OSHO(おしょう)氏の2冊目の本を読みました。前に読んだのは「Joy(喜び)」でした。今回読んだのは「Courage(勇気)」ですが、前作と同時に購入したものです。
前作を読んで、たくさんの良いことが書かれていると感じたのですが、なかなか一気には読めませんでした。それもあって、この本もなかなか読めずにいたのです。
読み始めてからずいぶんと時間が経ったのですが、今回、たまたま一時帰国することになったため、持って帰って集中的に読みました。それでやっと読み終えた次第です。
翻訳は、前作と同様で、山川紘矢さんと山川亜希子さん夫妻です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私がここにいるのはあなたの覚醒を促し、気づきを与えるためだ−−つまるところ、人生が本来持つあらゆる不安、あらゆる不確実性、あらゆる危険とともに、今ここにいるようにと教えるためなのだ。
(中略)
私はあなたをもっと不安定に、もっと不確実にしたい−−なぜならば、それが人生というものであり、それが神というものだからだ。もっと不安定に、もっと危険になった時、それに対応する唯一の方法は気づくことなのだ。」(p.3)
本の冒頭で、このように言っています。不確実さは驚異であり、不安定さは自由であるのだからと。
「いや、安全なものは何もない。それが私のメッセージだ。何事も安全ではありえない、なぜならば、安全な生は死よりももっと悪いものだからだ。安全なものは何もない。生は不確実でいっぱいだ。驚きでいっぱいだ−−それこそが生の美しさなのだ!」(p.4 - 5)
考えてみればその通りで、私たちは当たり前のように今日も生きると思っていますが、本当はいつ死ぬかわからないのです。
いつ死ぬかわからないから、「一期一会」という茶道の考え方も生まれます。そして、その一瞬に思いを込めるからこそ、人生は有意義で素晴らしいものとなるのです。
「自由は恐れを創造する。人々は自由について話す、しかし彼らは恐れている。そして、もし自由を恐れているのであれば、まだ彼は本当の人間ではない。私はあなたに自由を与えるが、あなたに安全は与えない。」(p.5)
自由と安定、安全は相反するものです。何を選択しても良いのが自由。その代わり、どうなるか保証はありません。
しかし、自由を選択しなければ、本当の人間ではないと言うのです。
「この不確実の中に快くとどまることが勇気なのだ。この不確実の中に快くいるということが信頼だ。知的な人間とはどのような状況においても覚醒している−−そして、心全体でその状況に対応する。」(p.7)
不確実で、どうなるかわからない不安を感じる中で、それでも快くいることが勇気であり、信頼だと言います。そしてそうなってこそ、覚醒していると呼べるのだと。
第1章「勇気とは何か?」の冒頭で、次のように説明します。
「まず、臆病者と勇気ある者との間に、たいした違いはない。
たった一つの違いは、臆病者は恐怖に耳を傾け、それらに従うが、勇気あるものは恐怖を横において、前に進むところだ。勇気ある者は、あらゆる恐怖にもかかわらず、未知の世界へと進んでゆく。」(p.12)
つまり、恐怖(不安)を選択するかどうか、という点がポイントなのですね。
これは「神との対話」でも、すべての動機は不安か愛のどちらかだと言っていますが、それと通じるものがあります。
「あなたを奴隷にするのは恐れだ−−それはあなたの恐怖心だ。」(p.18)
「心の道は勇気の道だ。それは安全ではないところで生きることだ。それは愛の中に生きること、信頼の中に生きることだ。
(中略)
勇気とは危険な道を進むことだ。生は危険だ。そして、臆病者だけが危険を避けることができる−−しかし、そのとき、彼らはすでに死んでいる。」(p.19)
表現は違いますが、恐れ(不安)と愛を対比しています。
ここで言う「彼らはすでに死んている」とは、肉体の死を言うのではなく、精神的な死のことです。人間として生きていない、という意味になります。
「聖書や経典に耳を傾けてはならない−−自分のハートの声を聞きなさい。それが私が処方する唯一の経典だ。気をつけて聞きなさい、意識して聞きなさい。そうすれば、あなたは決して間違わないだろう。そして自分のハートの声を聞いていれば、あなたは決して分裂しないだろう。自分のハートの声を聞けば、何が正しくて何が間違っているか考えなくても、あなたは正しい方向へ動き出すだろう。」(p.22)
「神との対話」では、感情は魂の声だとし、その声にしたがうように勧めています。まさにそのことと符合する内容です。
「真実を探求する旅に出る用意ができた人は、多くの間違いや失敗を犯す用意がなければならない−−危険を冒すこともできなければならない。道に迷うかもしれないが、それはその人が到達する方法なのだ。
(中略)
何が誤りかを知ることによって、人は何が真実かにどんどん近くなってゆく。それは個人的な探検だ。あなたは他人の結論に頼ることはできない。」(p.29 - 30)
ハートの声にしたがったとしても、失敗しないというわけではありません。何度も失敗を繰り返しながら、私たちはより真実へと近づくのです。失敗することが、進化成長するための唯一の方法なのです。
「すべての信念は借り物であり、他の人があなたに与えたものであって、それはあなたに咲いた花ではない。そして、借り物がどうしてあなたを真実、究極の真実へと導くことができようか?」(p.39)
自分の体験に従うようにと、「神との対話」でも言います。また自分がどんな信念を持っているかに気づき、それをより自分らしいものに変えていくようにとも言っています。
「確信は個人的なものだ。信仰は社会的なものだ。確信はあなたが育てるものであり、確信はあなたがとどまるものだ。あなたが何教徒であれ、信仰はあなたに押し付けられる。信仰を落としなさい。
(中略)
作り出された確信は信仰になる。確信はあなたの中に探しなさい。それを作り出してはいけない。あなたの存在の中へ深く入ってゆきなさい、あなたの存在の源に入り、それを発見しなさい。」(p.40 - 41)
信仰とは、他者から押し付けられるもの。恐怖心によって、逆らえないようにするものです。常識だとか、マナーなどの価値観も同じですね。
そういう他者から押し付けられる価値観(信念)を排除し、自分の心の底から湧き上がってくるものを見つけることを勧めます。「作り出してはいけない」というのは、無理に(=不安から)他者の考えを受け入れてはいけない、ということです。
「新しいものがあなたの人生にやってきたら、それはなんであれ、神からのメッセージだ。もし、それを受け入れるならば、あなたは信心深い人だ。
(中略)
それが祈りと瞑想の意味そのものだ−−あなたが心を開き、イエスと言い、「どうぞ、お入りなさい」と言うことだ。
(中略)
常に新しいものを大きな喜びを持って受け取りなさい。時には新しいものはあなたを都合の悪い場所に連れてゆくが、それでもその価値がある。
(中略)
なぜならば、間違いを通してのみ人は学び、困難を通してのみ人は成長するからだ。
(中略)
そして、深く、全面的に受け入れた新しいものだけが、あなたを変容させることができる。あなたは新しいものを人生に持ち込むことはできない。新しいものはやってくるのだ。あなたは受け入れるか、拒絶するかのどちらかしかできない。」(p.75 - 76)
自分にとって新しいものは、どんなものであっても、受け入れることが重要だと言います。新しいものは外からやってくるもので、神からのメッセージだからと。
たしかに、新しいものを取り入れることで、心が乱されるようなことはあるでしょう。しかしそれは変化なのです。変化とは進化すること。私たちは進化成長するために生きているのです。
「あなたの過去からの意思や指示や衝動なしに行動しなさい−−そしてそれは瞑想的に行動するということだ。思いのままに自然に行動しなさい。その一瞬に決めさせなさい。
自分で決めてはいけない。なぜならば、その決定は過去からやってくるのであり、新しいものを壊してしまうからだ。ただ、子供のように瞬間的に行動しなさい。あなた自身を完全に瞬間にゆだねなさい−−すると毎日が新しい開花であり、新しい光であり、新しい気づきであることを発見するだろう。」(p.77)
これは、論理的にならずに、直感にしたがって行動することを求めています。「神との対話」でも、直感にしたがうことを勧めています。
論理は過去の産物です。論理に従う限り、同じことの繰り返しです。もしそこで、何か違うものを感じたときは、素直に直感に従ってみること。そうすることで、新たな展開がやってきます。
第3章「愛の勇気」では、冒頭で次のように言っています。
「恐れは愛の不在に他ならない。何かするときは愛をもってやりなさい。恐れは忘れなさい。もしあなたが十分に愛せば、恐れは消え去るだろう。」(p.86)
「神との対話」では、愛の対極は不安(恐れ)だと言っています。これは非常にわかりにくい概念で、あまりこれを指摘する人はいません。しかし、OSHO氏がすでにこのように言っていました。これは驚きです。
「恐れは愛の否定であり、愛の欠如だ。」(p.86)
このあと、「恐れは暗闇だ。」とし、私たちは暗闇と闘って負けると言います。なぜなら、実は暗闇というものは存在しないからです。
「恐怖と闘わないようにしなさい。さもないと、あなたはますます恐れるようになり、新しい恐れがあなたの中に入り込んでくる。それは恐怖への恐怖だ。
(中略)
恐れは愛の欠如に他ならない。愛をもって行い、恐れを忘れなさい。もしあなたが十分に愛すれば、恐れは消えてしまう。」(p.87)
恐れ(不安)ではなく、愛を選択するようにということです。これもまた、「神との対話」と完全に一致していることです。
「愛はとても有益であり、それはとても深い幸せを与えてくれる−−だから、無条件に愛し、見返りを求めないようにしなさい。人を愛するだけで恐れがなくなると理解できるようになれば、あなたは純粋に喜びのために愛するようになるだろう!」(p.89)
「あなたが心全体で愛さない時は、あなたは取引をしているのだ。あなたは自分のために何かしてくれるように相手に無理じいし、その時だけ愛する。
(中略)
そんなことをしていると、あなたは愛することは相手のためだけでなく、自分のためでもあることを忘れてしまう。まず愛は愛するものを助ける。次に愛されるものを助けるのだ。」(p.90)
誰かのためでなく、自分のために「愛する」ことを勧めます。
「愛するときは、相手のために何かしてあげていると考えてはいけない。あなたは自分自身のために大切なことをしているのだ。
(中略)
利己的になりなさい。愛は利己的だ。人を愛しなさい−−それによってあなたは満たされる。それによってあなたはもっともっと祝福を受けるのだ。
そして、愛がもっと深くなったとき、恐怖が消える。愛は光であり、恐怖は暗闇だ。」(p.94 - 95)
「愛は関係ではない。愛は存在するだけだ。それは他の誰とも関係がない。人は恋をしているのではなく、人は愛なのだ。」(p.102)
「信頼しなさい。そうすれば、あなたの中にエネルギーが新しく湧いてくるのを感じはじめるだろう。そのエネルギーが愛だ。
(中略)
愛とはすべての存在を祝福したいという深い望みなのだ。」(p.103)
「神との対話」でも、神は生命であり愛だと言っています。愛は存在そのものなのだと。それは自由であり、エネルギーだとも言います。
「愛はあなたの欲望をなくすと私が言えば、あなたはおどろくかもしれない。しかし、欲望は不満足からやってくる。あなたは持っていないので、欲しくなるのだ。もしなにかを持てば、それが自分に満足感を与えてくれるだろうと思って、あなたは欲望するのだ。欲望は不満足からやってくる。」(p.111)
言葉の定義次第ですが、「神との対話」では必要性と欲求を区別しています。ここで言う欲望は、必要性に近いものだと思います。
たとえば、お腹が空いて何か食べたいと欲しているのは必要性です。まさに空腹感という不満足を解消したがっているのです。しかし、ラーメンを食べたいなというのは欲求です。別にラーメンでなくてもかまわないと思っているのですから。
ですから、愛があれば必要性がなくなる、ということになります。必要性は幻想だとする「神との対話」と同じ内容が、ここでも語られています。
「それは嫉妬になることがあるが、それもまた恐れの一部だ。それは所有欲にもなりうるが、それもまた恐れの一部だ。それは憎しみにさえなりうるが、それもまた恐れの一部だ。」(p.115)
嫉妬も所有欲も憎しみも、すべて恐れ(不安)から派生したものです。ですから、そういったすべての恐れ(不安)を捨てて、愛に留まることが重要なのですね。
「勇敢さは恐れの大海の中にのみ存在する。」(p.115)
「勇敢とは恐怖でいっぱいであっても、恐怖に支配されないことを意味しているのだ。
あなたが愛に移行するとき、最大の問題が起こる。そのとき恐怖があなたの魂をぐっとつかむ。なぜならば、愛することは死ぬこと、他の人の中に入って死ぬことだからだ。それは死であるが、それは通常の死よりもずっと深い死だ。普通の死の場合、身体だけが死ぬが、愛の死の場合はエゴが死ぬ。愛するためには大きな勇気が必要だ。」(p.116)
愛とは私たちの存在そのものであり、それは「ひとつのもの」です。分割されたエゴは幻想です。ですから、私たちが愛に移行しようとすると、必然的に幻想であるエゴが死ぬことになるのです。
それはエゴにとって、耐え難い恐怖です。その恐怖を乗り越えることが勇気なのです。
「それは、誰かを憎むならば、まず、あなたが様々な方法で自分自身の魂を傷つけなければならないということだ。あなたが他人に毒を投げることができるためには、あなたが毒でいっぱいでなくてはならにのだ。」(p.122)
「人を呪わば穴二つ」と昔から言われる通りです。人は口から入るもので汚れるのではなく、口から出るもの(言葉)によって汚れるのです。
「あなた方は愛の一つの方法しか知らない。それは他を憎むということだ。」(p.123)
憎むということも、1つの愛の表れなのです。私たちは、何か(誰か)を特別に愛するとき、往々にして他の対象と区別し、他の対象を憎みます。国粋主義は、まさにその好例でしょう。
他にも、パートナーの浮気相手を憎むのも、同じことです。他を憎むことが、その人の愛し方になっているのです。
「あなたが憎むとき、あなたのエゴが満たされる。エゴは憎むときだけ存在できる。なぜならば、憎んでいるとき、あなたはより優れていると感じ、あなたは分離し、あなたは立場が明確になるからだ。
(中略)
愛の中ではエゴは消えなければならない。愛の中ではあなたはもはや分離してはいられない−−愛はあなたが他人とひとつに溶け込むのを助けるからだ。愛は出会いと融合なのだ。」(p.125)
分離がエゴであり、一体化が愛なのです。
「愛しなさい。ただし、明日、その女性があなたのところにやってくるとは思わないことだ。期待してはいけない。その女性を妻へと貶めてはいけない。貶めなければあなたは危険に生きている。
(中略)
そして、あなたの明日を予想できないものにしなさい。何事も期待せず、あらゆることに心の準備をしなさい。それが、私が危険に生きると言う時の意味なのだ。」(p.158)
このように言って、結婚という制度に反対します。結婚という制度は、保証を求めるものであり、保証を求めるとは、恐れに支配されることだからです。
相手の女性(男性)を愛することはかまわないが、それを女(男)のままにし、妻(夫)にするなと言うのです。
もちろん、社会の制度の中で、そうできない場合もあります。そこでOSHO氏は、世間を満足させることはかまわないが、心の深いところでは決して所有するなと言います。
「働きなさい−−働くことは必要だ−−しかし、仕事をあなたの唯一の人生にしてはならない。遊びがあなたの人生、あなたの人生の中心であるべきなのだ。仕事は単に、遊ぶための手段であるべきだ。オフィスで働き、工場で働き、店で働きなさい。しかし、遊ぶための時間と機会を持つためだ。あなたの人生を単なる仕事の繰り返しに貶めてはならない−−なぜならば、人生の目的は遊ぶことだからだ!」(p.159)
人生は遊び(ゲーム)だという指摘です。ここで言う仕事は、義務とか責任というものなのでしょう。そういうものにとらわれるのではなく、本来の目的である遊ぶこと、つまり自由に生きることが重要なのです。
「多くの恐れがあるが、基本的にはどれも一つの恐れが分かれたものであり、1本の木から出た枝である。その木の名前は「死」だ。あなたはこの恐れが死に関するものだとは気づかないかもしれないが、あらゆる恐れは死と関係している。」(p.171)
恐れ(不安)の根源は、死だと言います。
「もし死が基本的な恐れであるならば、ただ一つのことだけがあなたの恐れを無くすことができる。それは死ぬことのない意識をあなたの内側で体験することだ。」(p.172)
「死は一つの体から、一つの形から、もう一つの形への量子的飛躍だ。しかしそれはあなたにとって終わりではない。
あなたは決して生まれず、そしてあなたは決して死なない。
あなたは常にここにいる。形はやって来て去ってゆくが、命の川は続いている。これを体験しなければ、死の恐れはあなたから離れはしないだろう。瞑想だけが−−瞑想だけが役に立つ。」(p.173 - 174)
生命は永遠であり、私たちの本質はその生命そのもの。その知識だけでなく、体験が必要だと言います。その方法が瞑想なのですね。
「死の瞬間の人々を観察しなさい。彼らの苦しみは死ではない。死に痛みはない。まったく苦痛はないのだ。実際はとても気持ちの良いものなのだ。ちょうど深い眠りのようなものだ。深い眠りが苦痛だとあなたは思うかね? しかし、彼らは死について心配しているわけではない。深い眠りや気持ちよさも関係ない。彼らは自分の手から滑り落ちてゆく既知のものについて心配しているのだ。恐れはただ一つの事だけを意味する。既知のものを失って、未知へと入ってゆくことだ。」(p.187)
死の苦痛が恐いのではなく、未知へ入っていくことが恐い。この指摘は、たしかにそうだなと、自分の体験からも思います。
「勇気は恐れの正反対のものだ。
既知のものを落とす用意を常にしていなさい−−それを喜んで落とすだけでなく−−それが熟すのを待っているだけでなく、準備するのだ。新しい何かに飛びつきなさい−−その斬新さ、新鮮さはとても魅力的だ。すると勇気が生まれる。」(p.187)
既知のものをいつでも手放す心の準備をしておくとともに、新しいものを喜んで迎え入れようとすることですね。
「簡単な練習から始めなさい。いつも覚えていなさい。選択する必要がある時は、いつも未知のもの、リスクのあるもの、危険のあるもの、不安定なものを選びなさい。そうすればあなたは何も失わないだろう。」(p.189)
常にそういう心の準備をするとともに、日々の選択において実践し、習慣づけることが重要なのですね。
「死を超越する唯一の道は死を受け入れることだ。するとそれは消滅する。恐れを無くす唯一の道は、恐れを受け入れることだ、するとエネルギーが放出されて自由となる。」(p.195)
すべての結果を受け入れる覚悟をすることですね。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言われますが、受け入れさえすれば恐れ(不安)は消えます。それは幻想なのですから。そしてそのとき、私たちは自由になれるのです。
「罪悪感を持ってはいけないし、罪があると感じてもいけない。たとえ、何か間違ったことがあっても、あなたは間違っていない。多分、あなたは間違った行動をしたが、しかしそれだからと言って、あなたの存在が間違っているわけではない。」(p.196)
罪悪感が良くないことは、「神との対話」でも言っています。
私たちは、自分の価値観において間違ったことはしません。たとえそれが世間的に間違ったことであっても。ですから、反省はしても罪悪感を抱く必要性はないのです。
これは極論ですが、たとえば無差別殺人のような犯罪を犯したとしても、罪悪感を抱くなということです。OSHO氏の言葉、そして「神との対話」も、そういうことを言っているのです。
「みんな自由な人間なのだ……全人格が自由でできている。人は自由そのものなのだ。」(p.200)
「神との対話」でも、同じ様なことが言われています。私たちは、基本的人権として自由を有するのではなく、私たちの存在そのものが本質的に自由なのです。
非常に多くの部分を引用しましたが、実に本質的なことをみごとに指摘していると思います。
OSHO氏は1990年に亡くなられているそうです。お会いする機会がないことは残念ですが、こうして本を読むことで、OSHO氏の考えを知ることができることに、感謝したいと思います。
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