大学教授の安冨歩(やすとみ・あゆむ)さんの本を読みました。
たしかネットの記事で安富さんのことを知り、興味を持ったのです。
性別は男性ですが、女性装をされています。「女装」ではなく、「女性装」というのがポイント。意味が違うのだそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私の考えでは、赤ちゃんは「劣等感」なんか抱いていないと思います。だからそれは、大きくなる課程で、どこからか、入り込んでしまうもののはずです。一体どこから? 多分それは、大人から。親とか、先生とか。恐ろしいことです。」(p.39 - 40)
この考えは、私も同感です。赤ちゃんの心をねじ曲げてしまうのが、大人なのだと思います。
安富さんは最初、自分の体型に合うということだけで、女性物の服を買って着るようになったそうです。それは、女装に憧れたからではなく、単にそれが自分に似合っているから。
「しかし、やがて私は予想もしなかった、重大な事実に気づきました。それは私が女物を着ると、「ただならぬ安心感」を感じる、ということでした。
世の中には、性的刺激を求めて女装する趣味の方がいるそうです。こういう方は、女物を着ると、興奮するのでしょう。それに対して私にとっての女物は、精神を安定させる効果があります。
現に、性欲、という面に限っても、私は女物を着始めてから、大幅に落ち着きました。」(p.43)
強い孤独感を抱いていた少年時代から、性的な感覚に依存する傾向があったそうです。その後も、持て余しぎみなほど性欲が旺盛だったのだとか。
しかし、女物を着るようになってから、性的興奮が抑制され、落ち着くようになったと言います。
私も、性欲が旺盛だという人は、実は性欲そのものではなく、他の精神的な要因があると思っています。ですから、この安富さんの感覚はわかるような気がします。
そして、いじめとか、他者への攻撃的な態度も、自分の中のストレスが原因と、ご自身の体験から言います。
「その理由を考えていたのですが、私自身、そういう連中と同類の面が多いにあって、ストレス発散のために、こういうことをしていたのではないか、というのが今の考えです。かつては男装していたために、自分自身の姿を離れてしまい、それがストレスの源泉となって、かといって、何も悪いことをしていない人をイジメるのはやる気がしませんから、ひどいことをしている知識人を見つけてイジメる、ということをしていたように思うのです。」(p.99)
人間の中の攻撃的な一面は、このように本当の自分として生きられないことのストレスから、生じることがあるのかもしれません。
「それは、はるな愛さんや私のように、異性の姿をしている人だけではありません。誰だって、「男」でも「女」でもないのです。そういう分類そのものが、暴力なのです。」(p.134)
私たちはつい、男か女か、どちらかはっきりさせたいと思います。そこには、男か女かどちらかであるべき、という価値観があります。その価値観の押し付けを、安富さんは暴力だと言います。
「そこでそういう人々になんとか事情を飲み込んでもらうために、いろいろな工夫がなされてきました。そのひとつが、「トランスジェンダー」という言葉です。「トランス」というのはラテン語の「越える」という意味の言葉で、ジェンダーというのは「性」のことですから、「性別を越える」というような意味です。「性別越境」という訳が適当だと思います。」(p.135)
つい男か女か、そうでないならどういう分類か、と私たちは考えてしまいがちです。その説明をする代わりに、トランスジェンダーという言葉を使うのですね。
これは、もう男とか女とかの分類ではなく、それを超えた存在なのだという意味です。私もまた、男という分類の前に、私という1人の人間ですから。
「子供が生まれたら男集団・女集団に振り分けて、それぞれの集団にふさわしい振る舞いをするように圧力を掛けます。これによって「帰属」という「アイデンティティ」が生まれるのです。こうして子供は、何かに「帰属」して、その規範なり文化なりを、自分の中に取り込む、という変な能力を身につけます。
この変な能力を「秩序」の基盤だ、と人々が認識しているわけです。この帰属意識の形成がスムーズに行われるなら、社会の「秩序」が成り立ち、それができないと「無秩序」になって社会が崩壊する、と思い込んでいるのです。」(p.146 - 147)
指摘されてみると、まさにその通りだと思います。私たちは自分の経験にしたがうのではなく、ただ押し付けられた価値観にしたがって、考えるクセがついているようです。
「私のような者に対して、嫌悪感を示す人々は、以上のような事情を感じているのではないでしょうか。男が男を好きになったり、女が女を好きになったり、男のくせに女の格好をしていたり女のくせに男の格好をされると、世の中が「無秩序」になる気がするのです。」(p.147)
たしかに、そういう不安定感を感じます。私自身、オカマとか大嫌いでした。あり得ないと思っていました。しかしタイに来て、そういう人が非常に多いことを目の当たりにして、考え方が変わってきました。徐々に受け入れられるようになったのです。
まだ、違和感というものはあります。しかし、以前のような嫌悪感はなくなりましたし、存在を否定しようという気持ちも、もうありません。
このようなトランスジェンダーの存在は、実は日本では受け入れられてきたようです。西洋ではキリスト教などの影響から、許されない罪とされてきたようですが。
「これに対して日本では、同性愛そのものが犯罪とされたことは、おそらくないのです。少なくとも江戸時代まで、誰も「異常」だとは思っていませんでした。それどころか、同性愛の目を見張るばかりの氾濫は、近代以前の日本社会の興味深い特徴でした。」(p.153)
イギリスでは、1967年まで同性愛は犯罪だったのです。しかし日本は、キリスト教の宣教師が驚くほど、寛容に認められていたようです。
また、動物世界においても、同性愛的な行動はしばしば見られるようです。ですから、同性愛というものが、自然でないとも言えないのです。
もちろん、自然界であるから、人間界であっても問題ないとは言えないと言います。たとえば子殺しなどは、自然界でよく見られますが、これなどは人間がやって良いものとは思えないからです。
「自然は人間の倫理の手本にはならないのです。
ただ、人間の本性を人間が抑圧すると、碌(ろく)なことにはならない、ということは覚えておくべきだと私は考えています。」(p.156)
本来の自分を抑圧すれば、それがストレスとなって、ネジ曲がった行動につながります。他者への攻撃的な態度とか、異常な性欲などもそうです。
私も、単なる思い込みで「かくあるべし」を押しつけることは、ろくなことにならないと思います。
「しかし、人間には、男女を問わず、美しさが不可欠なのです。
美しさとは、作るものではありません。掘り出すものです。自分自身という金鉱を探し出して掘り当てる。そうすると人は、美しくなるのではないでしょうか。」(p.170)
私も、男女問わずに「美しさ」を追求することが重要だと思います。それは見た目だけではありません。生き方そのものについてもです。
どうするのが自分らしいのか、どうあるのが自分らしいのか、その自分らしさを探し求める中で見つかるもの。それが「美しさ」だと思います。
安富さんは、自分の中にある女性性に目覚めることで、やっと本来の自分と出会えた感じがしたのでしょう。
そして安富さんは、ありのままに生きることが、「人間に与えられた唯一の使命だと信じています」と言い切っています。
どんなに外部とぶつかろうと、恐れることなく、勇気をもって自分らしく生きる。私も、そういう生き方を素晴らしいと思います。
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