話題になっていたので、Kindle版で買って読みました。明智憲三郎(あけち・けんざぶろう)さんの歴史を考察する本です。
「本能寺の変」は、誰もが知っている歴史的な事件です。
戦国武将の織田信長が、天下統一を目前にして、臣下の明智光秀によって殺されたもの。
光秀が謀反を起こした理由は、信長に虐待されたから。あるいは、領地を召し上げられそうになったから。
それがもう定説になっています。
そして、それを知った豊臣秀吉は、主君信長の仇を討たんとして、誰もが予想もしない「中国大返し」によって駆けつけます。
そして、山崎の合戦で光秀軍を打ち破り、光秀は逃げる途中、落ち武者狩りの手にかかって死ぬ。
一方、徳川家康は、堺から京に向かう途中、謀反の報を受け、光秀に討たれてはならぬと、命がけの伊賀越えで、やっとの思いで三河まで辿り着いた。
こんな話が、もはや私たちの常識となっています。
その常識に異を唱えたのが、作者の明智さん。実は明智さんは、あの光秀の子孫になるのだとか。
明智光秀の汚名を雪ぐべく、文献に丹念にあたりながら、定説を覆していきます。
明智さんは、元SEだそうです。私も同業なだけに、論理的思考の重要性を理解しています。
根拠となる事実と事実を論理によって結びつけていく。そうしなければ、事実の全体が見えてきません。
「決定的な目撃証言がなくても容疑者に有罪判決が下されたのは「蓋然性」です。様々な証拠から容疑者が砒素を投入した蓋然性が高いと判断されたのです。
歴史の真実も全く同様です。直接そのことを書き残した史料がなくても犯罪捜査と同様に様々な証拠から蓋然性の高い真実を復元することができます。大事なことは答に至るこの手順です。思い込みの前提条件から答を先に作って、それに合いそうな証拠を探すというのは本末転倒であり、犯罪捜査であれば冤罪作りです。
私は信憑性ある当時の史料から徹底して証拠を洗い直し、根底から本能寺の変研究をやり直しました。」
このように、「和歌山毒入りカレー事件」を例に上げながら、歴史の真実を解明するための手法について書かれています。
「私は自分のこのやり方を「歴史捜査」と名付けました。一般的な歴史研究とは明らかに次元が異なるからです。」
以上は、本の冒頭に書かれた文章です。
なんだか大げさな感じもしましたが、本を読み終えてから改めて読んでみると、それがけして大げさなことではなかったとわかります。
そして、その「歴史捜査」から導かれた「本能寺の変の真実」は、これまでの定説とはまったく違うものでした。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった有名な武将の人物像も、これまでとは違って感じられるようになりました。
「「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とはドイツの鉄血宰相といわれたビスマルクの言葉だ。歴史に学ぶとは、自分とは異なる経験・思考・能力を有する先人の存在を認め、その人物の真実にどれだけ肉薄するかという精神活動であろう。だから新たな発見があるのだ。自分の経験に先人を当てはめて自分の器で解釈することは歴史に学ぶのではなく、自分の経験を正当化しているに過ぎない。」
明智さんは「エピローグ」でこう語ります。たしかに歴史に学ぶということは、こういう姿勢でなければ意味がないと思います。
現代の価値観で過去の出来事を裁くことも、歴史に学ぶとは言えない態度だと思います。
過去には過去の価値観があり、そこでできる最大限の知恵を絞って、その結論を導き出したはずです。
それに対する共感というか敬意を持たなければ、歴史の真実は見えてこないでしょう。
明智さんが暴きだしたのは、勝者が作り上げた歴史の欺瞞です。
世界の歴史は常に、勝者によって作られてきました。そこには敗者の正義もあったはずなのに、それは葬られているのです。
その一方的な歴史を、ただ受け入れることが歴史に学ぶことではありません。
真実は多面的です。それぞれに思惑があります。それを見つけ出してこそ、本当に歴史に学ぶことができるのだと思います。
この本は、私たちが歴史に向き合う上で、重要なことを教えてくれる良書だと思います。
