かっこちゃんこと山元加津子さんの本を読みました。
今回の本は、かっこちゃんが気に入って読んでいた「星の王子さま」(サン・テグジュペリ作)を読み解くものになっています。
かっこちゃんは、この本がとても気に入っていて、内藤濯(ないとう・あろう)氏の訳本だけでなく、他の人の訳本、さらには英語訳も何冊か読んだそうです。
そうする中で、「どうしてこの言葉が使われるのだろう?」という疑問も出てきたのだとか。
そこで、フランス語で書かれた原本を読みながら、それをかっこちゃん流に翻訳し、さらにその物語について思うことを書き記すことになったようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私は阪根さんからインカの話を聞いたり、アボリジニの方とお話ししているうちに、本当は学校の子どもたちだけが特別なわけではなくて、人には心の目と耳をすませば、空からものを見るような力があったり、まるでレントゲンのように、箱の中の洗濯ばさみの数がわかったりするのだろうかと、とてもうれしくなりました。
そして、自分ができないからといって間違いだなんて決めつけてはならないし、それから、本当はみんな素敵な力を持っているんだなあと思いました。」(p.30)
私たちは大人になるにつれ、こうあるべきなどと、勝手に決め付けをするようになり、それを信じて、他の可能性を認めなくなりがちです。本当は完全な自由なのに、自分で自分を制限しているのです。
自閉症などの障害を持った人が、特殊な能力を発揮することは、今は多くの人に知られるようになりました。
しかしそれは、彼らの特殊能力ではなく、人が本来持っていたものかもしれませんね。
「そして、私はそのとき、人は誰かが痛いと自分も痛くなるようにつくられているんだと思いました。そして、誰かがうれしいと、自分もうれしくなるように作られているんだと思いました。」(p.45 - 46)
「共感する」と言いますが、そういうことではなさそうです。人と人は、本当はつながっているのだということだと思います。
レイキをしていても、ある人は、被施術者の痛みを同様に感じたりするそうです。そうでなくても、悪い部分があると、それが手の痛みとして現れることがあります。
ですから、誰かの痛みが自分の痛みとして伝わり、誰かの喜びが自分の喜びとして伝わることが、本当にあるのだと、私には信じられるのです。
「かずきくんにとっては、冬の星座を覚えることなんて大切なことではなかったのです。でも、ガソリンスタンドを見られたことは、とてもうれしくて大切なこと。私は上手な滑りは見ることができなかったけど、ウサギの足跡は本当にうれしくて大切だったのです。人によって、大切なことは違うのですね。」(p.51)
私たちはつい、他人も自分と同じだと考え、ときには同じであるべきと考えてしまいがちです。けれども、それは真実ではないということですね。
そのことがわかっていたら、相手が自分と同じように考えないとしても、それを責めることはなくなります。
それを責めなければ、相手が嬉しいと感じたのなら、その嬉しさに共感してあげることはできます。
私は、「星の王子さま」という本は知っていましたが、おそらく読んだことはありません。
かっこちゃんの訳で読んでみると、実に不思議な物語です。理解の範疇を超えています。
でも、それを理解しなくてもいいのかなあって思えてきました。
相手が嬉しそうにしているなら、「きっと嬉しいんだ」と思って、その嬉しさにただ共感してあげればいいのではないかと。そんな気持ちになってきました。
「次郎くんのお母さんは次郎くんを今までだって、本当に愛しておられるのだけど、今ご自分を責めていることで、これからも優くんのおばあちゃんのようにもっともっと愛し続けるんだと思いました。
(中略)
愛するとは本当にどういうことなのでしょうか?」
これは、前提となる話をしないと理解できませんよね。
まず優くんが仮死状態で生まれた時、仮に助かっても重い障害が残るとわかったので、おばあさんは優くんが死んでほしいと願ったという話が前にあります。
つまりおばあさんは、生まれてきた孫よりも、障害児を抱えて苦しむかもしれない息子がかわいそうになったのです。
この話をかっこちゃんは知っていて、次郎くんのお母さんに話したのです。
次郎くんのお母さんは、息子さんが事故にあったと聞いた時、事故にあったのが健常なお兄さんの方ではなく、障害を持った次郎くんだったら良かったのにと、一瞬でも考えてしまった自分を、ひどく責めていたのです。
優くんのおばあさんは、死んでほしいと願ったことが優くんに申し訳なくて、それからはとてもかわいがったそうです。
ですからかっこちゃんは、次郎くんのお母さんも、そうなるんだろうなあと思ったのです。
ここには、障害者の世話をすることが義務や犠牲に感じてしまうことがある、という現実があります。
かっこちゃんは「愛するとはどういうことか?」と悩んでおられますが、私は、簡単に答えが出せないものだと思います。
あるときはこうだと思い、あるときは別の答えを出す。迷いながら、何かを体験していく。
そうやって、だんだんと愛に近づいて行くのではないでしょうか。
「私は子どもたちと一緒にいて、一番に感じたのは、みんな素敵でみんな素晴らしいんだということでした。そして、それは、自分のことを好きでいていいんだという思いにつながったのです。」(p.79)
今あるそのままの自分を好きになる。そうであるべきだし、そうであってほしいと思います。
そのためには、他の人も今あるそのままでいいし、そのままで素晴らしいと認めることなんですね。
このことは、単に顔形のことや、人によって得意分野が違うということだけではないと、かっこちゃんは言います。
「たとえば、いつも穏やかな人と、すぐにカッとして、人を殴ってしまうような人がいるとしたら、私は穏やかな人のほうがいいのだと思っていたと思います。」(p.81)
怒りっぽい人より穏やかな人、不真面目な人より真面目な人が、より良いという価値観は絶対だと考えてしまいがちですからね。
「ラブラドールは穏やかだから盲導犬に適しているが、柴犬は、忠誠心が厚く、主人以外の人にはなつきにくく、攻撃的で、番犬に適している。」(p.82)
このように、犬種によって、遺伝子によって、その性格には違いがあると言います。もしそうなら、人間も同じだと言うのです。
「生まれた場所や得意、不得意や姿かたちとおなじように、自分の力でどうしようもないことを、責められてしまったら、その人はきっと悲しむでしょう。そして、自分ことを好きと思えなくなってしまうのではないでしょうか。」(p.82 - 83)
穏やかな性格の子は、あまり努力しなくても穏やかでいられます。でも、短気な性格の子が穏やかでいるには、相当な努力が必要になります。
そのことをわかっていれば、短気な子が少々暴れることも、いとおしい眼差しで見てやることができるのでしょうね。
「なおちゃんは、車椅子に乗っていて、手も足もあまり動かなかったけど、心はとても自由でした。根っこがあるから不自由だとか、車椅子に乗っているから不自由だとか、そんなことを決めつけているのは、やっぱり私の心が、自由でないからかもしれません。」(p.112)
「動けない」という意味では、車椅子に乗らざるを得ない人は不自由だと言えるでしょう。
でもかっこちゃんは、その価値観でしか見ないことの方が、不自由ではないかと言うのですね。
「でも、世話を焼いているとね、ただひとりの僕たちのいとおしい子だとはっきりとわかるんだよね。僕たちを選んで生まれてくれたなんて言う人がいてね。最初は、勝手なことを言うんじゃないよと思っていた僕がね、『きっとそうなんだよね』と思うようになるんだよね。それには時間が必要なんだよ」(p.134)
かっこちゃんの先輩で、障害を持った子どもが生まれた方の述懐です。
小林正観さんも、生まれてきた娘さんが障害者だとわかってから半年、現実を受け入れられなかったと言っています。
きっと時間は、私たちが愛に近づくことを助けてくれるのだと思います。
星の王子様は、自分の星に残してきた花の世話をするために、また星に戻っていきます。
旅をする中で、その花が特別であり、その世話をすることが、自分がやりたいこと、やるべきことと気づいたからです。
私たちもまた、何十億人の中の1人ではなく、自分にとって特別な存在になれば、その人のために世話をしたくなるのではないでしょうか。
愛するとは世話をすること。義務とか犠牲ではなく、ただそうしたいからというだけで。
そんなことを、この本を通じて考えさせてもらいました。
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