子育て研究の大家、平井信義氏の本を読みました。
平井氏のことを知ったのは、通称「ダメ親」で知られる「ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話」の中で紹介されていたからです。
その子育て論に共感したので、本を読んでみようと思ったのです。
この本は、2015年3月に出版された新装版ですが、元は1999年6月に出版されています。そして平井氏は、2006年7月7日に亡くなられていました。
この本は、副題に「「やる気のある子」「ひとりでできる子」の育て方」とあるように、自立した子どもを育てるためのもの。
個性のない、やる気のない若者が多いとよく言われますが、この本を読むと、子育てに問題があるのだということがよくわかりますね。
では、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「子どもの「いたずら」をじっと見ていますと、そこには創造性の芽ばえを感じ取ることができます。そして、感動するお母さん・お父さんがいるのです。それに感動できるのは、「感性」がよいからです。もし、自分たちが困ることはさせないようにしよう、その点でしつけをしなければならない−−と思っているお母さん・お父さんがいれば、その人たちには、子どもの創造性は感じ取れません。」(p.27)
「いたずら」は悪いことではなく、創造性の芽生えだと言うのですね。たしかに、様々なことに好奇心が湧き、あれこれやってみようというワクワクする気持ちが、「いたずら」をさせるのだと思います。
平井氏は、そういう子どもの「いたずら」を戒めるのではなく、むしろ感動することが大切だと言います。
叱ったり、諭したりする必要はなく、ただ「卒業」するのを待つだけで良いのだと。
でもそうすると、高価なものを壊されたりして、多大な損害を被る可能性もありますよね。そんなときも叱るのではなく、情緒的に訴えれば良いと言います。
「そのときに私はそばに寄っていき、「おじいちゃんね、これをなおすのは大変なんだよ」と静かに訴えたのです。つまり、大人にとっては困ったことなのだと教えたわけです。その結果、それ以後は同じ「いたずら」はまったくしませんでした。それは、おじいちゃんを困らせるようなことはしないようにしようと思ったからです。」(p.24 - 25)
つまり、その「いたずら」をやめようという自発性に任せたのです。
「このように情を通じて子どもに訴えることによって、子どもはお母さん・お父さんが困るようなことはしないようにしようと思うようになっていきます。そして、年齢が高くなるにつれて、この「いたずら」で相手が困るのではないかと判断したときに、それをがまんするようになります。これを自己統制の能力と呼んでいます。
この能力は、怒られるかもしれないという他人の力による統制とはまったくちがいます。怒られるからしない−−というのでは、叱る人がいない場所や、相手が叱らない人だとわかったときには、判断力が働かず、何をしでかすかわからない子どもをつくり上げてしまいます。」(p.181)
自分で自分を制御する。つまり自律ということも、自発性が育たないとできないのですね。
「子どもの「やる気」は「自発性」の発達に伴ってさかんになります。「自発性」の発達にとって何よりも必要なことは、子どもに「自由」を与えることです。ところが、「自由」について正しく理解している人が少ないのが、わが国の現状です。
(中略)
私は、子どもに「自由」を与えることは絶対に必要であるけれども、子どもを放任することは絶対にしてはならない−−と主張しているのです。
(中略)
では、この二つのちがいはどこにあるのでしょうか。子どもを放任することは、子どもに対して勝手にしなさいという養育態度であって、親は子どもに対して教育の責任を放棄していることになります。ですから、子どもには責任の能力が育ちません。自分本位の行動が多くなってしまいます。
それに対して、子どもに「自由」を与えるということは、子どものしていることをじっと見詰めながら、口出しをしない、手を貸さない養育態度であり、それによって子どもの責任能力が育っているかどうかを見届ける必要があるのです。」(p.30 - 32)
自発性を育むには自由を与えること。自由は放任とは違うということ。ここが子育てのポイントになります。
「私は、四十五年にわたって、子どもに体当たりする中で研究を続けてきましたが、その結果、「意欲」と「思いやり」を育てられれば立派な青年になる−−という結論を得ることができました。」(p.1116)
つまり子育ての目標は、「意欲」と「思いやり」を育てることになります。言い換えれば、「自発性」と「想像力」です。
「しかし、創造性の発達を考えれば、「いたずら」を悪いこととして叱らないようにすることが大切です。私は、「いたずらっ子」にしよう−−というスローガンを掲げているほどです。
ただし、「いたずら」によって困っている人がいることを情緒的に訴えることは必要で、それによってだんだんと、他人の困るようなことはしないようにしようという気持ちが育ちます。相手が困るのではないかと判断したときには、やりたい「いたずら」であってもがまんをするようになります。これを、「自己統制の能力」と呼んでいます。
この能力は、親たちに叱られるからしない−−といった他人の存在による統制とはまったくちがいます。叱られるからしない−−と考えている子どもは、叱る人のいない場所では何をするかわかりません。ハメを外して遊び、人に迷惑の及ぶことをしたり、ケガをすることもあります。」(p.39 - 40)
叱られない環境で、思いっきり「いたずら」をすることが、「自発性」と「想像力」を育み、「意欲」と「思いやり」のある子どもに育つのです。
「私は、「やる気」のない子どもの相談を受けたとき、その子どもが小学生であれば、「無言の行」をするようにおすすめしています。「無言の行」というのは、日常生活のあれこれについて、一切の命令をやめて口出しをしないこと、一切手を貸さないことであって、お母さんにとっては大変なことなので、「行」すなわち修行という言葉を使っているのです。」(p.147)
朝起きてこなくても起こさず、それで遅刻するなら遅刻するに任せる。一時的には怠惰な生活になっても、自発性が芽生えるのを待つのです。
「すると、「では、放っておけばいいのですね」と言うお母さんがほとんどですが、「まかせる」ことと「放っておく」こととはまったくちがうことを説明するようにしています。
(中略)
「まかせる」というのは、子どもを見守りながら、口を出さない、手を貸さないことであって、見守っているとつい口を出したくなったり手を貸したくなったりする、それをぐっとこらえることなのですから、お母さんにとっては難行苦行になるわけです。」(p.149)
「子どもの気持ちを汲むことのできる親や保育士・教師は、しつけを急ぎません。しつけは、子どもを鋳型にはめ込むことであり、それは「童心」に圧力を加えることになることを知っているからです。」(p.170)
平井氏はこう言って、「しつけ無用」を主張します。
「しつけ」という強制によって自由を奪われた子は、自発性のない無気力な子どもになるし、反社会的になるからです。
「たたかれるなど体罰を受けた子どもが、思春期以後になって力が強くなってくると、暴力を働くようになることは、いろいろな研究によって明らかにされています。たたくという親の行動が子どものモデルになるからですし、体罰を受けた子どもの心には、冷たさが残ってしまうからです。
私は、体罰は、力の強い者の、力の弱い者に対する暴力である−−と定義し、全面的に否定しています。
「愛のむち」などの言葉はありますが、「愛」は寛容な心であって、絶対にムチなどは用いないものです。体罰を加えた大人の自己弁護というよりほかはないでしょう。」(p.172 - 173)
「しつけ」が不要なら、まして体罰はもっと不要です。体罰こそが、反社会的な子どもに育てる元凶なのです。
しかし、子育てをする親自身も、そのように躾されて育ってきました。その親が子どもに思いやりのある態度で接することができなければ、つい叱ってしまったり、強制してしまうのです。
そこで平井氏は、親がまず、自分を育ててくれた親を批判するように言います。
「ここでお母さん・お父さんに言いたいことは、自分を育ててくれたお母さんやお父さんを批判してみてほしいということです。
それは、お母さん・お父さんが大した人格の持ち主でないのに、親になると威張りだして、自分の言うことをきけ−−と子どもに迫ることの誤りを正したいからです。」(p.153)
まず自分の親の未熟さを明らかにする。それによって、自分自身も未熟だということを認めることが重要なのです。親だって過ちを犯すのです。
「そこで、親はえらいんだという気持ちを否定することから始めてみましょう。決してえらくなんかないのですから・・・・・・。そして、子どもに対して、少しでもまちがったことをしたら、「ごめんね」と謝るようにしましょう。この謝るということは、謙虚であることを意味します。そうなると、子どもはお母さん・お父さんを慕います。そして、だんだんと尊敬するようになります。」(p.159)
また、子どもの寝顔を見ることも勧めています。
「私は、子どもの寝顔をじっと見詰めることが一つの方法だと思っています。子どもの寝顔の美しさ−−それを感じ取ることができれば、お母さんもお父さんも合掌したくなるのではないでしょうか。そして、むやみに子どもを叱っていたことについて、子どもに「ごめんなさい」と謝る気持ちになるのではないでしょうか。」(p.191)
平井氏は、育てたお孫さんの作文を読んだとき、とても感動したと言います。その一部を引用しましょう。
「僕がまだ小さかったころ、おじいちゃんの部屋のドアを足でけとばして割ってしまったことがあります。おじいちゃんはガラスには目もくれずに僕に、
「痛くないかい?」
と聞きました。てっきり怒られると思っていたのに、まるで反対のことを言われたので驚きもしたし、とてもうれしく思いました。
(中略)
おじいちゃんのところでは、何をやっても怒られないので、何が良いことか、何が悪いことかがわかりません。でも、おじいちゃんの困ったような様子をみていると、いけないことだと分かるし、うれしそうな様子をみるとよいことだと分かります。
おじいちゃんは自分の頭で考えて、自分の考えを持って行動する人だし、僕たちにもそういう人になって欲しいから、簡単に他人の行動を批判したり、制限したりしないのだと思います。そして僕はおじいちゃんのうれしそうな顔を見るのが大好きです。」(p.200 - 201)
叱らずに、しつけもせずに、自由にさせる。そうすれば、信頼関係が築かれ、困るようなことは自発的にしなくなるのです。
子どもからこんなふうに思われたら、どんなに嬉しいことでしょうね。
この本には、2歳半から3歳、3歳から3歳半の子どもの姿として、その特徴がたくさん書かれています。
それを知ることで親が、これが正常なのだと子どもを受け入れられるようにするためです。
これまでの常識で「よい子」だとされていたのが、本当は「よい子」ではなく、その逆に「問題のある子」だった。その理解が進めば、子育ても変わってくると思います。
子育てを考える上で、ぜひ読んでいただきたい本だと思います。
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