2015年01月09日

Joy



OSHO氏の本を初めて読みました。

「ねえ、オショーもすごいよね?」

ちょっとスピリチュアル系の仲間からそう言われて、私は思いました。「和尚。なんじゃそりゃ?」

和尚(おしょう)ではなく、OSHOでした。インドの方のようで、瞑想が有名なのだとか。

知らないのなら本を読んでみるべし。ということで、さっそく検索して買ったのが、この「Joy(喜び)」という本でした。

翻訳は、スピリチュアル界では大御所の山川紘矢さん山川亜希子さん夫妻です。

このお二人が翻訳をされてる点からしても、内容は問題ないと安心しながら読みました。


例によって、気になった部分を引用してみましょう。

人間はこの上なく幸せにも、この上なく不幸にもなれる−−人間には選択の自由がある。だが、この自由はきわどく、この自由はきわめて危険だ。なぜならがあなたの責任だからだ。」(p.4)

人々は瞑想を求めている。瞑想が必要なのは、単にあなたが幸せを選択していないからだ。もしあなたがすでに幸せを選択しているならば、瞑想する必要はない。」(p.5)

非常に多くの宗教があるのは、非常に多くの人々が不幸だからだ。幸せな人には宗教は必要ではない。」(p.5)

異論はあるでしょうけど、核心を突いた言葉が「まえがき」に続きます。要は、幸せは自分の選択であり、幸せであれば何も必要ないってことですよね。


もし、あなたが眠っているのなら、快楽こそが幸せだ。快楽とは肉体の感覚だ。肉体を通じて、肉体では得られない何かを得ようとすること。肉体では得られない何かを肉体に無理やり得させようとすることだ。人々はあらゆる手段を使い、肉体を通して幸せになろうとする。肉体はあなたに瞬間的な快楽しか与えることができない。」(p.18)

この部分は、以前に紹介した「愛の選択」でも指摘されている内容です。

肉体はその欲求を満たそうとするだけで、欲求が満たされれば満足すると。しかし心は愛を求めているので、いくら肉体の欲求を満たしても、心は満足しないのです。


快楽は他人に依存している。幸せはそれほど他人に依存してはいない。しかし、それでもまだあなたとは切り離されている。至福は依存していない。また切り離されてもいない。それこそがあなたの存在そのものだ。それこそがあなたの本質なのだ。」(p.23)

どうやらOSHO氏は、快楽、幸せ、喜び、至福という段階というか、質の違うものがあると考えているようです。

快楽は肉体の欲求で、幸せは心の欲求だということなのでしょう。そして喜びは魂の欲求で、至福とは個を超えた全体との一体感だというわけです。


真の教育なら競争することなどあなたに教えないはずだ。協力することを教えるだろう。人と闘って一番になることを教えはしない。あなたが他人と自分とを比較したりしないで、創造的になること、愛情深くなること、至福で満たされることを教えるだろう。一番になってこそ幸せになれるとは教えない−−そんなことはまったくのナンセンスだからだ。」(p.37)

本当の教育なら、一番になることは教えない。何であっても自分がしていることを楽しむようにと教えるだろう。結果ではなく、していること自体を楽しむのだ。」(p.37 - 38)

本物の美は決してあなたによって創造されるのではなく、あなたを通してのみ創造される。実在が流れるのだ。あなたはただ、その通り道になる。あなたはそれが起こるのにまかせるのだ。それだけだ。それを邪魔しないこと。それがすべてだ。」(p.38)

これこそが最高の美と意味と真実のメッセージだ。結果については何も考えないこと。全力を尽くして自分が今していることをしなさい。それに没頭しなさい。自分を忘れて打ち込みなさい。」(p.39)

この一連の引用をみると、OSHO氏のメッセージがよくわかります。競争とか結果は、まったく意味がないということです。今目の前のことに没頭する。そのプロセスこそが重要なのだと。


ただ探すのをやめなさい。するとあなたはそれを見つける−−なぜなら、探すとは、マインドが努力することを意味し、探さないとは、リラックスした状態を意味するからだ。そして幸せを得ることはあなたがリラックスした時にだけ、可能なのだ。」(p.60)

これは聖書にあるイエスの「探せ、さらば見つからん。求めよ、さらば与えられん。」という言葉へのアンチテーゼでもあります。

あとの部分でOSHO氏は、これはイエスが悟っていなかったからではなく、聞いていた人々のレベルによるものだと説明しています。


しかし努力という次元では到達できないものがいくつかある。それらはあなたが完全に努力するのをやめた時に起こる。あなたはただ腰を下ろして言う。「もう十分だ−−私はもう努力しない」
 これがゴータマ・仏陀の覚醒の仕方だった。
」(p.66)

そうなのです。仏陀はあらゆる苦行をやりつくし、それでも悟れずに苦行を諦めた時、やっと悟ったのです。

そう考えると、今の仏教で盛んに苦行をやっているのは、いったいどういうことでしょうね。仏陀は一度も苦行を勧めなかったというのに。


人は幸せを望んでいる。そのために彼は惨めな状態を作り出す。もし、惨めさから抜け出したいならば、あなたは幸せに対する欲望から抜け出す必要がある−−すると、誰もあなたを惨めにすることはできない。これこそ、フロイトが見落としたことなのだ。幸せに対する欲望そのものが惨めさの原因であり得ることを、彼は理解できなかった。」(p.71)

だから、まず大切なことは夢を見ないこと、思い描かないことだ。一番大切なことは今、ここにいることなのだ。何があろうとも、ただ今、ここにいなさい−−すると素晴らしい啓示があなたを待っているだろう。」(p.73)

幸せは可能なだけでなく、それはすでに起こっている。それはあなたのすぐ前にあるが、よそを見続けているために、あなたはそれを見過ごしているのだ。」(p.74)

最後の引用の「幸せ」は、それまでの「幸せ」と少し意味が違います。彼の理屈で言えば、「至福」とした方が良さそうです。

翻訳の問題かどうかわかりません、本全体を通じて、「幸せ」に与える意味がコロコロと変わっているように感じました。


あなたのみじめさに気づくだけで、みじめさからの自由がもたらされる。そして残るものは悟りだ。悟りはあなたにやってくる何かではない。それは苦痛とみじめさと苦悩と不安が完全に良く理解された時、そして今やあなたの中に存在する理由を持たなくなったためにそれらが蒸発した時−−その状態が悟りなのだ。」(p.80)

何であれ何かに依存しているものは、喜びではなく、喜びではあり得ない。喜びはあなたのまさに中心から起こってくる。それは絶対的に独立している−−絶対的にいかなる外部の環境からも独立している。そしてそれは自分自身からの逃避ではない。それは真に自分自身と出会うことなのだ。喜びはあなたが心響に過えった時にやっと湧きあがるのだ。」(p.82 - 83)

つまり自分のみじめさに直面し、受け入れ、深く理解することで悟る。それによって自分と出会い、喜びが湧いてくる。そういうプロセスなのです。


もし子供が彼自身の性器で遊んでいると、それはいけないことだ。そして、それは子供の生の中で最も歓喜にあふれた瞬間のひとつなのだ。彼は自分の体を楽しんでいる。それはわくわくする。しかし、わくわくすることはすべてやめなければならない。すべての喜びは破壊されなければならない。それは神経症であり、社会が神経症なのだ。」(p.90 - 91)

この皮肉っぽい記述は、いったいどれほどの人の心に届いたことでしょうね。

なぜ人は罪悪感を持つべきなのだろうか?彼らは自分たちが何も悪いことをしていないのを知っている。どこからこの罪悪感はわきあがってくるのだろうか?それは、あの深く根ざした、喜びはいけないことだという条件付けから来ている。悲しいのは良いが、幸せなのは許されないのだ。」(p.91)

競争、他人との比較、嫉妬など、そういうものが自分が幸せでいることを許さないのですね。


これが理解できれば、物事は非常に明確になる。惨めさはあなたを特別にする。幸せは普遍的な現象であり、そこには何一つ、特別なものはない。木は幸せであり、動物は幸せであり、鳥は幸せだ。人間以外の存在全体が幸せなのだ。惨めでいると、人はとても特別で例外的になる。」(p.110)

誰一人、幸せな人を好きでない。なぜなら、幸せな人は他の人たちのエゴを傷つけるからだ。」(p.111)

もしあなたが許そうと努力するならば、それは本当の許しではない。努力を伴う時、あなたは抑圧しているだけだ。自分のマインドの中で続いているゲームの愚かさを理解した時に、あなたはやっと許すことができる。そのすべての馬鹿ばかしさを完全に見通さなければならない。」(p.122)

つまりエゴが、自分を特別視させようとして、あえて惨めになると言います。そしてエゴは他人に嫉妬して、自分を傷つけたと言って責めます。そういうゲームをやっているのだと完全に理解することが、許すということなのです。


まだ本の半分からしか引用していませんが、長くなるのでこのくらいにしておきます。

スピリチュアルとも心理学的とも言えるOSHO氏の不思議な話は、彼が執筆したものではなく、講演からおこしたものだそうです。

本の後半では、瞑想についても少し触れてありました。世界的な瞑想ブームの中で、ますますOSHO氏の人気は広がっているようです。


最後に、世界的な問題に対するアプローチについて、彼の考えを引用して示しましょう。

覚えておきなさい、あなたこそが世界の問題なのだ。あなたが問題だ、そして、あなたが未解決のままなら、あなたが何をしようとも、物事をさらに複雑にするだけだ。まず、自分の家をちゃんとしなさい、そこに秩序を作りなさい−−そこに混乱があるからだ。」(p.208)

中国の古典「大学」には、「修身斉家治国平天下」という言葉があります。

つまり「修身→斉家→治国→平天下」の順番なのです。天下を平和にしようとする者は、まずその国をよく治める、というわけです。最初は、自身を修めること、つまり修身が重要なのですね。

ちなみにこの大学の言葉には続きがあって、「格物致知誠意正心」とあるそうです。つまり修身の前の最初の最初は「格物致知」なのです。日々の出来事に対して、それを分析し、理解していくこと。私はこれを、自分の隠された信念と出合うことだと考えています。


それはさておき、さすがに噂に違わず、読み応えのある面白い本でした。もう1冊別の本を買ってあるので、それも読むのが楽しみです。

Joy
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:30 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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