2016年02月24日
私はなぜイスラーム教徒になったのか
ISに日本人が人質にとられたとき、よくテレビに出て話題になった中田考(なかた・こう)氏の本を読みました。
私がこの本に興味を覚えたのは、やはり、私がまだイスラム教をよく知らないからです。
1日に5回も礼拝しなければならないし、豚肉は食べられないし、お酒も飲めません。もともとムスリム(=イスラム教徒)の家庭に生まれた人は仕方ないとしても、そうでない人たちが、どこにメリットを感じるのかが、とても不思議に感じるからです。
本の評価は後ほどするとして、まずは本の内容を、一部を引用しながら紹介しましょう。
「イスラームとはもともと「服従」を意味するアラビア語です。宗教としてのイスラームは、超越神アッラーへの絶対服従、帰依を意味しています。」(p.2)
「じつのところ、イスラームとは、そのような人間社会に蔓延するあらゆる束縛からの解放です。イスラームの教えの根本は、アッラー以外に服従すべきものはなにもない、ということです。教師も親も上司も、同僚も友だちも、常識も世間も空気も、すべて不当に服従を迫る偽りの神々にすぎません。イスラームとはまず、人間を束縛する偽りの神々からの解放の教えなのです。」(p.4 - 5)
このように、イスラム教が服従する対象はアッラーだけであって、他の何ものにも服従しないのがイスラム教の教えだと言います。
これは、とても素晴らしいことのように聞こえます。アッラーとの交信を自分自身が行うなら、信じるのは自分だけであり、従う対象は自分だけですから。
でも、本当にそういう魅力に惹かれて、多くの人が入信するのでしょうか? そういう疑問を感じながら、読み進めました。
「領域国民国家システムは、近代以前にはイスラーム世界にはもちろん、ほかの世界にも存在していませんでした。その頃、イスラーム世界の中でももっとも広大な版図をもっていたのがオスマン帝国です。」(p.25)
「同じムスリムとはいえ別々の文化を持ち、別々の自治を行っていたスンナ派、シーア派、クルド人が、一つの国民になれるわけがありません。でも、国民国家となったことによって、住民はいやおうなく国家への忠誠を誓わなくてはならなくなり、のちにそれがイラクという国家の為政者であるサダム・フセインへの忠誠へとすり替えられていきます。
このような状況がイスラーム世界のすべての地域で進行しています。つまり、現在のムスリムは、本来のイスラームである神への服従と、すでに内面化されてしまっている「領域国民国家」への従属との板挟み状態にあります。」(p.30)
つまり、本来の宗教的なイスラム教は、国家の統治とは相容れないものであり、国家が存在しなければ、イスラム社会の中で平和に暮らせると言いたいようです。
また、イスラム教は厳格で、たとえばアルコールを口にしてはならないとか、豚肉を食べてはならないという決まりがあります。味の素製品に豚肉の成分が含まれていたとして、大問題になったことを記憶しておられる方もいらっしゃるでしょう。
「日本では、こういう細かい形式に厳密にこだわる人たちをイスラーム原理主義者だと思っている人も多いのですが、これは原理主義などではありません。原理主義とは、イスラームの根本である『クルアーン』と『ハディース』に忠実に、根本的なことを大事にするという態度であって、『クルアーン』にも『ハディース』にも具体的な規定のない些細なことにこだわり、勝手に決まりを作ろうとするのは些事拘泥主義と呼ぶべきでしょう。」(p.65 - 66)
中田氏は、豚が入っていると知らないで食べたなら、それはしょうがないことだと言います。つまり、そういう考え方が、本当のイスラム教だと言いたいようです。
だから、そういう些事にこだわって処罰したりするのは、本来のイスラム教ではない、というのが中田氏の主張です。
「日本は服装は自由で、飲酒も認められているが、イスラーム社会には服装の自由がなく、飲酒の自由もない、ということではありません。日本とイスラーム社会では服装、飲酒の禁じられる範囲が異なり、それに応じて自由度も異なるというだけです。」(p.71)
「現在、民主主義と呼ばれているものは、制限選挙寡頭制にほかなりません。「ヨーロッパには民主主義がある、アラブには民主主義がない」という言い方は、きわめて不正確です。あるのは制限選挙寡頭制であり、選挙の制限の範囲が異なるというだけのことです。」(p.74)
年齢や国籍でも制限があるし、一度も合ったこともない人に投票するのだから、自分の意思が政治に反映されるわけではない。だから、本当の民主主義ではない、という主張のようです。
このように、イスラム教社会が制限が多くて、西洋諸国が自由だというのは、範囲や程度、質の違いであって、本質的な違いではない、と言われたいようです。
中田氏は、アラブの人たちの約束を守らないいい加減さに対して、スーパーポジティブだと評価しています。
たとえば、電話をいついつまでにつけると約束しても、まず守られないそうです。それを、つかなくても大したことないし、神が望めば電話がつくだろう、くらいに考えるのだとか。
「それは人生のあらゆることについていえることです。大学に落ちる、事業に失敗する、そういうことも同じです。ほとんどのことは、まあ、しょうがないかと思って、めげない。それは彼らの考え方の根底に神への信頼があり、それを疑うことがないからです。そのスーパーポジティブさこそイスラームのすばらしいところだと思います。」(p.118)
たしかに、そういう見方もできますね。でも仏教徒のタイ人にも、通じるところがあるように思います。アラブと言うより、暖かい地域の民族性かもしれませんが。
また、イスラム社会では利息を生む金融を禁じています。つまり、分ち合いによって支え合う社会こそが、イスラム社会なのです。
「食べ物はとっておいたら腐ってしまいます。食べ切れないものがあったら、人に分ける。食べ物以外のものであっても、余っていたら回してしまう。それがイスラーム世界です。」(p.126)
近代化というのは、こういう分ち合いをなくしてしまうように感じます。アラブ社会に限らず、タイなどの東南アジアでも、昔の日本でも、分け合うことが普通に行われていました。
イスラム教は、その教えの中に分かち合うことが書かれているそうです。ただ、それで言うなら、キリスト教もそうですし、仏教もそうだと言えますけどね。
「とりもなおさず、現代のイスラーム世界の知のレベルの低下にほかなりません。最初に申し上げたように、なにが本当にイスラーム的なのか、ムスリム自身にもわからなくなっている。この状況が二十一世紀今日までもつづいています。」(p.155)
こう中田氏は言って、本来のイスラム教から離れていることを嘆きます。
本来のイスラム社会は、国境などもなくて、人はどこにでも住むことができるそうです。さらに、異教徒に対しても寛容で、イスラム社会の秩序を乱さないという約束さえ守れば、宗教的な自治を許され、共存できると言います。
「カリフ制再興は、このような国境を取り払い、人と資本が自由に移動でき、富の公正で適切な配分を行い、真の意味でのグローバリズムを目指そうとする運動です。」(p.185)
ですから中田氏は、本来のイスラム教は、西洋諸国より自由があるのだと言うのです。
しかし、イスラム教自体がシーア派とスンニ派(中田氏はスンナ派と記述)に分かれ、仲違いしている現実があります。イスラム教の中だけでもまとまることができないのに、他の宗教と仲良くやっていけるのでしょうか?
「しかし、すでに述べたように、教義の上では、シーア派とスンナ派が和解するのは、ひじょうにむずかしいのが現実です。厳格なサラフィーであるワッハーブ派にとってシーア派は最大の敵であり、法学的にもシーア派はカーフィル(不信仰者)と見なされます。
一方、シーア派のほうもスンナ派を神学的にカーフィルと見なしています。」(p.208)
「現実的に見て、私はシーア派がマイノリティーとしてマジョリティーのスンナ派に従属する形でしか、平和はないと考えています。」(p.209)
なんとも危うい平和論ですね。こういう教義が障害となって仲良くできないことこそが、本質的な誤りだと私は思いますが。
「日本ほどカリフ制について自由に議論ができる国はありません。シーア派とスンナ派の共存についても、その間を取りもてるのは、日本くらいしかないと思います。」(p.211 - 212)
「異教徒に求められるのは、ただムスリムと結んだ協定を守ることだけです。価値観の共有できない相手を「悪魔」「テロリスト」と呼んで、いっさいの対話や交渉を拒み、殲滅しようとする欧米の「テロとの戦い」とは異なり、言葉が通じ約束が成立さえすれば共存の道はあると考えるのがイスラームです。」(p.213)
中田氏はこのように、世界平和をもたらす鍵が日本にあると言います。そして、対話こそが重要で、相手を敵と決めつけて攻撃する考え方では、平和はもたらされないのだと。
人質をとって、対話を拒絶したISなどは、おそらく本当のイスラム教徒ではないのでしょうね。それは、他のイスラム教徒から批判されていることからもわかります。
では、本当のイスラム教徒とは、どこにいるのでしょう? 自らこそが正当だと主張し合い、互いに非難し合ってきたのが、これまでの宗教の各派だったと思います。
このことについて、中田氏は何も説明していません。
中田氏は、どこかの宗教に入ろうとして考えた結果、キリスト教よりイスラム教だと判断したようです。それは、イスラム教の方が合理的で自由だからと。しかし、イスラム教の自由さは、イスラム教徒でなければわからないと言います。
また、イスラム教は、イスラム教徒になることで、あの世での天国が保証されると言います。つまり、キリスト教のように、教えを守らなければ地獄に落とされるということはないのだと。
ただし、イスラム教の重要な教えは守らなければならないのですから、程度の差のような気もしますけどね。
これを読んで、少しはイスラム教のことがわかったようにも思います。しかし、私には、とりたててイスラム教の方がキリスト教より優れているとか、平和的だというようには感じられませんでした。
それに第一、本来の教えがそのまま信者に受け入れられていないことが問題なら、それはキリスト教でも他の宗教でも、教祖がすでに亡くなっている宗教はどこも同じではありませんか。だから宗教は分裂し、互いに憎しみ合ったりするのです。
その本質的な問題に目をつぶって、本来のイスラム教はと言われても、イスラム教徒も信じていない本来のイスラム教に、どれほどの力があるのか、私は懐疑的になります。
この本を、他の人に積極的に勧めたいとは思いませんが、イスラム教のことを知りたい人には、参考になるかもしれません。
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