昭和8年に発行されたレイキの本を読みました。と言っても復刻版ですけどね。著者は、富田魁二氏です。絶版になっていたものを、ヴォルテックスの望月俊孝さんが復刊されました。
富田氏は、臼井靈氣療法に学び、独自にこの療法を進化させ、富田流手あて療法とされました。特に腎臓への手当てが治療に有効だということを、広められたのだそうです。
復刻版ということで、昔ながらの言葉を意識されたのだと思いますが、すべての漢字に古いルビを振られていて、たいへん読みづらいです。
むしろルビがない方が読みやすいと感じる部分もあります。ただ、もしそれを修正するなら、現代語版として発行してほしいとも思います。
では、気になった部分を引用しましょう。ただし漢字は、できるだけ現在の字体を使い、場合によってはひらがなに置き換えるようにします。
「私の治療法の真理修得も、また、この一小話の示す所に外ならぬものであるから、本書を一通り修得した上は、一人でも多くの人に、治療を施行して、その妙味を体得するのが一番の近道である。」(p.5)
この本には、レイキの修行法も書かれています。アチューンメント(霊授)については触れられていませんが、実際には行われていたようです。秘伝でもあるため、本には書けなかったのでしょう。
しかし、臼井靈氣療法に始まる日本のレイキは、西洋レイキと違い、ただアチューンメントを受けるだけでなく、その能力を伸ばすための修行が必要だとされています。
その修業の中でももっとも重要なのが、他人にレイキを施すことです。そうすることでレイキを実感するのが、近道だと言うのです。
「例へば、痛いとか、苦しいとか、あるひは、突然打つた時などには、期せずして、手が、その箇所にあてられるものである。またさうして、手をあてると苦痛も、幾分か、楽になり、心も安んずるものであるが、これは、無意識に行はれる一種の自然療法とも見るべきものである。」(p.6)
「手当て」という言葉があるように、誰でも無意識に不調の箇所に手を当ててしまいます。このことからも、手当て療法は自然療法だと言うのです。
「要するに、治療者のいかんにかかはらず、病者自体の力量に応じて進行する所を見ると、いかなる場合でも人体を害せないと言う事を証明することが出来る」(p.87)
つまり、「レイキは受ける側に悪い影響を与えるか?」という問題に関して、それはないと断言しています。
レイキは、患部が必要なだけレイキを吸い取る、と表現されます。気功のように、出す側が量を調節するものではないのです。
「今仮に、乳を患ふ婦人があつて、これを医学上乳癌と診断したとすれば、この治療箇所は、乳のみを治療するのが、普通の治療法である。あるいは手術に、あるいは湿布にと、治療に手を尽くすのであろう(※)元来癌病は、不治の病気と見なされておるので、治療の効果も至つて面白くないのが通例である。
この病者をこの療法によつて実地研究したるに乳の治療も、もちろん必要ではあるが、この時は、子宮の治療が有効であることを発見したのである。したがつて子宮を治療することによつて適確に効果を奏し得るのである。」(p.132)
※ここに句点(。)が入らないとおかしいと思われますが、本には句点がありません。
ここはレイキ療法らしさが書かれている部分です。つまり乳癌だからと言って、患部だけを治療するわけではないのです。
この本では病根と言っていますが、症状は患部に表れるとしても、その病気を作り出している元が、別の所にある場合もあるのです。(病根は複数箇所にある場合もあります。)
この本では、多くの場合に病根が腎臓にあることを明らかにしています。つまり、腎臓の機能低下が血流に障害を起こすことで、様々な病気になっているのだと言うわけです。
この病根を探るのに、レイキは有効なのです。ヒビキと呼ばれるものを手が感知することで、どこに病根があるかもわかります。
ただしレイキは、病名の診断はできません。ヒビキは病根や患部を教えてくれるとともに、そこが健康かどうかを教えてくれます。けれども、どういう理由で不健康なのかとか、どのように不健康なのかはわからないのです。
それでも治療できてしまうため、レイキにおいては正確な病名診断を必要としないと言えるでしょう。
「治療などのために、霊気を消費して治療者の心身に有害なるや否やと言ふ問題については、種々研究して見たが、結局は、ある程度までは健康上有益であるが、ある限度を越すときは身体に疲労を感ずる事になる。この疲労の性質は、筋肉および精神労働者の疲労に等しきものであつてこの療法独特の色彩ある害はまづないと言へよう。」(p.137)
気功の場合、氣を出し続けることによる疲労が蓄積するとされます。しかしレイキは、宇宙に充満している氣が流れるだけなので、施術者には何の影響もないとされています。
富田氏も、同じ姿勢を取り続けるなどの筋肉疲労などはあるものの、レイキを出すことによる影響はないと言います。
「本会員中にも七十余歳の高齢者もありて、毎日一人か二人治療を継続しておる人もあるので、老衰して身体の健康も勝れないようだから治療する事を中止してはと勧めたが、その老人は朝夕一人二人治療しておると、かへつて身体の調子が終日よろしいが治療を休んだ日はかへつて具合が悪いと言つて何年かこれを継続しておる事実もある。」(p.139)
これもレイキ療法の特徴で、レイキを行う側もまた、レイキの恩恵を受けると言われています。なぜなら、宇宙に充満する氣が施術者の身体を流れて被施術者へと流れるため、意図せず自分の身体にレイキが流れることになるのです。
「元来治療と言ふのは、病気を治さんがための手段方法であるがこの病気を治すと言ふ根源は他人の力に因つて出来得る性質のものではない。病者自体に存在する性質のものである。即ち病者の自然療能作用の発動いかんに因つて成立しあるひは不成立に終るべき治療の原則である。この原則はこの療法に限つた訳ではない、すべての療法は皆同一であるはずだ。そこで治療すると言ふことは病者の自癒力を基礎としてこれに諸精分を与へ病気に抵抗するの力量を増加せしめんがために行はれる手段方法がいはゆる治療である。」(p.143)
つまり病気を治すのは、病人が持つ自然治癒能力だと言うことですね。レイキに限らずあらゆる療法も、その自然治癒能力を助けるものに過ぎないのです。
「病者の治療を重ねると、種々な所が痛くなるとか、「ダルク」なるとか、下痢を起こすとかあるひは微熱を発するとか、たいてい何らかの生理的変化が起きて来るが、これは発病したのでもなくまた病気が悪化したのでもない。治癒の経過として当然来るべき治療反応であつてむしろ喜ぶべき兆候である。
病気のある一端から見受けると、悪くなつた様に見えるが、決してそうではない。慢性病の治療には、前述のごとく治療の蓄積によつて、抗病力が増加して来るから、その反応として起こり来るもので、これは生理上当然の事である。病気になるにも、急性より慢性と移り変つて行くのであるから、治るにも、その反対に慢性より急性に変化して、しかる後治癒するものである。」(p.148)
よく言われる「好転反応」です。レイキ療法にも副作用があると言う人は、この好転反応のことを指しているのだと思われます。
ここで富田氏が言うように、好転反応は治療の過程なのです。自然治癒によらず、薬物などで病原菌を死滅させる方法には、どうしても副作用が伴いますが、それは健全な部位を痛めることによって起こるものです。好転反応と副作用は別ものだと理解する必要がありますね。
「(1)治療は一人で一病者を治療するのが立前である。しかし二人以上で行ふ場合もあるが、その効果は割合にあがらない。なぜかと言ふに、前述べた通りこの療法による治療は、患者が、治療者の放出する霊気を吸収するものであるから、余計に与へたところでそれだけ吸収することは出来ない。」(p.168)
これはある意味で目からうろこでした。なぜなら、レイキにはレイキマラソンというものがあって、複数の人で1人に施術すると効果がアップすると言われているからです。
ひょっとしたらこの考えは、西洋レイキから来たものかもしれませんね。伝統のレイキでは、病根や患部に当てる手が、多くても少なくても、そこから吸収される氣の量は同じだと考えるべきなのでしょう。
「この療法によつて治療する時は、医薬を凌駕する効果を奏する事が出来る。否確実に効果を奏しておる。」(p.254)
何という自信に満ちた宣言なのでしょう。これは小児麻痺など小児病の治療に関する項に書かれている文です。多くの病人の治療を行ってきた実績に基づく自信なのでしょうね。
大正時代に始まった臼井式レイキ療法は、たちまちその裾野を広げていきました。戦前には、国内に100万人もの施術者がいたとさえ言われます。
戦後、占領政策によって代替医療は多くが禁止されました。それにともない、レイキも衰退して行ったのです。
現代になって、海外で広まったレイキが日本に逆輸入されるようになりました。それとともに、伝統的なレイキが見直されつつあります。
私自身もレイキを習ってみて、その効果に驚いています。まだその効果の一部を体感したに過ぎないのですが、その驚くべき効果を、もっと多くの人に知ってほしいと思っています。
※現在、レイキを代替医療と称することは、法律上禁止されています。レイキによって治療するとか、診断するということは、法律違反になります。この記事での表現は、あくまでもこの本の紹介であって、昭和8年当時の状況を想定していることをご承知ください。
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