新しい本が出ました。書店やAmazonでは入手できない直販です。『苦しみとの向き合い方 言志四録の人間学』(PHP研究所)で評判になった辻光文さんのことをさらに詳しく書いた本です。「生きているだけではいけませんか」の詩が全文掲載されています。定価500円。ご注文は私か、夢工房だいあん㈱(FAX045-546-1269)にお願いします。
Ryouhei Kamiwatariさんの投稿 2015年12月6日
神渡良平さんの本を読みました。
これは、書店では注文できない冊子です。神渡さんの「苦しみとの向き合い方」でも取り上げられた辻光文さんのことを、前半で神渡さんが書かれています。
後半はその神渡さんと、辻さんの弟さんで、発行者の「夢工房だいあん株式会社」初代代表取締役の辻存之(つじ・やすゆき)氏、「だいあんグループ」代表の光田敏昭(みつだ・としあき)氏の3人で、辻光文さんのことを語り合った対談が収められています。
上記のFacebookの投稿にあるように、この冊子を欲しいと思われる方は、神渡さんか夢工房だいあんへ申し込んでください。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「はじめに」で、障害児の娘さんが生まれたことで苦しんでいた女性が、「苦しみとの向き合い方」を読まれて、神渡さんに書かれたという手紙が紹介されています。
「神渡先生は、私がどんなことを思い、何を求めていたかがお分かりになるのでしょうか? 私は光文先生の『生きているだけではいけませんか』の詩に出合いたかったのだと思いました。詩の中で光文先生が問いかけておられたように、人の役に立っているという私の思いの中に、いつしか傲慢な思いがひそんでいたのです。生きていて人に迷惑をかけない人っていやしないのに、そのことを忘れていました。」(p.9 - 10)
人の役に立つことを生きがいとして生きておられた女性にとって、役に立つこともできず、ただ人様の世話にならなければ生きていけない次女が生まれたことは、とても苦しいことだったようです。
それが光文さんの詩に出合うことで、自分の見方が間違っていたと気づかれたのです。
この手紙に対して、神渡さんも返信を出されました。
「人さまのお世話にならなければ生きていけない次女はひょっとすると、周りの人々のやさしさを引き出すために存在しているのかもしれませんよね。現にあなたは次女を通して大きく変わりつつあるではありませんか。」(p.10 - 11)
役に立たないから役に立つ。与える側も何かを受取り、受け取る側も何かを与えている。人間関係というのは、そういうものかもしれません。
光文さんが面倒をみた子どもの中で、どうにも手に負えないS子という子どもがいました。この話は、「苦しみとの向き合い方」の中でも書かれています。悪性脳腫瘍にかかったS子を前にして、光文さんは大きな気づきを得ます。
「「私はやっとわかりました。私が心の中でS子を問題児だと思っていたので、それが彼女を萎縮させ、荒れさせていたのです。問題は彼女にあったのではなく、私自身の中にあったのだと深く気づかされました」
S子は、人間は誰でも御仏(みほとけ)のあふれるような慈悲に包まれていることを、辻先生に気づかせてくれたのです。こうして辻先生の世界観、人間観はいっそう深くなっていき、表面に現れた個々の行動にとらわれることなく、「いのちそのものを拝む」ようになりました。子どもたちを見詰めるまなざしがやわらかくなったのです。」(p.38 - 39)
人は、自分が見たいものを対象の中に見る、と言います。光文さんが気づかれたのも、まさにそのことでした。
「お釈迦さんが本当に言いたかったことは、自他不二(じたふに)、自他一如(じたいちにょ)ということだったんじゃないでしょうかね。長い人生を歩いてきて、しみじみと思うのは、『自分もあの人もこの人も、みんないっしょや』ということです。こちら側に自分、向こう側に他人と分かれて存在しているのではなく、初めから”一つのいのち”なんですね。自分と他者が分かれて存在していると思うのは、そもそも”迷い”なんだとやっと気づきました。」(p.58)
光文さんは、このように気づかれたことを言われます。子どもたちと共に生きる中で、気づかせていただいたという思いです。
これが宇宙の理(ことわり)であり、「私たちは何一つ切り離せない”ひと続きの世界”に住んでいる」ということがわかって、感謝しかないと言われます。
さらに一歩進んで、完全にすべてが一つのものであったと悟られます。
「生も死も別物ではなく一如(いちにょ)、二つ別々に分けることができない不二(ふに)の世界でした。自分と他人は分けることができない”一つのいのち”であるように、何と生も死も分けることができない”一つつながり”なのです。生と死すら一つつながりで、表と裏の関係で、決して非情な断絶などではありません。人間は死を誤解して忌み嫌っていますが、それは迷いに過ぎないんです。」(p.59)
85歳になられた光文さんは、養護老人ホームの病床で、神渡さんにこのように話されました。
そして、こういう永遠のいのちの中に自分があると思うと嬉しくて、自分の人生はこれから始まるという気分なのだと言われるのです。
対談の中で弟の辻存之氏は、思い出された光文さんの言葉を、このように紹介されています。
「ぼくは職業的な技能とか知識とか何にもないのに、なんでこうやって、必要とされるようになったのかなあ。ぼくはただ一生懸命、子どもらといっしょに生きてきただけなのに、なんとなくうまくいき、長生きできた。不思議でしょうがないよ」(p.106)
テクニックを駆使したわけでもなく、何か自分の生活が良くなるよう工夫したわけでもない。ただ目の前の子どもたちのことを考え、一生懸命に生きてきた。ただ共に生きてきただけなのだと、光文さんは言います。
人の生き方って、それでいいのかもしれません。あとは、神や仏が何とかしてくれる。その御手に身を委ねて、ただただ寄り添って生きればいい。
人生に迷った時、ついテクニックを得ようとしたりしがちです。それもまた良いのかもしれませんが、私は、光文さんの生き方をステキだと感じます。
儲かるかどうかとか、より大きなチャンスが得られるかどうかなどではなく、ただ目の前のことに精一杯に打ち込む。自分らしいか、それは愛かどうかと自問しながら、損得ではなく美しい生き方を追求する。
将来を不安に思うこともせず、安心して身を任せて生きる。そういう生き方を、私もしたいと思います。