そのすべてを要点として書き記したいのですが、それではあまりに長くなってしまうので、そのエッセンスをギュッと凝縮したものを書くことにします。
まず重要なポイントですが、この世は幻想であり、私たちは夢を見ているのだということです。
これは「神との対話」やバシャールなども指摘している通りです。
では私たちの本質は何かと言うと、それは愛なのです。神でも生命でもかまいませんけど。
「トルテックの視点からすると、私たちが自分について信じ込んでいることのすべて、そして私たちがこの世界について知っていることのすべては夢である。」(p.11)
「ほんとうの私たちは純粋な愛である。私たちは<生命(いのち)>そのものなのだ。」(p.12)
夢見手である私たちは、その夢の中で自分を創り出しています。様々な体験を通じて、本来の愛になろうとしているのです。
「神との対話」では、愛であることを体験するためには、まず愛でないことが必要だと言っています。
体験的に知るとは、比較するものが必要なのです。「愛でない」ということの体験がなければ、「愛である」ことも体験できない。それが相対的な世界です。
そこで私たちは、「飼い慣らし」というやり方で「愛でない」体験をするようになったと、本書では指摘しています。
「子供たちを観察してみれば、私たちがどのようにして真の愛と自由をだいなしにされていくかが分かるだろう。」(p.23)
親や周りの大人たちから、本当の愛で愛されないという体験を通じて、本来の愛と自由から遠ざかるのです。
こうして私たちは、愛がない世界を創り出しました。しかし、愛が本当に消えたわけではありません。
私たちは、この愛のない世界において、愛を発見するのです。そのことが、第三章「愛を信じなかった男」の物語で語られています。
「恋人同士の関係は、そのほとんどがちょうど麻薬常習者と麻薬の売人との関係のようなものだとよく言った。より依存度の高い方が麻薬常習者のようなもので、依存度の低い方が売人のようなものだ、と。」(p.40)
互いに相手の愛に依存する関係。それが愛のない世界なのです。
「もしかすると愛は確かに存在するのだが、しかしそれはみんなが愛だと思っているものとは違うのかもしれない」(p.45)
依存する関係ではなく、自由な関係において、義務のない関係において、互いに尊敬し合い、喜び合うことができる。それこそが愛ではないかと言うのです。
こうして男は本当の愛を発見したかに見えたのですが、その愛を壊してしまいました。それは、男がある間違いを犯したからです。
「間違いは、自分の幸せを彼女に与えることができると思った男の側にある。星は彼自身の幸せであり、彼の間違いは自分の幸せを彼女の掌中におさめようとしたことである。」(p.47)
つまり、相手を幸せにしてあげようとしたことが間違いだと言うのです。
ここが、愛についての重要なポイントになります。
自由であるとは、自分で決められるということです。つまり、幸せになるかどうかさえも、自分が決めることなのです。
それなのに誰かを幸せにしてあげようとすれば、それは自分の意思を押し付けることになります。つまり、相手の自由を奪うことなのです。
それは同様に、自分の幸せは自分の責任だということにもなります。
「で、もし幸せがあなたの内側からしか湧き出ることができず、それがあなたの愛の結果なら、あなた自身があなたの幸せの源なのである。自分自身の幸せの責任を誰かに負わせることは決してできないのだ。」(p.47 - 48)
つまり、自分の中の愛で自分が幸せになる。自己完結しているものだというわけです。
そこを勘違いするから、私たちの人間関係では愛による喜びではなく、苦痛が生じることになります。
「あなたがどれほど誰かを愛していようと、あなたは決してその誰かが望むとおりの人間にはなれないだろう。
これは私たちのほとんどがまず最初から犯す間違いである。私たちは自分の幸せをパートナーに託すが、それではうまくいかない。私たちは守ることのできない多くの約束を交わし、そして身動きがとれなくなるのである。」(p.48)
これは「神との対話」などでも指摘されていることです。だから自分に正直になれとか、相手に期待するななどと言われるのです。
では、愛し合う関係においては、どうであるべきなのでしょうか?
「あらゆる夢見手は、それぞれの仕方で夢を見ている。だからこそ、二人の夢見手の間に存在する相違を受け入れる必要があるのだ。私たちはお互いの夢を尊重する必要があるのだ。」(p.50)
つまり、相手は相手、自分は自分ということです。これは一見すると無関心のようにも見えます。
マザー・テレサは、愛の反対は無関心だと言いました。この世には、正反対のものが最もよく似ていることがよくありますね。
この無関心のように見える関係こそが、互いに相手の自由を尊重した、本当の愛の関係なのです。
「愛には義務がない。恐れは義務だらけである。」(p.52)
「愛には期待がない。恐れは期待でいっぱいだ。」(p.52)
「あらゆる人間関係には二つの半分がある。一方の半分はあなたであり、片方の半分はあなたの息子、娘、父親、
母親、友人、あるいはパートナーである。二つの半分のうち、あなたに責任があるのはあなたという半分だけである。もう一方の半分には、あなたは責任はない。」(p.59)
自分のことについては責任を持っても、相手のことは責任を持てないのだと認める。そして、相手は相手でうまくやると信じて、相手の自由に任せる。
この相手を信頼する関係こそが、愛の関係だと言うのです。
「そして最後に、もしあなたがあなた以外の誰ひとりとしてあなたを幸せにすることはできないということ、そしてあなたの幸せはあなたの内側からあふれ出す愛の結果なのだ、ということに気づけば、それはトルテックの最大の技(アート)、愛の修得(マスター)となるのだ。」(p.64)
これが悟りであり、本書の結論になります。
ですから、私たちがすべきことは、自分の中の愛に気づき、その愛で自分を愛することなのです。
そのためにも、自分に正直であれと言います。
「あなたは完全に自分に正直である必要がある。ほんとうはどうしたいのか正直に言い、踊る意思があるのかないのかを知らなければならないのだ。」(p.66)
誰かの期待に応えること神経をつかうべきではないのです。
「いったんあなたがありのままの自分を受け入れたら、次のステップはあなたのパートナーを受け入れることである。もし誰かと共にいる決心をしたら、彼女の何ものをも変えようとしないことだ。」(p.73)
ありのままの自分を受け入れたら、次はありのままの相手を受け入れるのです。
「あなたのパートナーもかなりのゴミを抱えている。あなたのパートナーがゴミを抱えていることを知って、あなたは彼女自身に自分のゴミを片づけるようにさせる。あなたは彼女を、そのすべてのゴミとともに愛し、受け入れるのだ。あなたは彼女のゴミを尊重するのである。」(p.77 - 78)
自分も相手も、不完全なところがあるように見えるかもしれませんが、それこそが私たちにとって重要なものなのです。その不完全さこそが、私たちに必要な体験をさせてくれる仕掛けなのです。
ですから、不完全に見えることを、そのままに許容することが大切なのです。
「あなたが自分自身に対して利己的になるのは、自分への愛がないからだ。だからあなたは自分を愛する必要がある。そうすれば愛はますます大きく育っていくだろう。それからあなたが関係を結ぶとき、それは愛される必要があるからではなくなる。それは自由な選択となるのだ。」(p.91)
他人に不満を覚えるのは、愛が不足していると感じるからです。しかし他人と関係を結ぶのは、他人の愛を得るためではありません。愛は自分の中にあります。だからその愛で、まず自分を癒やすのです。
愛する男女の関係において、セックスはとても重要です。しかしそのセックスによって、愛が台無しにされることがあるのも事実です。
本書ではセックスというテーマでも、一章を割いて説明しています。
「人生のある特定の時期になると、私たちはいやおうなしに性的魅力を感じるようになる。それはまったく正常なことだし、何の問題もない。興奮させられるとき、触られるとき、視覚的に刺激されるとき、セックスの可能性を感じるとき、体は性的なものを感じる。体は性的なものを感じることができるが、しかし数分後には感じなくなったりする。刺激がやめば、体はセックスの欲求を感じなくなるのだ。」(p.112)
つまり、空腹になれば食べたくなるけれど、食べてしまえば空腹を感じなくなる。それが正常な身体の働きだというわけです。
しかし、性的に抑圧されると、心はかえってその性的なものへの思いをつのらせ、執着することになります。
そのことによって、本来なら正常な身体の欲求にすぎないのに、心の欲求にすり替えてしまうのです。
「あなたの体にはどうしても満たさなければならない欲求がある。食物や水、住まいや睡眠、セックスへの欲求も満たさなくてはならないのだ。これらすべての体の欲求はまったく正常なものであるし、またこれらの欲求を満たすのはとても容易である。問題は、心がこれらを私の欲求だと主張することにある。」(p.116)
過食症なども、まさにこの通りでしょう。身体の欲求がなくなっているのにも関わらず、心の欲求が満たされないために、まるで空腹であるかのように錯覚するのです。
「欲求が心の中にあるとき、すべての裁き、すべての知識をもまたそこにある。それがセックスをとても扱いにくいものにするのだ。心はセックスを必要としていない。心がほんとうに必要としているのは愛であって、セックスではない。」(p.117)
心の欲求は愛です。愛で満たされたいという欲求を、性的な欲求にすり替えるために、性犯罪を犯すほどの性欲を示すことになるのです。
「私たちは心という独裁者から自由を奪い返し、体にそれを戻してあげなければならない。もし私たちが心の中で
食べ物への欲求、セックスへの欲求をもはや抱かなくなれば、すべてはとても容易になる。」(p.117)
つまり、私たちの心が身体に依存することが、問題を難しくしています。
これはちょうど、人間関係と同じです。相手に愛を求め、相手に依存してしまう。そのことが、人間関係を難しくしています。
ですから同じように、身体への依存を手放すことによって、心は自由になるのです。
「人は愛の狩人となる。私たちが愛が必要だと感じるのは、自分には愛がないと思い込んでおり、自分自身を愛していないからだ。私たちは自分とよく似た人から愛を得ようとして狩りをする。彼らもまた私たちと同じような状態にある
というのに、その彼らから愛が得られると期待するのだ。」(p.125)
これは、ギリシャ神話のアルテミスの物語を題材に語られている部分です。
狩りの名手であるアルテミスの物語から、本当は自分の外ではなく、内で狩りをすべきなのだと説きます。
「あなた自身の内側で狩りをするには、あなたはまず、自分のあらゆる反応を相手に狩りをし始めなければならない。一度にひとつずつあなたの決まりごとを変えていくのだ。それはあなたの人生をコントロールしている夢から自由になるための戦いである。」(p.128 - 129)
自分の中の古い信念に気づく戦いです。執着していたものが、実は執着する必要がなかったと気づくのです。それによって、新たな信念に書き換えるのです。
そして、先ほどのセックスの話でもあったように、自分自身の身体を受け入れることが重要だと言います。
「あなたの体はあなたの心からすべての愛を受けようとしているのに、あなたの心はこう言うのだ。「嫌だ、体のこの部分が気に入らないんだ。この鼻を見てよ、こんな鼻いやだ。耳ときたら、大きすぎるし、体は太りすぎだし、足は短かすぎる」心は体についてありとあらゆる想像をすることができるのだ。」(p.134)
まず、自分の身体と和解することです。完全に受け入れることが大切なのです。
「あなたが自分自身と結ぶ関係が、あなたの相手との関係に反映されるからである。」(p.135)
自分の身体を受け入れない限り、他人を受け入れることはできません。つまり、他人を愛することができないということです。
「あなたをまっすぐに天国に連れていくような関係を築くためには、完全に自分の体を受け入れなければならない。あなたは自分の体を愛し、内気になることなく、ただあるがままでいる自由、与える自由、受け取る自由を許してあげなければならない。なぜなら、「内気」とは恐れに他ならないからだ。」(p.135 - 136)
不安(恐れ)を捨てて、あるがままの自分を受け入れる。そこに完璧さを見てとるのです。それが、愛するということなのですから。
そうやって自分を完璧に愛するなら、他人との関係でも自由になり、他人を完璧に愛せるようになるのです。
身体を愛するために、こういう習慣を持つようにと言っています。
「シャワーを浴びるとき、入浴するとき、あなたの愛のすべてをもって接し、丁寧に、感謝の気持ち、敬意を込めてあなたの体を扱いなさい。食事をするとき、ひと口ごとに目を閉じ、その味わいを楽しみなさい。その食べ物はあなた自身の体、神が宿り給う神殿への供物なのだ。これを毎日行いなさい。そうすればあなたは、自分の体への愛が日増しに強くなっていくことを感じ、二度と再び自分を拒絶しようなどとはしなくなるだろう。」(p.141 - 142)
これは私も実践している習慣です。私からもお勧めしたいと思います。
「あなたが自分自身との間の完璧な関係を築くことを目標とするとき、あなたは母親や友達、恋人や子供たち、さらにはあなたの愛犬をも含む、まわりのあらゆる人々や生き物との完璧な関係を持つことを学んでいるのだ。あなたが自分の肉体と完璧な関係を結ぶとき、その瞬間、あなたとあなたの外部とのどんな関係においても、あなたの占める半分は完全に満たされる。あなたはもはや、良い関係を結ぶために外部に頼らなくなるのだ。」(p.142)
このように、まず自分の身体を愛することを勧めています。
それが自分を愛することであり、それによって他人との関係を愛に満ちたものにできるようになるからです。
他人との関係においては、許すということが重要になります。
「あなたのことを傷つけた者たちをあなたは許さなくてはならない。たとえ彼らのしたことがあなたの心の中では許し難いものに思われても。あなたが彼らを許すのは、彼らがあなたの許しに値するからではなく、彼らがあなたにしたことを
思い出すたびに苦しみ、自分を傷つけたくはないからだ。」(p.155)
つまり、自分を傷つけないために、自分への愛として、他人を許すのです。
「許すことを心がけ始めなさい。許すことを実践し始めなさい。初めはとても難しいかもしれないが、しかしやがてそれは単に習慣となる。許しを回復させる唯一の方法は、もう一度実践することである。」(p.160)
許し難いと感じられても、それでも許すのです。そうして、許すという習慣を身につけることを勧めています。
「愛こそ癒しのプロセスを速める薬なのだ。(中略)
あなた自身を愛し、あなたの隣人を愛し、そしてあなたの敵を愛しなさい。これは単純で、常識ではあるが、しかし私たちが自分自身を愛するようになるまでは、他の誰のことも愛することはできない。私たちが自己愛から始めなければならないのはこのためである。」(p.162)
許したあとは愛すること。愛するときは、まず自分を愛すること。自分を愛さない限り、他人を愛することはできないのです。
そして、繰り返しになりますが結論としてこう言います。
「幸福を表現する仕方は数え切れないほどあるが、真に幸福になる道はたったひとつである。それは、自分を愛することである。他に道はない。あなた自身を愛していなければ、あなたは幸福にはなれないのだ。」(p.163)
自分を愛することが始まりであり、それがすべてなのです。
このようにして愛を実践することで、私たちは愛のマスターになります。
それが私たちの生きる目的です。私たちの本質は愛ですが、この世では愛になろうとしているのです。
なぜ、そんなことをするのでしょう?それは「神との対話」にも書かれていますが、自分自身を体験的に知るためです。
「あなたは、自分の心で遊び、体をお気に入りの玩具(おもちゃ)のように使って楽しむ<力(フォース)>である。遊び、楽しむこと。それこそが、あなたがこの世にいる理由である。」(p.167)
自分を発見するゲームをしているのですよ。
「目覚めると、あなたは後戻りのきかない一線を越え、そして二度と同じように世界を見ることはなくなる。あなたはまだ夢を見続ける−−なぜなら、夢を見ることは避けられないから、夢を見ることは心の働きだから−−のだが、しかし違いは、あなたがそれを夢だと知っている点にある。それを知った上で、あなたは夢で楽しむこともできるし、苦しむこともできる。それはあなた次第なのだ。」(p.174)
夢見手としての私たちは、これからも夢を見続けます。しかし、悟りを開いて見る夢は、苦しむことも楽しむことも自分の自由です。苦痛さえも楽しむことができるのです。
「神に至るため、悟りを開くため、目覚めるためのいかなる努力も不要である。あなたを神のもとに連れて行ける人など誰もいない。もしあなたを神へと導いてあげようと言う人がいたら、その人は嘘つきである。なぜなら、あなたはすでに神と共にいるからである。あなたがそれを望もうが望むまいが、逆らおうが逆らうまいが、あなたはすでに神と共にいるのである。
残された唯一のことは、人生を楽しみ、溌溂と生き、あなたの感情体を癒し、それによって自分の内なるすべての愛を惜しみなく分かち合えるような人生を創造することである。」(p.181)
私たちは、神から離れたことはありません。私たちは「ひとつのもの」であり、神そのものなのですから。
私たちは、自分を再発見するというゲームをするためにこの世に生まれ、自分の自由に人生を創造しています。
そして、愛のマスターになるために生きているのです。
「あなたがまわりのあらゆるものに対して抱く愛は、あなたが担う半分である。他の半分は木かもしれないし、犬かもしれないし、雲であるかもしれない。あなたは関係のうちの半分なのだ。もう半分はあなたが知覚するものである。夢見手としてのあなたは半分で、他の半分は夢自体である。」(p.182)
私たちは、夢を創造し、その夢と共に生きています。夢と関係を持つことで、人生を創造しているとも言えます。
ですから常に重要なのは、自分自身を愛することです。自分を愛することで、自分の内側にある愛に気づくことなのです。
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