「みやざき中央新聞」の社長、松田くるみさんの本を読みました。
松田さんは、同紙の魂の編集長、水谷もりひとさんの奥さんです。
お二人で築いてこられた素晴らしい「みやざき中央新聞」の歴史を覗いてみたくて、この本を買いました。
大変な時期を、多くの人に支えられて乗り切ってこられたことが書かれていました。
どうしてそんなにも多くの人がお二人を支えてきたのか?
その答えは、お二人の生き方にあるように思いました。
では、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「当初から、水谷には心に決めていたことがあった。
それは、「自分が感動した話を伝えたい」ということだ。私も、その思いを大事にしたいと思った。」(p.30)
もとは宮崎中央新聞という名で、役所などの不正を暴くような新聞だったそうです。
蓋をしておきたいことは記事にされたくないから、役所や企業は新聞を購読する。いわば、総会屋の新聞のようなものだったのでしょう。
それを引き継ぐことになったお二人は、なんとなく方向性を、上記のように考えたようです。
引き継いだ後も元オーナーの関係者から、運営資金を提供されていました。
しかし、独立から4ヶ月目に、松田さんは資金提供を受けないようにしようと決心します。「私が営業に出、読者を増やせばいいのだ。」と決意されたのです。
当時の発行部数は500部くらい。表裏2面の小さな新聞で、わずか500部では赤字です。
そこからコツコツと営業を重ね、3部増えては2部減るという遅々たる歩みでしたが、年間に100部ずつ部数を増やしていかれたのです。
「寒くても暑くても、晴れていても雨が降っていても、動いていれば気分が晴れた。1日3件の見本紙申し込みが取れれば、さらにその日は気持ちが良かった。
しかし翌日には、またゼロから出発をしなければならない。いつ終わるともしれない気持ちになって、落ち込みそうになる日もあった。」(p.52)
この気持ち、よーくわかります。目標に近づいていることが明確なら、やる気も持続できるでしょう。しかし、いつになったら経営が安定するのか見通せないままに、ただ1部ずつ積み重ねていくという行為は、徒労ではないかと思えてくるのです。
そんな中で松田さんは、社会教育家の田中真澄氏の講演を聞く機会がありました。その講演によって松田さんは、悩まずに頑張っていこうと決意されたそうです。
そして12年後、田中氏が読者になってくれたとき、松田さんは嬉しくて、次のように手紙に書いて送ったそうです。
「今の私があるのは、12年前に田中先生の講演を聴き、『凡人は一点集中しかありません』の言葉をいただいたお陰です。コツコツコツコツやってまいりました。途中挫折しなかったのは、田中先生のご講演のおかげです」(p.64)
「折れそうな気持ちを立て直し、営業の柱をまっすぐと私の心に建ててくれたのは、確かに田中先生の言葉だったと信じている。
もしあの時、あのタイミングで先生の講演を聴いていなかったら、近道をしようとして、かえって遠まわりをしていたかもしれないし、あそこまで根気強く、営業が続けられただろうか疑問に思う。」(p.65)
すべてのことは、適切なタイミングで起こるのです。松田さんが田中氏の講演を聞いたことも、また必然だったのでしょう。
また、阪神淡路大震災の後、親しい読者の木村さんから頼み事をされたことがあったそうです。それは神戸で宝石商をやっていた木村さんのいとこが、神戸では売れないからと宮崎に行商に来るので、「よろしく」ということだったとか。
当時の松田さんは、宝石を買う余裕などまったくなかったのですが、「何とか協力したい」という思いから、一番小さい指輪を月賦で購入しました。
毎月2千円ずつを木村さんのところに届けることにしたのです。このことが、後に「みやざき中央新聞」を大きく発展させる礎になるとは、松田さんも思ってもみなかったそうです。
それは、独立して10年が経ったころ、住居件社屋がほしくなったときに起こりました。
それまでは、3LDKのマンションの中に、オフィスを置いていたそうです。それでは環境的にあまり良くないので、新社屋をと思っていたとき、すぐ近くに最適な店舗付き住宅が見つかったのです。
価格は2300万円。当時、会社の収益は損益分岐点を超えてはいたものの、金融機関から信頼される資産はなし。地元の銀行を回ってみても、どこも融資を断ってきたそうです。
そんなとき、読者の木村さんから、「あの物件はどうなったの?」と聞かれたそうです。正直に銀行から融資を受けられないことを話すと、「宮崎太陽銀行に行ったら? 私から話しておくわ」と言われたそうです。
木村さんのご主人が、その銀行の常務だったのです。こうして、無事に融資を受けられて、新社屋と住居を手に入られたそうです。
「復興支援のためにと思い切って買った指輪が、幸運を招いたのだ。木村さんは、毎月必ず指輪の代金を持ってきた私を信頼してくれたのだろう。
3年間払い続けたことで得たものは大きな信頼だった。」(p.76)
何がどう転ぶかわかりません。ただ誰かのためにと思ってやったことが、後々、自分に返ってくるのでしょう。
最初のころは、松田さんが一軒一軒回って営業していましたが、そのうち、読者の方が紹介してくれることが多くなってきたそうです。
松田さんはありがたくて、紹介先の方だけでなく、紹介してくださった方へも、丁寧にハガキや手紙を書いて送ったそうです。その伝統は、今でも残っていています。
「丁寧に書いて郵便ポストに投函した。投函する時は、赤いポストに向かって手を合わせた。ハガキに書いた言葉は、本当なら私自身が相手に面と向かって話すことだ。
その言葉を葉書で伝えないといけない。郵便局員さんにこの気持ちも一緒に運んでほしい、そう言う気持ちで手を合わせた。」(p.83)
松田さんの読者に対する思いは、並外れています。どこかへ行けば、必ず読者のお宅を訪ねたそうです。
「手間暇を考えると、費用対効果が合っているとはとうてい思えない。しかし、どうしても「読者に会いたい」という思いが自分の中で強くなっていた。理由があるとすれば、それだけだ。」(p.91)
松田さんは、非常に行動的な方です。その行動力は、次のような考え方から生まれているのでしょうね。
「やりたいことを口に出して、自分の行動を決めていく。いいところか悪いところか分からないが、これも私の癖である。
この時も、観光バスを出して青空のもと、読者の皆さんと宮崎の観光地をまわっている私の姿をイメージしていた。」(p.130 - 131)
20周年の講演会を行う時、各地から集ってくれる読者と一緒に宮崎観光をする。そのイメージだけで、やることを先に決めてしまったのです。観光バスなど借りたこともなかったのに。
「みやざき中央新聞」は、今や発行部数1万7千部になるそうです。そこまで大きく発展するきっかけとなったのが、社説を集めた「日本一心を揺るがす新聞の社説〜それは朝日でも毎日でも読売でもなかった〜」という本を発行したこと、そしてその本が大ヒットしたことです。
その本が大ヒットすることに大きく貢献したのは、書店「読書のすすめ」店主の清水克衛さんが、テレビ番組で取り上げてくれたこと。その清水さんが同書を取り上げるきっかけが、実はスタッフの素晴らしい行動にあったのだそうです。
「そんなある日、スタッフの刀根が「一日お休みをください。理由は聞かないでください」と申し出てきた。真面目な彼女にはめずらしいことだ。
(中略)
刀根は、NPO法人「読書普及協会」の会員だった。読書普及協会は、東京江戸川区にある書店「読書のすすめ」店主の清水克衛さんが代表をしているNPO法人だ。
(中略)
刀根に「みやざき中央新聞がどんな新聞か、番組担当者に見せたいので送付してほしい」と伝えた。そのとき彼女は誠意を尽くしたいと思った。そして清水さんに直接会って手渡すことを決めた。
(中略)
編集長の本のことを思って上京してくれた刀根の決意を思うと、胸が熱くなった。そこまでやってくれるスタッフを持てたことが、何よりの宝物だと思った。」(p.138 - 139)
このエピソードを読んだ時、私は涙が止まりませんでした。
こんな熱い思いを刀根さんに抱かせたのも、いかに日頃から松田さんや水谷さんが、高邁な理想を掲げ、そしてスタッフのことを思って働いて来られたか。そんなことが伝わってくるのです。
松田さんは、一時期、高校の家庭科講師を務めたそうです。そしてそれにのめり込みそうになった時、妊娠されたのだとか。
天職とまで感じた講師の仕事は、1年で辞めることになったそうです。
「とても悲しかった。運命の女神は何を教えようとしたのだろうと思ったほどだった。どんなことでも、時間が経って振り返ってみないと分からないことがたくさんあるが、それが人生かもしれない。
後になって考えてみた。もしあの時、教師という仕事にのめりこんでしまっていたら、本業のみやざき中央新聞はどうなっていただろうか。やはり運命の女神は、「あなたのやるべきことはこっちです」と教えてくれたのかもしれない。」(p.168)
そのときは理不尽に思えても、後になってみれば、あれで良かったと思えるものかもしれませんね。
3人目のお子さんが生まれた後、松田さんは海外生活をしたくなったのだそうです。今の生活に息苦しさを感じ、20代のころにやりたくてもできなかった海外留学を、どうしてもやりたくなったのだとか。
「しかし、お金がない。時間がない。つてもない。この三拍子をどうしたらいいのか。
面白いことに、その時私たち夫婦は「できない理由」を一切考えなかった。
どうしたらできるようになるだろう……。二人で知恵を絞った。」(p.171)
松田さんの言うことを否定しない水谷さんも素敵です。そして、できない理由を考えないというお二人の生き方も。
そういうお二人だったからこそ、「みやざき中央新聞」をここまで発展させられたのだと思います。
松田さんはその後、乳がんで左乳房全摘出という手術をされます。
そのこともまた、松田さんは前向きに捉えていました。そして水谷さんは、そんな松田さんのことを詩にして、病院の談話室にある「入院ノート」に書かれたそうです。
「子どもたちのいのちを育ててくれたおっぱい
失ったものが大きいから、きっとそれ以上のものが返ってくると思っていた
本当にそうだった
入院中、妻はとても大切なものをたくさんいただいた
あの小さなおっぱいと引き換えに……
この闘病生活はきっと活字になるだろう
転んでもタダじゃ起きない女だから」(p.210 - 211)
いかに水谷さんが、松田さんのことを信頼しておられるかがわかりますね。
タイにも日本人が大勢いますが、ぜひこの「みやざき中央新聞」を購読してほしいなあと思います。
私はWEB版で読んでいますが、本当は紙媒体の方が好きです。スタッフの方から、手書きのメッセージも届くそうですから。
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