いまやスピリチュアル界の大御所と目されている山川紘矢さんと阿部敏郎さんの対談本を読みました。
本のタイトル「99%の人が知らない」は大げさですが、これはおそらく編集者の意向でしょう。こういう数字を出すと売れるのでしょうから。
少なくともお二人は、他の人が知らないことを知っているという優越意識は、卒業されているようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「いずれにせよ、あなたの魂は今生だけを生きる存在ではありません。ずっと以前にも別のいくつもの肉体のなかに宿っていたことがありました。
そう考えると、「人は死んだらおしまい」ではないでしょう? 今生は「魂のひとつの経験」であり、幸せに楽しんで生きればよいのです。死は新たな経験の始まりでもあるのだからむやみに恐れる事もありません。死は祝福だということでもあります。」(p.16 山川)
「僕自身は、個別魂さえも幻想だと考えています。
死と共に個という幻想から解放されて、大いなる意識そのものとしていまここに在りつづけるのではないかと。
実は命こそが意識であり、もともとひとつです。あなたの命もぼくの命も、犬や猫の命も、草木の命も、生きているものの命はみんな、根っこは同じ。もっと言えば、無機物の基本成分もそう。それぞれが存在を、「分離した個」として感じるのは、命がいろんな振動数によって現象化しているからそのように見えるのだと思います。」(p.19 阿部)
「今生に生きる私たちすべての存在は、同じ宇宙から生まれ、ひとつにつながった仲間だけれども、それぞれに個性を発揮しながらそれぞれ違った経験を積んでいる。そんなふうに魂を捉えていただければよいかと思います。」(p.24 - 25 山川)
「魂とは果たして、ぼくらが日常的に個として感じているものなのか、あるいは大いなる宇宙という普遍的なものなのか。ここがすごく難しいところだけど、ぼくはどちらも真実ではないかと思います。」(p.27 阿部)
上記のように、肉体の死は魂の死ではないから、私たちは永遠に生きるという点で、お二人の意見は一致しています。
ただ、死後の魂が、個別性を保つのかどうかという点では、それぞれ別の見解があるようです。
山川さんは個別性を保つとし、阿部さんは保たれずにひとつに融合されるという考えです。
これは、山川さんがリーディングなどで、精霊から言葉で情報を提供されていることと関係するかもしれません。
一方の阿部さんは、宇宙と一体化するような特異体験の中で、なぜか「わかっちゃった」という感覚です。
私も、どちらが正解かはわかりません。阿部さんが言うように、どちらも正しいのかもしれないと思います。
「どんな死に方にせよ、死は解放です。今生での役割を終え、満ち足りた気持ちで大いなる宇宙へかえっていくと思います。死は祝福。飲めや歌えや、踊ろうよの葬式もいいかもしれない。」(p.44 山川)
「表面的に苦しんで死んでいったように見えても、「ああ、いい人生だった」って言いながら死んでいっても、それは外側から見える違いであって、魂レベルではどちらも同じことが起こっていると思います。」(p.47 阿部)
「みなさんもいまのうちに、「この世のすべては芝居かゲームだ」と気づいてください。死期など気にならなくなり、とても生きやすくなりますよ。」(p.52 山川)
「僕たちは自分が魂の存在であることを発見するためにここにいるのです。スピリチュアルな成長ができれば、人はいつも、宇宙の愛に満たされており、実はいつ死んでもいいのだ、人生長かろうと、短かろうと、それはそれで、どちらもよいのだと、わかるでしょう。」(p.99 山川)
この考え方は、私にはしっくりくるものですが、おそらくまだ多くの人には反発されるでしょうね。
たとえば、事故によって不本意な死に方をした人であっても、それは魂レベルでは予定していたことであり、魂は喜んでいるなどと言えますか?
もっと言えば、暴漢に襲われて無残な死に方をした人がいても、「あー、良かったね。」と祝いながら、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎができますか?
極論のように見えるかもしれませんが、上記でお二人は、こういうことを言われているのです。
おそらく、多くの人は受け入れられないでしょう。そして実はお二人も、上記ではそう言いながら、まだそう信じきれないものをお持ちなように感じます。それはこの本からではなく、Facebookの投稿など、他のところで感じたことです。
「けれども、病気になったからといって、そう悲観することはありません。病気になって初めて、健康のありがたさに気づき、自分の人生を振り返る時間を持つことができるからです。病気にはマイナス面ばかりでなく、プラスの面もあるのです。」(p.167 山川)
「けれども、過去に起きたことはすべて、自分が魂のレベルで「引き寄せた」こと、すべては自分が生じさせたことなのです。
とは言っても、「自己責任なのだから、嘆いたってダメだよ」などと責めているわけではありません。別の言い方をすれば、魂にとって必要な体験をした、ということです。その人生には何ひとつムダな体験はなく、成功も失敗もないのです。しいて言えば、全て成功です。計画通りに物事が起こったのですから。」(p.196 山川)
7年間、気管支喘息で苦しまれたという山川さんの言葉だけに、説得力がありますね。
自分に関わる現実は、すべて自分が引き寄せたことです。それは自分が「悪い」のではなく、自分が「原因」であるだけです。
自分が原因となって物事を起こし、それによって自分が何かを体験する。だから、それが「悪い」出来事だったとしても、魂にとっては思い通りの、「良い」出来事なのです。
たとえば、地震や津波で大勢の人が亡くなったという出来事も、自分が引き寄せたのです。
このように、具体的な事例でお話しすると、急に拒否反応が起こりませんか?
山川さんも抽象的な話だと、上記のように達観されたことを言われていますが、具体的な事例になると、ただちにそういう見方はできないようですね。
この本にはあまり書かれていませんが、Facebookの投稿などを読むと、そういう一面が現れています。
少しだけ違和感を感じた部分も紹介しましょう。
「そうではなくて、仮に「心から世のため、人のために、こういう事業を始めたい」と願ったらどうでしょうか。宇宙はきっと、その事業に必要なお金を与えてくれます。」(p.198 山川)
つまりエゴから金を求めても得られず、他者のためなら得られると山川さんは言います。まるで宇宙の審判者がいて、「これは良い」「これは悪い」と判定しているかのようです。
こういう考えは、これまでのすべてが上手くいっているのだから大丈夫、という考え方と矛盾します。
もし、宇宙に審判者がいて、その善悪の価値基準にしたがわなければ思い通りの人生が歩めないのだとしたら、既存の宗教が言っていることと何か違いがあるのでしょうか?
こういうところは「神との対話」などとは違っている部分で、山川さんご自身が他で言われている内容とも、少し矛盾するように思います。
「人生で大事なのは、問題が起きないようにすることではありません。それはムリ。だって、自分では問題を避けた選択をしているつもりでも、やりたいこともやらずに無力感に囚われてしまうという問題が残るじゃないですか。
では、次々と起こる問題を解決しようと、がんばることが大事かっていうと、それも違う。問題というのは、自我が映しだしている「問題の影」に過ぎないので、実体のないものに何発こぶしを繰り出そうと、むなしい戦いに終始するからです。
それじゃあ、どうすればいいのか。一番いいのは、まず自分に起きた問題そのものは、良くも悪くもない「中立の現実」だと認識すること。そして、どんな問題も自分の内なるヒーロー、宇宙的自己がクリアしていくと信じること。そうすれば、とにかく自分を信じて「いま、やりたいこと」に集中できると思います。」(p.203 - 204 阿部)
問題解決手法と言われるホ・オポノポノのアプローチは、まさにこういうものですね。「神との対話」でも、問題を問題と考えるなと言っています。
問題に抵抗せず、ましてや批判や非難をする必要もありません。無理やり変えさせようとすることも不要なのです。
現実に起こっていることが、仮に自分が気に入らないことだとしても、それは自分が自分のために引き寄せたことだと理解して、問題を手放すことなのですね。
それが本当にわかっていれば、政治がどうのこうのと批判することもないし、肉食をする人を非難することもないでしょう。
ちなみに、阿部さんはFacebookで肉食を非難しておられました。しかし、この本の中で山川さんが肉食をしていると表明したことには、まったく苦言を呈しませんでしたね。
お二人の考え方を紹介するとともに、私がちょっと矛盾を感じることも書きました。ですが、これはお二人への批判ではありません。
むしろその逆で、お二人への親しみです。はるか遠い存在にも感じられるお二人ですが、その方たちにして、まだこういう矛盾を抱えておられるのだとわかると、なんだかホッとします。
私などが、なかなかスピリチュアル的に成長できていないとしても、心配することはないからです。
それぞれの人が、それぞれの立場で、自分としてしっかりと経験を重ねていけばよい。生も死も、心配しなくても上手く行くようになっている。そういうことなのですね。
対談本ということで読みやすく、あっというまに読めてしまいました。
スピリチュアル界の大御所の対談は、いろいろなことを気づかせてくれると思います。
【本の紹介の最新記事】