前回は「おかげさまで生きる」という本を紹介しましたが、今回は矢作直樹氏の話題になった本を読んでみました。
この本が話題になったのは、科学的に権威のある東大の医師が、正面から魂の存在を主張したからだと思います。
救急医療の現場にいた方ですから、生き返った事例などから、魂の存在を科学的に証明したのではないかと期待したのでしょう。
実のところ私も、そういう期待を持って読みました。しかし、期待はあっさりと裏切られました。
「ただ、私はこうした霊的現象を科学的に証明する必要があるのか、とも思うのです。本書では何度も繰り返し述べてきたことですが、そもそも摂理や霊魂の概念は、自然科学の領域とは次元を異にする領域の概念であり、その科学的証明をする必要はないのではないでしょうか。」(p.197)
このように矢作氏は言って、科学的に証明することそのものを否定しています。
ではこの本は、いったいどういうことが書いてあるのでしょう?それを「あとがき」で端的に説明しています。
「実のところ、本書のモチーフは極めてシンプルなものです。人間の知識は微々たるものであること、摂理と霊魂は存在するのではないかということ、人間は摂理によって生かされ霊魂は永遠である、そのように考えれば日々の生活思想や社会の捉え方も変わるのではないかということ、それだけです。」(p.221)
とは言っても、やはり矢作氏の様々な体験が、そういった気づきをもたらしたことは間違いありません。
その体験の数々が、この本には書かれています。
たとえば、ご自身が登山で2度も滑落しながら死ななかったこと。また2度目の滑落の時は、もう山に登るなという不思議な声を聞いたこと。そして、お母様が亡くなられた後、霊媒を通じて会話し、それがお母様に間違いないと思われたことなど。
また、救急医療の現場でも、不思議な体験をした患者さんの話や、科学では説明のつかない事例が無数にあることを語っておられます。
私が驚いたのは、それほど忙しい仕事をされていながら、実に多くの書物に目を通しておられることです。
スピリチュアルなことを科学的に研究した西洋の事例は、矢作氏の知識が半端ではないことを裏付けています。
そうしたこれまでの体験から、子どもの頃に抱いた「人にはどうして良心があるのか?」という疑問に対して、一定の答を出されたのだと思います。
「「正直の頭に神宿る」という言葉がありますが、良心とは人が現世で生きていくための道標となる摂理の声であり、我々はその声に素直に耳を傾けて従い、あるがままに生きていけばよいのではないでしょうか。」(p.200 - 201)
このように、良心にしたがって生きようとすることで、人生は豊かで意味のあるものになると言います。
しかし、だからと言って善人が幸せになって、悪人が不幸になるわけではありません。理不尽なことというのは、間違いなくあるのです。
それでも矢作氏はこう言って、摂理にしたがうことを勧めるのです。
「けれども、我々の人生の旅は死後も続く、摂理の意思は悠久の生の中で折り合いがつくよう働いている、と考えれば現世での苦しみや悲しみが多少なりとも癒やされるのではないでしょうか。いや、そのように考えないと、矛盾に満ちたようにもみえるこの人生を理解できるものではありません。」(p.201)
これはある種のあきらめのようなものだと思います。
人の智恵には限界があり、すべてを解明できるわけではない。それなら、受け入れるしかないではないか。それが矢作氏の考え方なのでしょう。
「私は、人類の歴史とは、摂理が創造した宇宙の森羅万象の謎、いいかえれば「創造の法則」を、あたかも宝探しのように少しずつ解き明かしながら自分探しをする旅のようなものだと思っています。」(p.203)
矢作氏が今に至って、やはり永遠に生きる魂が存在すると信じる、と世間に対して告白した。それが本書なのではないかと感じました。
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