始まると言います。
「彼が一貫して説き続けたのは能動的な愛の技術、すなわち「他者を愛する技術」だったのです。
(中略)
たしかに、他者から愛されることはむずかしい。けれども、「他者を愛すること」は、その何倍もむずかしい課題なのです。」(p.231)
「われわれは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは20人で成し遂げる仕事については、教育を受けている。しかし、ふたりで成し遂げる課題については、教育を受けていない」(p.234)
「つまり、愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。しかしわれわれは、それを成し遂げるための「技術」を学んでいない。」(p.235)
アドラーは、講演のときに聴衆から恋愛相談を受けることがあったそうです。どうすれば意中の人から愛されるか? そういう人々の期待に反して、彼はどうすれば愛せるかを説きました。なぜなら、我々は愛する技術を知らないからです。
そこでいよいよ、愛する技術に入っていきます。その前提として、個人としての幸福について復習します。
「アドラーは言います。われわれはみな、「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができるのだと。自らの価値を実感し、「ここにいてもいいんだ」という所属感を得ることができるのだと。」(p.237)
しかし、実際は本当に誰かの役に立っているかを知る術がありません。たとえば農家が野菜やコメを作っていても、消費者に会うわけではないので、直接その気持を知ることはできません。ですから、「幸福とは、貢献感である」と言うのです。「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚です。
次に、幸せを求める主体を考えます。仕事においては、利己心から「わたしの幸せ」を追求すると、結果として誰かの幸せにつながるという、健全なギブ・アンド・テイクが成り立ちます。それが分業でした。そして交友の関係では、「あなたの幸せ」を考えて、ひたすら信じ、ひたすら与えるという利他的な態度が求められました。
では、愛の関係における主体は何かと問います。何を追求することで成立するのかと。
「利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。」(p.239)
つまり、「わたし」でも「あなた」でもない「わたしたち」を人生の主語にする。その幸せを考える。それが「愛のタスク」になります。
「われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これはすべての人がそうです。しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わります。利己心でもなければ利他心でもない。まったくあたらしい指針の下に生きることになるのです。
(中略)
幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。」(p.240)
個の概念が消えてなくなり、「わたしたち」という一体化したものが人生の主語になることが、「愛のタスク」では必要になるのですね。
「愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。愛によってふたりは、幸福なる生を成し遂げる。それではなぜ、愛は幸福につながるのか? ひと言でいえばそれは、愛が「わたし」からの解放だからです。」(p.240 - 241)
子どもは、その弱さのゆえに、大人たちを支配して生きようとします。そうしなければ、生きていけないからです。泣けば親が面倒を見てくれる。それが赤ちゃんの生きる術なのですね。
そしてそれは、大人になってからも続きます。自分の不幸や過去のトラウマを武器として、他人をコントロールしようとします。そういう大人をアドラーは、「甘やかされた子ども」と呼んで、そのライフスタイル(世界観)を批判しました。
「しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。」(p.244)
赤ちゃんが過剰な自己中心性から始まるのは、生きるために仕方がないことです。しかし大人になったなら、そこから脱却することが大切なのです。そこで、教育の目標である「自立」が意味を持ってきます。
「自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。」(p.244)
「そして愛は、「わたし」だった人生の主語を、「わたしたち」に変えます。われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。
(中略)
愛を知り、人生の主語が「わたしたち」に変わること。これは人生の、あらたなスタートです。たったふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう。」(p.244 - 245)
それが「共同体感覚」だと言います。本能として人間が持つ「共同体感覚」が、こうして私たちの中で育っていくのです。
そこで、「愛」についてのライフスタイルがどう変わっていくかに注目します。まず赤ちゃんの時は、自分が無力であるために、生きるために愛されようとすると言います。
「われわれはみな、命に直結した生存戦略として「愛されるためのライフスタイル」を選択するのです。」(p.240)
「「愛されるためのライフスタイル」とは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルなのです。」(p.241)
赤ちゃんの場合は、生存するために自己中心的なライフスタイルが必要でした。しかし、自立することなく成長すると、大人になってもこのライフスタイルを持ち続けることになります。
「自立とは、経済上の問題でも、就労上の問題でもありません。人生への態度、ライフスタイルの問題です。……この先あなたも、誰かのことを愛する決心が固まるときがくるでしょう。それは、子ども時代のライフスタイルとの決別を果たし、真の自立を果たすときです。われわれは、他者を愛することによって、ようやく大人になるのですから。」(p.250)
自立するとは、ただ単に働いて生活できるようになることではなく、ライフスタイルを変えることだと言います。「愛のタスク」に取り組むことによって、自立できるのです。
「愛は自立です。大人になることです。だからこそ、愛は困難なのです。」(p.250)
自立することが困難なのは、そこに不安があるからです。赤ちゃんのころは、愛されることが重要で、そのために考え、行動してきました。しかし、自立するときは、その考えを捨てなければなりません。
愛されることに執着してきた人にとって、それを捨てることは恐怖です。その不安を横に置いて、一歩を踏み出すのは勇気が要ります。そこで、フロムの言葉から次のように引用します。
「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである」(p.257)
「愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである」(p.257 - 258)
愛することを恐れるのは、たとえ愛しても愛されないかもしれないという可能性があるからです。ということは、やはり愛されないかもしれないという不安が、愛することを躊躇させると言えるでしょう。
私たちは、愛されないかもという不安があるために、相手から愛されているという一定の保証が確保されるまで、積極的に愛そうとしない場合が多いです。
「一方、フロムの語る「愛すること」は、そのような担保をいっさい設けません。相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしに、ただ愛するのです。愛に身を投げるのです。」(p.258)
愛されない不安を抱えたままでは、本当の意味で「愛する」ということはできないのですね。そこでアドラーは、「課題の分離」を持ち出します。
「課題を分離するのです。愛することは、あなたの課題です。しかし、相手があなたの愛にどう応えるか。これは他者の課題であって、あなたにコントロールできるものではありません。あなたにできることは、課題を分離し、ただ自分から先に愛すること、それだけです。」(p.259)
課題を分離して、自分は自分の課題である「愛する」ことに取り組む。つまり、勇気を出して「愛のタスク」を行うことなのです。結果に執着せず、行為(プロセス)にこだわることです。
自分を愛してくれる誰かを待つのではなく、自分から積極的に愛していく。それが「愛のタスク」です。そこでアドラーは、特別な相手の出現を否定します。
「それではまず、アドラーの基本的な立場をお答えしましょう。恋愛にしろ、人生全般にしろ、アドラーは「運命の人」をいっさい認めません。」(p.262)
「なぜ、多くの人は恋愛に「運命の人」を求めるのか? どうして結婚相手にロマンティックな幻想を抱くのか? その理由についてアドラーは、「すべての候補者を排除するため」だと断じます。」(p.262)
「出会いがない」と言って恋愛対象となる異性が現れないことをなげくのは、関係に踏み出す勇気がないからです。そういう自分を正当化するためなのです。
「そして可能性のなかに生きているのです。幸せは、向こうから訪れるものだと思っているのです。「いまはまだ幸せが訪れていないが、運命の人に出会いさえすれば、すべてがうまくいくはずだ」と。」(p.264)
では、結婚とは何なのでしょう? 人生の中で、この人となら一緒に暮らせるという特別な相手を選び、家庭を作ることではないのでしょうか?
「結婚とは、「対象」を選ぶことではありません。自らの生き方を選ぶことです。」(p.265)
「反発の多い議論であることは認めます。しかし、われわれはいかなる人をも愛することができるのです。」(p.265)
「もちろん、誰かとの出会いに「運命」を感じ、その直感に従って結婚を決意した、という人は多いでしょう。しかしそれは、あらかじめ定められた運命だったのではなく、「運命だと信じること」を決意しただけなのです。
フロムはこんな言葉を残しています。「誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である」と。」(p.265 - 266)
日本では以前、見合い結婚がほとんどでした。親同士が婚約をして、当人同士は結婚式当日に初めて会うなんてことも普通にありました。それで、結婚が上手くいかないかというと、必ずしもそうではなかったのです。
つまり結婚とは、「この人を愛する」という自分の決意に過ぎないのです。そういう生き方をするという意思なのです。相手がどうかではなく、自分がどう考えるか、どう生きるかということなのです。
私たちは、個人の幸せから踏み出して、二人の幸せを得るために、結婚を考えます。ただもっと幸せでありたいから。そのために「愛のタスク」へと進むのです。
「フロムは言います。「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」と。……アドラーならこの「信念」を、「勇気」と言い換えるでしょう。あなたはわずかな勇気しか持っていなかった。だから、わずかにしか愛することができなかった。愛する勇気を持てず、子ども時代の、愛されるライフスタイルにとどまろうとした。それだけなのです。」(p.271)
何の根拠も求めず、ただ「愛する」と決める。自分がそうしたいから、そうする。その勇気が必要なのですね。
「愛する勇気、すなわちそれは、「幸せになる勇気」です。」(p.271)
「われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。」(p.272)
本当の意味で「愛する」ことが、自己中心性から脱却して自立し、幸せになるための方法だと言います。
自己中心性とは、生存への不安から生じるものです。つまり、不安を取り除くには、愛に踏み出すしかない。まさに「神との対話」が示しているように、不安の対極は愛であり、愛か不安のどちらを選択するか、その決断が私たちに求められているのです。
しかしアドラーは、「貢献感を持てれば、幸せが得られる」と言っていました。この言葉からすると、愛することは無関係であるようにも聞こえます。それについて、このように言います。
「問題は貢献感を得るための方法、もしくは生き方なのです。本来、人間はただそこにいるだけで誰かに貢献できています。目に見える「行為」ではなく、その「存在」によってすでに貢献しています。なにか特別なことをする必要はないのです。」(p.272)
つまり、何かをすることではなく、存在するだけで貢献感が得られると言うのですね。これは、なかなか実感しづらいかもしれません。
「それはあなたが、「わたし」を主語に生きているからでしょう。愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば、変わります。生きている、ただそれだけで貢献し合えるような、人類のすべてを包括した「わたしたち」を実感します。」(p.272 - 273)
たしかに、誰かと愛し合う関係にあるときは、その相手が生きていさえすれば、それで十分だと思えます。それはまさに、存在するだけで貢献していることになるでしょう。そして、そういう関係であれば、自分も存在しているだけで、相手に貢献しているのだと実感できると思います。
ただ、その特定のパートナーだけでなく、すべての人にその感覚を広げていけるのだとアドラーは言います。それが「共同体感覚」なのだと。
けれども、私たちが本当に共同体感覚を実感する日は来るのでしょうか? 戦争をやめ、互いに手を取り合う日が来るのでしょうか? アドラーは、それが明確でなくても前に進めと言います。
「しかし、実際の人生は、なんでもない日々という試練は、「最初の一歩」を踏み出したあとからはじまります。ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気なのです。」(p.275)
いつ達成されるのか、本当に達成されるのかもわからない。でも、歩み続けよと言うのです。不都合なことと出合ったなら、理論を変えてでも進むのです。アドラーは、そうあることを望みました。
「われわれはアドラーの思想を大切にするからこそ、それを更新していかなければならない。原理主義者になってはならない。これは、あたらしい時代に生きる人間に託された、使命なのです。」(p.276)
そして最後に、生き方についての指針を示します。
「すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。」(p.277)
ある意味で人は、別れるために出会っているようなものです。ですから、その別れを最良のものにする生き方こそが、われわれが日々努力すべき点なのです。
いつか必ず訪れる「別れの日」に、「あなたと出会えて良かった」「あなたと過ごした時間は最高だった」と言えるかどうか…。
「では、そう思えるような関係をこれから築いていくしかないでしょう。「いま、ここを真剣に生きる」とは、そういう意味です。」(p.278)
今がスタートです。ここが出発地点です。今、ここがどうであろうと関係なく、今、ここから始めるのです。将来の保証などありません。それがどうなるかは、私たちがどう生きるかにかかっています。
「その未来をつくるのは、あなたです。迷うことはありません。未来が見えないこと、それは未来に無限の可能性があるということです。われわれは未来が見えないからこそ、運命の主人になれるのです。」(p.280)
自分の人生の主人になりましょう。主人として生きましょう。アドラーが言う「人生のタスク」に取り組むことで、幸せになりましょう。そして社会を、人類を、幸せにしていきましょう。
それが私たちには可能だと、アドラーは信じています。ですから私たちに、このことを託したのです。
アドラーという偉大なメッセンジャーを送ってくださったことを神に感謝します。そして、こうしてその思想に触れるチャンスをくれた著者の岸見さん、古賀さん、出版に関係された方々に感謝します。
ぜひ、本を手にとって、読んでみてください。ほとんどのページに線を引き、折り目を入れながら読みました。その価値に比べれば、1500円という値段は、あまりに安すぎます。そのいただいた恩恵は、これからの私自身の生き方で、お返ししたいと思います。
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