「あの世に聞いた、この世の仕組み」の著者、雲黒斎さんがFacebookで、賢者テラさんの著書が発売されると宣伝しておられました。またその本が素晴らしいと、絶賛されていました。
スピリチュアル系の本は、まあどれも似たような感じなので、もういいかなという思いがあったのですが、雲黒斎さんが絶賛されるなら読まないわけにはいきません。
と言うことで、すぐに注文して読んでみました。
最初は、ちょっと斜に構えたような感じがして、既存のスピリチュアル系の言うことをバッサバッサとなで切るような言葉に、あまり好感が持てませんでした。
「まあたしかに、そうも言えるけどね。それにそういうことは、「神との対話」にも書かれてるし。」
などと、好感が持てないことから、そういうちょっと批判的な気持ちも抱きました。
けれど、言われていることはとてもまっとうで、その通りと思えることが多く、それなりに線を引きながら読み進めました。
第4章は「覚醒までの道のり〜テラになるまでの軌跡」となっていて、テラさんの半生が語られていました。
そこを読んだとき、私は同じ匂いを持った存在として、テラさんに親しみを覚えたのです。
テラさんは、大学時代に新興宗教にハマったと書いています。具体的な団体名は書かれていませんが、おそらく私がハマったのと同じでしょう。
その後、発達障害だとわかり、普通のキリスト教を知りたいと思って、教会に行くことになります。
そして神学校にまで通って、牧師を目指したのだそうです。
ところがそれから、なんと「神との対話」と出合ったことが書かれていました。
テラさんも、「神との対話」を読んで、これまでのキリスト教が抱えている矛盾に気づかれたようです。
私との類似点は、ここまでです。テラさんはその後、覚醒体験をすることになります。そして、その気付きから、そのことを世に広めなければという使命感を得て、賢者テラとして活動をすることになったのだそうです。
年齢が書かれていませんが、おそらく私と同じ50代ではないかと思います。
賢者テラとしてブログを書かれたり、講演活動をされていたとき、雲黒斎さんの目に止まり、一気にメジャーになられたようです。
前置きが長くなりましたが、一部を引用しながら、内容を紹介しましょう。
まず第1章の中で、「テラのスピリチュアル的常識破壊」として、以下の4つをあげています。
その@「起こることはすべて決まっている」
そのA「空(くう)は考えるだけ無駄」
そのB「この世界に真理はない」
そのC「スピリチュアルに整合性は不要」
その@は、いわゆる「引き寄せの法則」を否定するかのような発言です。
「マラソン大会で、一位になれるのは一人だ。でも、参加する大勢が全員意識を百パーセント完璧に使いこなせて、完全に疑いなく一位になることをイメージでき、確信することができたとしたら、理論上は皆が一位になれることになる。
でも実際は、どんなに参加者全員が完全な意識の在り方をしても、やっぱり一位になれるのは一人だ。」(p.42)
「結局、ここで私が一番言いたいことは「意識で現実を変えられるというのは錯覚で、実は起きることはすべて決まっている」ということ。起きることはただ起きているにすぎない。」(p.49)
「究極視点では、ワンネス(ただひとつの意識体)だけしか存在せず、いくら無数の個に分離していても結局正体はひとつなのだ、という切り口からは、「私がすべて生み出している。私がすべて好きで選択している」というのは真実である。」(p.52)
このように言って、分離した相対的な世界での個、自我(エゴ)がどう考えても、それが現実になるわけではないと言います。
そして、不注意で子どもを轢き殺してしまった親に、「「それもあなたがつくった現実なんです」と言えますか?」と問いかけます。
「正しいかどうかよりも、思いやりがあるかどうかだ。そういう意味では、意識万能主義は責任問題において容赦がない。だって全部その人の意識の責任なのだから。逃げ道がないのだ。」(p.55)
このことは「神との対話」では、どちらでも取れるように書かれています。
まず、すべては私たちの思考が創っていると言うのですが、それが精神の思考かどうかははっきりとしません。
魂は私たちを、必要な条件に導くとも言っているからです。そうなると、私たちの現実を創っているのは、魂、精神、身体の3つの意識(これを超意識、意識、無意識と呼んでいます。)の活動によるとも言えます。
したがって、一方で思考が現実を創ると言いつつ、もう一方ではそれだけではないよと言っていることになるのです。
つぎに、そのBの説明を引用しましょう。
「この世界で「真理はひとつ。正解はひとつ」と考えることが、いかにこの世界を不幸にするか考えてみたことはあるだろうか。
人の数だけ独特なものの見方があり、それは永遠に統一され得ない。」(p.67)
これは「神との対話」でも、そのように言っていますね。
最近流行りのパワースポットについても、独特な考えを披露しています。
「パワースポットで実際に力を得たり、何かのお守りや石などのツールを大事にする人は−−
自分ではなく、自分の外に特別な力がある、と信じている次元を生きている。
だから、実際に効果がある。
(中略)
他からもらわないと、足りなくなると信じている。自分独力では十分ではない、と信じている。しかし、次のことに覚醒すると事情が変わってくる。
あなたは、神である。
あなたの正体は、無尽蔵のエナジーを秘めた神意識である。
あなたと世界とは、一体である。
あなたは、世界そのものである。
私は、これに気づいてからというもの、自分がどこにいようが関係なくなった。」(p.103 - 104)
言われてみると、たしかにそうだなあと思います。自分が神なのに、神社にお参りする必要性はありませんからね。
ついパワースポットやパワーストーンなどに頼りたくなるのは、まだ自分自身のパワーを信じていないからなのでしょう。
また、この世を演劇にたとえ、配役が女王様でも乞食でも、なんら優劣はないのだと説明します。
「だから、この世界で私たちにできることは、なぜ自分はこうなのか、なんてことに意識を向けたりして時間を無駄にすることではなくて、今、目の前に否定できないものとしてある現実を、ゲームとして楽しみ尽くす、ということに労力を割いていただきたい。
乞食の役を振られてブーブー不満をたれて過ごすのではなく、動かしようのない初期設定としてそれが与えられた以上、そこからどうしていくのかを考えるしかない。」(p.121 - 122)
生まれ持った境遇ばかりじゃありません。自分の判断や生き方の結果、おちいった困難な状況でさえ、それは配役として与えられたものなのです。
だから、それを現実として受け入れ、そこでどうするかを考えれば良いのだと言います。
「貧しさは、豊かさの反対語ではない。
貧しさとは、豊かさの属性のひとつである。
豊かさのバリエーションの一形態である。」(p.147)
たしかに言われてみるとその通りで、しかもそう考えると貧しいことさえ楽しめそうです。
「神との対話」でも、愛と不安は対極だと言いながら、愛がまったくない状況が不安で、不安さえも愛によって創られると説明しています。
つまり温度と同じなんですよね。熱いと冷たいは対極ではなく、温度のバリエーションに過ぎません。
「どんな物事に対しても、常に逆をも考え合わせ、どちらでもOKという柔軟な視点を持てれば、あなたはこの世ゲームの達人となる。」(p.155)
金持ちだけが素晴らしいわけじゃないのです。貧乏というバリエーションも、楽しみ尽くさなければ損なのです。
「忘れてはいけないのは、「あなたはありのままですでに素晴らしい」ということ。宇宙のすべてはただそうであるだけ。誰にも、何にも非はない。非がないのに、勝手な物差しを作り出して、自分たちで当てて苦しんでいるのが人類だ。」(p.170)
美醜の基準は時代や社会によって違います。それなのに、今の自分の価値観が絶対だと信じて、自分で苦しんでいるだけだと言うのです。
「ただ、宇宙の究極的真理は、「自由」だ。
乱暴な言葉で言えば、「どうでもいい」となる。
ひとつだけ問われるのは、正しいか、間違っているか、ではなく「本望か」である。」(p.171 - 172)
「本望か」というのは、別の言葉で言えば、「自分らしいか」であり、「ワクワクするか」だと思います。
私の感覚では、「美しいか」どうかですね。私は生き方に「美しさ」を求めますから。
「そこで、私が提言したい幸福論、幸せとは−−
その場その場で、限られた選択肢の中で、
自分がその中で最良と思うものを選び、その選択を受け入れられること。
ないものねだりをして「ああできていたら」と自分や世界を呪うのではなく、与えられた条件の中で最善を選んだ自分を、褒めてあげられること。」(p.181 - 182)
与えられた環境という条件、またそこで何が選択できるかという条件があります。完全なフリーハンドではないし、すべてを思いどおりにすることもできません。
その限定された中で、より自分らしい選択をして、そうした自分を褒めてあげられるなら、それが幸せだと言うのですね。
「私が主張するのは、宇宙において今ここの状況は最善でしかない、ということだ。
つまり、「心配」とか、「ネガティブな想像」を結果としてしてしまったなら、宇宙シナリオ上、それはそれで良かったのである。何の問題でもない。
だから、問題なのはネガティブなことを考えたことそれ自体ではなく、「考えたことを良くなかった、するべきでなかったと否定したり後悔したりすること」こそが問題なのである。」(p.198)
起こることは必然で無駄がないと言います。だとしたら、今が最善なのです。出来事や状況は完璧なのです。「神との対話」でも、そのように言っていますね。
もしそうであるなら、「心配してしまう」ということ、「ネガティブに考えてしまう」ということもまた、必然なのです。
だって、それが目的でこの世を創ったのですから。そういう体験をすることが最善なのです。
でも、そこに留まっていては意味がありません。ですから、そう感じたことで自己否定してはダメなのです。
「無限の可能性を含んだ「今ここ」において、何が起こってもおかしくないという覚悟と受容こそが、この宇宙を生きるうえでの最大の強さである。」(p.199)
「神との対話」でも、結果を手放すようにと言っています。特定の結果に執着してはいけないのです。
小林正観さんも、自分の好みではなく、導かれるままに生きる生き方を勧めています。
そうやって、何が起ころうともOKなのだと思えたなら、それこそが最強なのですね。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言うように、特定の結果を得ることをあきらめ、手放すことによって、人生は魂の導くがままにスムーズに流れていくのだと思います。
「「あなた」という宇宙の王と、他人という宇宙の王とでは−−
あなたのほうが大事である。
あなたこそが、最高の権限を持っている。」(p.205)
「自分の人生」というドラマの中では、自分が主役であり、監督なんですね。それが「他人の人生」というドラマも同時進行していて、そちらへは脇役として登場するのです。
こんな複雑な仕組みを考えられるのは、全知全能の神くらいなものでしょうね。
ですから「神との対話」でも、自分をもっとも大切にするようにと言っているのです。
「他人の気持ちなんて、あまり気にしなくてもいいです。
自分を幸せにすること、自分がやりたいこと、楽しく快くなること。
そちらにかなりの比重を置いて、追求していたらいいんです。
それがちゃんとできていたら、放っておいても他人を思いやることが簡単にできます。苦労なく、自動的にできているはずです。」(p.207)
「宇宙の王はあなたであり、虫ではない。
あなたが農業をしたい、それを通じて喜びを得たいと思うのなら、胸を張って、する必要のあることはしなさい。つまり、必要があるなら罪悪感なく虫を殺しなさい。
罪悪感はいらないが、その代わりに「感謝の心」をもって殺しなさい。」(p.209)
究極の選択ではありませんが、私たちの身体は、他の生命を奪うことなしに生き長らえることはできません。
そこではどうしても、「殺す」という行為が発生します。殺さなければ生きられないという矛盾した状況で、どう判断するかが求められるのです。
ここでは、これまでに書かれていたように、「正解はない」ということを再確認する必要があります。
常に自分らしいか、自分にとって本望かという判断を、自分でしていくしかありません。
そしてそれを体験し、自分の感情に耳を傾け、またさらに進化した自分として判断する。その繰り返しなのです。
悟り体験が必要なら、みんなが悟れるように神はしたでしょう。
そして、その方法を隠しておいて探させるようなことはしなかったでしょう。
そういうことも、「神との対話」に書かれています。
相対的な世界に身体をもって生まれた自我(エゴ)としての私は、その条件を持ったままに、この人生を生きる必要があります。
ゲームはこれしか行われていないから、好むと好まざるとにかかわらず、これをやるしかないと、「神との対話」でも言っています。
そういう意味で、この本は良い指針を示しているのではないかと思いました。
※バックは賢者テラさんのFacebookページです。
【本の紹介の最新記事】



